ナザレンコ・アンドリー:ポリコレ・多様性で瓦解する欧州...

ナザレンコ・アンドリー:ポリコレ・多様性で瓦解する欧州と保守政党の台頭

ヘンなところばかり欧米を見習う愚

 日本では政治的議論をする際、左翼リベラルから「欧米では〇〇」や「日本は(欧州に比べて)遅れている」といった話をよく聞く。ネットでもよく「出羽守(でわのかみ)」と言われているが、そのような「欧米の方が進んでいる論」を聞かされるたび、筆者はこのロシアン・ジョークを思い出す。

「同志、資本主義の現状はどうなっているかね?」
「はい同志、資本主義は崖っぷちに立っています!」
「では、共産主義の現状はどうかね?」
「はい、共産主義は常に資本主義の先を行っています!」

 「普通の感覚」を持つ人なら、他よりも進んでいるか否か比べるより、自分たちがどこへ向かっているのか、という方が重要であることは明白だろう。そもそも、いつ何時も欧米の選択する方向や価値観が正しいわけでも、それと相反する日本の選択や価値観が間違っているわけでもない。それに最近の欧米には、模範にするに値するような素晴らしい文化や、羨むべき事情は本当にあるだろうか。

 もちろん外国から学ぶこと自体の重要性は否定しない。グローバル化が進んだ現代で鎖国がほぼ不可能な以上、国際社会における競争力の向上は生存競争のうえで必要不可欠だし、かつて日本も明治維新において御雇外国人や使節団派遣を通じて海外の最新技術と一部文化を取り入れながら日本の国力を上げたからこそ、急速に目覚しい近代化を成し遂げ、短期間で大国の清(中国)とロシア相手に戦争で勝つことができた。しかし明治時代と現代の欧米ではまったく異なる。

 良し悪しはさておき、150年前の西側諸国はごく稀な例外を除き、全世界を植民地支配できるほどの強力な力を持っていた(だからこそ対等な関係を築くために、それに劣らないほどの国力を備える必要があったし、欧米を強くさせている要素を取り入れるだけの価値があった)。

 しかし現在、むしろ欧州はアラブとアフリカ系移民に植民地とされる側になり下がった。経済的にもアジア諸国に追い抜かれつつあり、企業はロシアの天然ガスとチャイナマネーに依存しすぎた結果、日本の人権問題には偉そうに口は出せても、中国による民族のジェノサイド(大量虐殺)はスルーせざるを得ない(最低な企業はスルーどころか、ウイグル人の奴隷労働で利益を得ている)。おまけに「偽善」が先走った緩い移民政策のせいでテロも日常茶飯事となり、性犯罪にしても暴力犯罪にしても、安易に価値観が異なる移民を入れたことで犯罪率は日本よりずっと高いのが現実だ。

 また映画や漫画などの文化面では、白人の役を黒人にやらせたり、スリムな体型の役をグラマラスな体型の人にやらせたり、と過剰なポリコレ配慮による弊害が多数見られている。それはただの原作の設定破壊であって、多様性を認めることではない。また登場人物の性別を意図的にトランスジェンダーに変更する例も少なくない。そうしてポリコレに毒された結果、コンテンツそのものの面白さもなくなり、今では日本のアニメ・マンガや韓国のドラマの方が世界的にも人気が高まっている。

 一部の活動家は前述した事柄が日本でも起きてほしいと思って安易に「欧米を真似しよう」と訴えているのだろうか。日本は欧米とは異なり、独自の文化や価値観を大切にしてきたからこそ、欧米で起こるような悪い問題が起きずに済んできたということに、なぜ考えが及ばないのだろうかといつも不思議に思う。
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そもそも日本は過去より「多様性」には寛容であった。いまさらLGBTの概念を最先端として導入することは疑問だ。

過去からの「善」が「悪」となることで劣化する文化

 では、何が欧米に「劣化」をもたらしたのか。本来ヨーロッパは、ずっとプラトンの時代から「絶対的理想」を追求することを文化の大事な基盤としてきた(プラトンは、現実世界は理想的な世界の投影にすぎず、真善美を求める活動こそが物事の本質だと主張していた)。

