中国自由化への道筋― 第2部:中国人と中国共産党

中国自由化への道筋― 第2部:中国人と中国共産党

支那大陸に住まう人々

 この大陸に漢民族による王朝の「漢」が成立したのは2200年前のことだが、それ以降は他民族が侵入して何度も王朝が入れ替わった。漢族を相手にして羌、匈奴、鮮卑、女真族、蒙古族などが入れ代わり立ち代わり侵略して漢民族を征服し、蹂躙(じゅうりん)する。しばし雌伏(しふく)の時を経て、漢族が再び盛り返す。2000年以上にわたって、およそ100年おきにこんなことが繰り返されてきた。
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著名なモンゴル帝国だけでなく、それ以前も以後も多くの民族が侵入をしては王朝を築いた
混血と民族同化
 その過程で突き進んだのが、混血と民族同化である。異民族が侵入しそこに王朝を築けば、その地に住む男どもは皆殺しにされ、生き残った女たちは征服者に取り込まれてその子を残す。侵略した者たちは相手の文化や習慣を否定し、勝者としての言い分を押し付ける。現在のこの国には14億人が存在するが、その90%以上が漢族とされ、これに加えて55の少数民族がいる。支那とはそんな国であり、そこに住む人々を支那人というのである。

 その流れの一環として、21世紀の今日、中国共産党が支配する「中国という国」は隣接するチベット、ウイグル、内モンゴルで何ら悪びれることなく父祖を見習い、至極当然のこととして「混血と民族同化」を繰り返している。彼らの言動からすれば、

 「俺たちは親を見習い当然のことをしているだけだ。どこが悪いのだ」

 と思い込み、なんら悪びれることもない。そんな彼らは次には台湾を狙い、我が国の尖閣諸島周辺への侵入を繰り返している。
支那人の知恵と常識
 支那大陸では、およそ100年周期で王朝が入れ替わった。その際には、激しい戦闘がおこり殺戮が繰り返される。だがしかし、実のところこの大陸は、年がら年中、毎日のように混乱していたのである。1つの王朝が誕生し支配体制が整うと、それに不満を持つ人々が反乱を起こす。その1つの例として、後漢末期の西暦184年には「黄巾の乱」が発生し漢の全土に広がった。こうした内乱で王朝は衰退し、他民族の侵入を許す。それに反撃するも、戦いに破れて国は滅びる。かくして、ほとんど毎日、あちらこちらで暴動や反乱が起きていたのである。また、平時においては横暴な役人に賄賂を強要され、脅されて金品をゆすり取られる。こうした風潮もまた、現在まで引き継がれている。これこそが、今日の中国すなわち中華人民共和国の実態なのである。

 では、このような蛮行に対して、何の力もない庶民は2000年の間どのように対処してきたのか? また、現在ではどうしているのか?

 「身のまわりの物を、目の前にあるものを手にして逃げる」
 「自分を守るために嘘をつく」

 これこそが、彼らが生き延びるために身につけた知恵なのだ。これもまた、今日の中国共産党によって支配される支那人たちの姿である。

 支那人たちがその子供に真っ先の教えることは、

 「他人に騙されるな」

 だと言われている。支那の国においては、嘘をつき他人を騙すことが日常茶飯事として行われ、それに対する罪の意識はない。前述の諺「羊頭を掲げて句肉(くにく)を売る」がそれを物語っている。結局は、

 「騙される奴が馬鹿なのだ」

 ということなのだ。また、戦火を避けて逃げまどう人々は、まずは身のまわりの物、目につく金品を手にして家を捨て去る。それが他人の物であろうと一切お構いなしで、とにかく持って走るのだ。このような行為は平時ならば窃盗罪に当たるが、四六時中混乱のもとにあった支那国においては連日のように繰り返されてきたことだ。その結果、このような不条理が当然のこととして容認されてきた。嘘をつくことと窃盗行為が国全体にしみわたり、それを咎(とが)める者はどこにもいない。

