6月5日、拉致被害者家族会の初代代表・横田滋さんが、87歳で逝去した。死因は老衰だった。13歳で北朝鮮に拉致された最愛の愛娘めぐみさんとの、再会はとうとう叶わなかった。

 第一報を聞いた時、私は、なんとも表現のしようのない複雑な感情が胸に広がるのを感じた。拉致事件の取材は、駆け出しのライターだった私のキャリアに、色々な意味で、影響を与えたからだ。
 横田夫妻へのインタビュー、めぐみさんの遺骨取材の過程で受けた官僚や出版社からの仕打ち、地村さん・濱本さんのご家族への取材――さまざまな思いが去来した。
 2002年の小泉訪朝で5人の日本人拉致被害者が羽田空港に降りたってから、18年が過ぎた。滋さんの87年の人生は、42年間をかけて娘を探し、待ち続けるという過酷なものだった。この18年は、特に一日千秋の思いだったのではないか。

「横田さん、福井県の小浜に行ってくれるかな? 今度の小泉訪朝で、拉致被害者が何人か帰ってくるらしいので、臨時増刊号を出す。ついては、ご家族へのインタビューを頼みたい。小浜は、昭和53年に拉致された地村保志さんと交際相手だった濱本富貴恵さんの住んでいた場所だ」
 と、『AERA』デスクから言われたのは、9月の首脳会談の2カ月ほど前だったように思う。申し訳ないが、その時まで、私は、北朝鮮の拉致問題について、ほとんど知識がなかった。俄勉強をして、東アジアの外交問題に精通している記者などに会って話を聞き、その驚くべき内容を始めて知ったという次第だった。

 そして、当時のメディアの論調は、
「帰国者でほぼ確定していてるのは、横田めぐみさんと有本恵子さん、他にあと何人か戻されるか」
 という極めて罪深いものだった。
『AERA』は、朝日新聞社発行の看板雑誌である。横田さん、有本さん宅には、スター記者を何人も張り付かせたが、地村さんや濱本さんはノーマークに近かったので、私のような駆け出しのフリーランスを使ったのだ。

 正直、小浜に行って地域の温度差に少し驚いた。両親戚・縁戚の中には、
「拉致されたとかもう騒ぎにしてほしくない。子どもが学校で〝あの家の子だ〟と、いじめられる」
 という人もいたという。活動も他県と比較して活発に出来ない状況だったようだ。それも理解できた。タクシーの運転手などは、
「お客さん、東京の記者さん? 拉致された場所見に行く?」
 と、完全に観光スポット扱いをしていた。

 それが、5人帰国後は一変した。今も胸が痛いのは、
「記者さんだから、知ってるよね? 今度、うちの娘、帰ってくるんだよ」
 と、帰国が叶わなかった被害者ご家族のひとりが、5人の名簿が日本で報じられる寸前まで、喜びを隠せない様子で、話していたことだ。
 私が滋さんと早紀恵さんにテレビ番組の収録で最後にお会いしたのは、8年ほど前だったろうか。カメラがまわっている間は、変わらない柔らかな笑顔でめぐみさんの思い出話をし、背筋もしゃんと伸びていた滋さんだが、収録が終わった瞬間に、覇気が消えたのが気になっていた。階段を降りる時も一歩一歩、腰を曲げてかろうじて踏み外さないように努力して歩いていた。体力の衰えが目に見えて分かった。

「生きてめぐみちゃんに会いたい」

 という気力だけが、滋さんの命の火を燃やし続けてきたのだろう。場を和ませようと、私の名字が「横田」であることから、取材当初、他の被害者家族の方々からよく、「横田(めぐみ)さんのご親戚関係の方?」と間違えられたんですよと話すと、

 「そういえば、年の頃もあまり(めぐみちゃんと)変わらないからね」
 
 と、ご夫婦で会話していたのが昨日のことのように思い出される。

 滋さん、本当に長い間、お疲れ様でした。いずれ神様が天国で、めぐみさんと再会させてくれるでしょう。
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横田由美子(よこた・ゆみこ) 

埼玉県出身。青山学院大学在学中より、取材活動を始める。官界を中心に、財界、政界など幅広いテーマで記事、コラムを執筆。「官僚村生活白書」など著書多数。IT企業の代表取締役を経て、2015年、合同会社マグノリアを立ち上げる。女性のキャリアアップ支援やテレビ番組、書籍の企画・プロデュースを手がける。

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