選挙となれば〝口だけ〟ばら撒き政策ばかり主張していた左派野党が、今回は夫婦別姓と同性婚合法化の訴求に必死だ。今までこうした問題にあまり関心示さなかった日本共産党も、(自称)リベラル政党との共闘を始めてから伝統的な家族観を破壊するような法案を積極的に推奨するようになった。

 しかし、歴史に鑑みると、共産主義者が家族の絆を破壊させようとしているのはこれが初めてではないのだ。
ナザレンコ・アンドリー:夫婦別姓と同性婚合法化が招く"...

ナザレンコ・アンドリー:夫婦別姓と同性婚合法化が招く"国家の破壊"

ソ連に学ぶ:家族崩壊策は「党への忠誠」を高めるため

 そもそも、共産主義者の間では、伝統的な家族(特に一夫一婦制)は資本主義社会によって生み出された男の支配欲に基づく旧態依然なものであり(すなわち、相続財産が確実に自分の実子によって受け継がれるという目的を持って女性を束縛するためという理屈)、私有財産がなくなれば必然的に家族の必要性もなくなる、と往々にして考えられていた。

 だから共産主義者は「搾取からの解放」という名目でフェミニズムや自由恋愛を訴えていた。

 …が、これはあくまでも建前であり、本音は「党より家族を愛するのはけしからん」だった。実際にソ連政府は家庭教育ができなくなるよう共働きを推奨し、できるだけ早い段階で子供を親から離させ、7歳から「オクチャブリャータ」という子供用共産党に強制入団させ、10歳からピオネール(少年用共産党)に、15歳からコムソモール(青年用共産党)に、18歳から赤軍に徴兵し、その後は共産党への入党をするよう促していた。つまり人格形成がなされる時期は全て共産党の指導・監視下で過ごすことになっていたのだ。
 当然、子供は教育の一環として、家族よりイデオロギーに忠誠心を抱くよう洗脳されていた。例えば、模範的な少年として祭り上げられたのは誰かというと、パヴリク・モロゾフという人。彼は1931年、自分の実父を秘密警察に密告し、彼の証言によって父が労働収容所に送られた、という人物だ。その行為は「社会主義者の鑑」として美化され、調子に乗って村人を密告しまくり始めたモロゾフ氏が数年後に殺されると、殉教者としてプロパガンダの道具に使われ、殆どの子供用教科書に載せられた。

 家族内の関係を悪化させると同時、党は家族の代わりになろうとしていた。それに関する有名なロシアンジョークがある。

 「君の母はだれだ」
 「わが偉大な祖国,ソビエト連邦です」
 「君の父はだれだ」
 「わが偉大な指導者,スターリン閣下です」
 「君は何になりたい」
 「・・・孤児になりたい」
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ナザレンコ・アンドリー:夫婦別姓と同性婚合法化が招く"国家の破壊"

父親を密告することでソ連時代に「模範的」とされたパヴリク・モロゾフ
via wikipedia
 スターリンは新聞等で「国民の父」と呼ばれ、共産党も「民の母」を名乗っていた。共産党のせいで本物の家族愛を知ることができなかった青少年の底知れぬさみしさを利用し、本来は親族に向けるはずだった愛情を共産主義に向けさせて、ファナティック(狂信的)な忠誠心を育てていたわけだ。

 以上のような歴史的経緯を踏まえると、左派リベラルによる家族の絆を破壊する試みは共産党にとって実に都合がよくて、喜んで加担しているというのが実状であろう。

反論を封殺しようとする「人権尊重」派

 さて、私は2019年からツイッターを始めて、表現の自由を尊重する気持ちからブロック機能をなるべく使っていないので、様々な人からコメントを頂いている。そこで気付いたのは、普段から「外国人参政権賛成!」と言っている人も外国人から保守的な意見を聞くと「外人は口出しするな」と言ってくるし、「ヘイト反対」と声高に叫ぶ人も外国人に反論されると「日本から出ていけ」と言い出す傾向があるということだ。