 さて現在、アメリカ合衆国が「中国と中国人」を排斥しようとしている。アメリカに留学する中国人学生たちが研究成果を盗み取り、企業に入り込んで機密事項を持ち出しているからだ。アメリカや欧州そして日本などの自由諸国では、スパイ活動、窃盗行為に当たる行動である。だが、当の中国人たちにしてみれば「そこにある物を手にして逃げる」。ただそれだけのことで、先祖代々、生き延びるために親から子へと受け継がれ正当化されてきたことなのだ。公徳心のない彼らに、罪悪感などあるわけがない。そんな彼らは、大金を持ってアメリカやカナダへの移住を考えている。そのための居宅もすでに確保しているわけだ。誠に厚かましく、愛国心のかけらすらないのである。

支那人と中国人

 本稿では、現在の「中国」を2000年以上にわたり連綿として続く「支那国」の1つの王朝、もしくは、ある時代として扱っている。当然ながら、「支那人」と「中国人」の区別も必要となってくる。
相違点
 本稿において、「中国人」とは2020年時点で9,200万人いるとされる中国共産党員と、その家族を含めて2億7,000万人を意味する。それに対して「支那人」というのは、かの国に住み共産党に隷属して支配される人々だ。その数は少数民族を含め11億人を超える。従って、中華人民共和国が建国された1949年以前のその大陸に住む人々もまた支那人に分類されるのだ。いささかややこしい説明だが、中国という国を理解するためには、共産党員と一般市民を明確に識別すべきなのである。こうして両者を区別しその差異を明確にしてこそ、結論が導き出されるのである。
共通点
 ここまでに書き連ねてきたことを整理してまとめてみる。以下の項目が彼ら「中国人」と「支那人」の共通点であるが、共産党幹部から名もない庶民まで大なり小なり全く同じことをしているのである。

・総じて無学で無教養
・愛国心、忠誠心、公徳心といった項目の優先順位が低いか、そもそも存在しない
・総じて金銭欲や財産に対する執着が強い
・「共産党思想」を上下ともに信じているか疑わしい。都合よく利用しているだけ
例外
 ただ、敢えて書き加えるとすれば、これらの共通点は集団としてとらえた総論である。その一方では、そんな国に生まれたことを後悔し恥じている人もいる。筆者にもかかる友人知人が存在するが、少なくとも日本国内にて個人的につきあう分には、総じてなかなかの紳士ではある。

中国共産党の実態

 前項の共通点、これこそがまさしく中国共産党の実態であり本質なのである。かかる実態について、順を追って解き明かしたい。
中国共産党の誕生と建国
 さて、1616年に満州にて建国され、1644年から支那大陸とモンゴルを支配した大清帝国(清国)が衰退して行く。その末期の1912年1月には、革命家孫文を臨時大総統として大陸全土を統治する中華民国が建国された。清朝はこれをもって幕を閉じる。その後、孫文は「中国国民党」を創設し、1921年に革命政府を広州に樹立する。

 その一方では、1919年5月、中国共産党の先駆団体である「マルクス主義研究会」のメンバーが、反政府・反日・反帝運動である「五・四運動」に参加した。次いで1921年7月、コミンテルン(国際共産主義組織)の主導により、北京大学文科長の陳独秀、同大学図書館長の李大釗、同図書館司書の毛沢東らが日本の東京帝国大学への留学から帰国した李漢俊の上海の自宅にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催して、中国共産党を結成したとされる。この場に集結した党員は公式記録では12人とされている。なお、創立党員で中華人民共和国建国まで生き残り、かつ、死ぬまで中国共産党内での名誉を保ちつづけた者は毛沢東と他1名の2人のみとされる。
                                
 かくして支那大陸では、中国国民党と中国共産党が対立することとなった。両者はその是正を図り、1924年に第1次国共合作を行ったが失敗に終わる。1925年に孫文が死ぬと国民党は蒋介石へと引き継がれ、その指揮の下、上海や武漢にて中国共産党員の掃討を開始した。共産党軍はこれに対抗できず、1934年に根拠地とする瑞金を放棄して逃避行を始めた。後になって長征と称されるこの過程で、毛沢東が共産党軍の主導権を握ったのである。この頃の共産党軍は草木を食べ星空を仰ぎ見て眠ったとされ、その実態は浮浪者、山賊と変わらないとも言われている。そうした経験を重ねて、毛沢東はソ連に近い陝西省延安に拠点を構えた。