 たとえば、いまだにオリンピックの公式スローガンとして用いられている「Citius Altius Fortius=より速く より高く より強く」もその象徴的な一例であろう。古代哲学者は絶対的真理の発見を生き甲斐にし、古代ギリシアの彫刻は鍛え上げた健康的身体の美を讃え、ローマの指導者は世界最強の帝国を目指していた。つまり成長・発展すること自体は善に思われ、成功者こそが敬われ、模範にされる存在だった。

 しかし当然、そのような考え方にはメリットもあればデメリットもある。激しい競争の中で人間はより強くなる一方、「何が真理なのか」をめぐる争いは後を絶たないし、弱者にとってはとても厳しい世界であることは想像に難くない。

 バランスを正して調和を図れば良かったものの、今の欧米はそれとは対照的に「多様性」という名の下で逆方向へ走りすぎた。自然に「美しさ」「女らしさ」を求めて努力する女性はフェミニストに吊し上げられ、あえて「結婚」「ダイエット」「毛の処理」などを安易に否定する「文化の破壊者」たちを左翼リベラルやメディアは賛美する。男らしさは「トキシック・マスキュリニティ」(有害な男らしさ)と罵られ、LGBTであるだけで特別視・英雄視される。そして歴代の哲学者と科学者が最重視していた真理よりも、尊重しだしたらキリがない「個人の気持ち」が大切にされるようになった(イデオロギーに反する研究は禁止に)。

 つまり、これまで「善」とされてきたものは「大罪」として扱われるようになり、努力しない・良くなろうとしない・周りに責任転嫁して自己のわがままを「自由」と称して生きることが美徳とされるようになったわけだ。しかし当然ながら、退廃と怠惰を崇拝する思想が基盤では、社会が発展するはずがない。
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現在の欧米の繁栄は過去の偉人たちの努力、それに伴う高度な文明があってからこそと言える。決して「LGBTやリベラルがいるから」ではない
※写真はミケランジェロのダビデ像

左翼の主張は国を弱体化させるものばかり

「そうは言っても、ヨーロッパもアメリカも豊かではないか」という反論も予想される。

 しかしここで重要なのは、本当に上記してきたような「マイノリティへの過剰な配慮」や「これまでの伝統や文化の破壊」などの現代的なイデオロギー(歪んだ多様性)のおかげで豊かになったのかだ。それは、あくまで長い期間をかけて豊かになった時期と、ここ最近の過剰な多様性の強制の時期が重なっただけの「結果論」にすぎないのではないだろうか。

 決して、私はそうは思わない。過去に先人たちが懸命に努力して積み上げてきた富や他国を支配した時代に先住民から奪ってきた富が尽きておらず、欧米の諸国民が左翼リベラルの「耳障りのいい言葉」に惑わされることなく、古き良き伝統と習慣を守り続けている人が未だに多くいるからこそ、欧米社会は滅びずに成り立っているのである。

 しかし、そうした伝統が失われつつあり、国家を支える人々と国家を否定する人々の割が崩れ始めているからこそ、多くの欧米思想家たちは祖国の未来を憂えるようになったわkである。それらはトランプ前大統領のような保守的な政治家たちが、より支持されるようになった原因でもある。

 多くの国で「祖国がおかしくなってきた」「このままでは国が崩壊する」と愛する母国へ危機感を募らせている人が増え、保守政党が台頭しているのを見ると、西欧の左翼を真似すべきという主張こそ時代遅れに思える。

 それは日本も例外ではない。明治時代、日本人はしっかりと日本人に合うものと合わないもの、重要と重要でないものを見極めることができた。そのおかげで、欧米化が害にならなかったのだ(儒教についても、良いところだけを学びとして取り入れたからこそ、中国や韓国のように儒教の呪いに縛られることもなかった)。

 現在の日本人も、欧米化と近代化が同義語だった時代がとっくに過ぎたことに早く気づき、しっかりと「欧米を強くしている思想」と「欧米を破壊している思想」を見極めることで、後者ばかり持ち込もうとする活動家を信じないよう十分に気を付ける必要がある。「欧米では〇〇」しか言えず、それがなぜ良いなのか説明できない人たちには「だから何なの?」という回答で結構だろう。
ナザレンコ・アンドリー
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。

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シーチン修一 2022/1/6 18:01

とても良い論稿だ。今後にも期待しています。バックナンバーも読むつもりです。

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