 リプライではなく自分のツイッター・ページという個人空間で意見を述べているにすぎないのに、わざわざそこへ外からやってきて、暴言を吐かれるわけだ。そういう人は、もし夫婦別姓が認められたら、大人しくなるはずがない。今度は同姓を選んだ方のところに侵入して、「同姓を選ぶのは家父長制への加担だ」や「同姓を選ぶ女性は名誉男性だ、恥を知れ」といったふうに、攻撃してくる未来が見えてくる。

 つまり、欧米でいつの間にかLGBTとの「共生」はLGBT化の「強制」に変わったのと同じパターンだ(参考記事)。夫婦別姓を「個人の選択なんだからいいんじゃない」と軽く考えていると、いざ実施の際には実質的な「強制」になりうることを危惧することは、杞憂とは言えないであろう。
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ナザレンコ・アンドリー:夫婦別姓と同性婚合法化が招く"国家の破壊"

「人権尊重」のはずなのに反対派の人権は尊重しない不思議

そもそも同性カップルに寛容な日本

 さらに個人的な意見を述べると、夫婦別姓は女系天皇と同じような罠だと思う。つまり、女系天皇はそもそも存在し得ず、皇室とは無関係な別の家系の男ということと一緒で、別姓家族も存在しえず、それは一家を構えず単に同棲している男女に過ぎない、ということだ。

 このようにあり得ない設定がいかにも「現代の潮流」だから可能かのように訴え、本質的要素を無くすことによって皇室と家族を滅ぼすことが狙いなのであろう。(そもそも旧姓併記に熱心に反対している時点で、女性の生きやすさではなく、戸籍制度を壊すことのほうが目的であることがバレバレではないか?)

 同性婚合法化は「自由化」のように聞こえるが、実は今の日本だって同性カップルの自由恋愛は否定されるわけではなく、むしろBL漫画が流行るくらいめちゃくちゃ容認されている。つまり同性を愛する権利は全く侵害されていないのは現状なのだ。

 とすれば、合法化論者が目指しているのは愛する権利ではなく、国家に税負担削減などの法的優遇してもらうことであろう。しかし、優遇してもらうこと=他の誰かに負担をかけることなので、むしろ他人の自由を束縛する結果となることを理解しているのであろうか。その時点でもはや個人の自由の話ではなく、社会福祉と血税の使い道の話となり、有権者のコンセンサスを得ずに進めることは反民主的ということなのだ。

 また、トランスジェンダーリズムまで認め、性自認を本当の性別より重視し始めたら、女性が本来避けられた物理的な被害を受けることも懸念される。人口の1%にも満たない層のために半分を占める女性を危険にさらすような法案は論外であろう。
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ナザレンコ・アンドリー:夫婦別姓と同性婚合法化が招く"国家の破壊"

日本はそもそも同性カップルに寛容だが、「法制化」となると別の問題であろう。

結婚は「権利」だけでなく「義務」を伴う

 そして何よりも危険なのは、結婚を義務なき権利に思ってしまう風潮が広がることによって家庭を軽く考える人が増えることだ。結婚と子育てには権利以前に、重大な責任が伴うのである。殆どの子供にとって家庭は初めて愛情、尊敬、助け合いの精神など、人間の倫理観の基盤となる美しい気持ちを学ぶ場所だ。家族は国家よりもずっと古い概念で、その絆を大切にする義務感は遺伝子のレベルで本能として刻まれている。自己中心的なイデオロギーに騙されたら一時的な快楽を得ることはできるかもしれないが、その代わりに真の幸福を感じる機会を失われてしまうこともあるし、自分だけが損するならまだしも、罪のない・親を選べない子供にまで一生治らないトラウマを負わせることも十分ありえる。

 我々の祖先は自己のことよりも後世のことを考えてくださり、血と汗を流して今の時代を作り上げたからこそ私たちはいる。「時代に合わせる」という聞こえのいい言葉を信じて、そのレガシーを捨ててしまって本当にいいのだろうか?私たちは使命感を捨てて自らの利便性のみを追求する個人主義に走りすぎたら、子供たちに一体どんな未来を残せるか?

 様々な議論が行われている今こそ一回立ち止まり、家族の意義と正しいあり方について深く考える必要があるのではないだろうか。
ナザレンコ・アンドリー
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。

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