 1937年7月の盧溝橋事件をきっかけとし日支戦争が始まる。この結果、共産党と国民党は協力体制を築いた、これを第2次国共合作という。

 1945年、太平洋戦争で日本が敗北し、支那国内の日本軍は全面降伏する。それを機にしてソ連が中国共産党を支援し、国民党政府を打倒し共産党政権設立に動いた。これにはアメリカも介入し毛沢東と蔣介石の会談による妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。その後、満州を占領したソ連の支援を受けた共産党軍は、東北方面から南下して国民党軍を圧倒していった。そして1949年10月、毛沢東率いる中国共産党は中華人民共和国を建国したのである。敗れた国民党政府は台湾に逃れ、その地を根拠地として中華民国政府(台湾)を樹立する。これが今日の台湾なのである。従って、台湾は中華人民共和国に支配されたことはなく、中国共産党が主張する「台湾は中国の一部」ということには何ら正当性がない。要するに、「支那人ではあるが中国人ではない」ということなのだ。これこそが「支那人と中国人を区別する理由」なのである。
産業革命と共産主義
 さて、共産主義とはいかなるものなのか。

 中世の欧州には、強力な権限を持つ国王によって統治された中央集権国家が続々と誕生していた。そうした国々では国王とその家族に親族、そして身近に侍る近親者によって富の大半を奪われ、多くの庶民は圧政と貧困にあえいでいた。それに対抗して、王権を制限する改革が断行される。その例として、17世紀の中頃、イングランドでは王制を打倒し議会制度が導入された。そして18世紀も半ばになると、欧州では産業の変革と社会構造の変化が沸き起こる。

 これは産業革命と称され、綿織物生産過程での技術革新、製鉄業の成長、そして蒸気機関の発明による新動力が出現したのである。これによって工場での生産活動すなわち機械工業が発展していった。また、蒸気機関を動力とした鉄道と船舶が発明され交通革命も起こった。こうした変革は、富裕層が資本家となって一般庶民を雇用して成し遂げられた。資本家は労働者に対し、低賃金かつ劣悪なる環境で過酷な労働を課していた。

 かかる状況で、1783年にイギリスの植民地であったアメリカがその圧政に耐えかねて独立する。さらに、1789年フランスでは市民革命で王制を打倒して共和国となった。だが、これらは資本主義革命と称され、国家統治の実権が国王から一部の富裕層に移譲されたにすぎず、圧倒的多数の庶民は低賃金の労働者として相変わらず貧困にあえいでいた。これに疑問と怒りを抱いたカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスが、共同にて執筆した『共産党宣言』が1847年に発刊された。資本家の搾取に対抗するため、万国の労働者に団結を呼びかけたのである。

 次いで1867年、カール・マルクスが『資本論』を刊行し、「私有財産制の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想・運動」を呼び掛けた。これこそがまさしく共産主義なのである。
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マルクスとエンゲルス
毛沢東と中国共産党の失政
 さて、支那大陸には毛沢東が主導する中国共産党によって中華人民共和国が建国された。だが、毛沢東の共産党指導部は失政を重ね、その挙句、権力闘争に明け暮れたのだ。

 1957年、右派との権力闘争に勝ち抜き党内主導権を得た毛沢東は、中国共産党中央委員会主席として反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した。そして、核武装をすすめ高度経済成長を達成することで、先進国のアメリカ合衆国やイギリスを15年以内に追い越すと宣言する。

 しかし、理想に走り現実を無視した手法と、権力闘争のため数多くを処刑したことで中国国内は大混乱に陥った。大飢饉に襲われて産業・インフラ・環境の大破壊を起こし、さらに多数の死者を出したのである。これが1958年~1961年に毛沢東の主導で中国にて実行された大躍進政策の結果であり、この時の餓死者は数千万人を超えるという。この失敗で国家主席の地位を副主席の劉少奇に譲った毛沢東は、自身の復権を画策する。紅衛兵を組織し学生や大衆を扇動して政敵を攻撃させたのだ。これは官製の暴動であり、中国共産党内部での権力闘争だった。中国国内でのこのような動乱は、1966年に始まって毛沢東が死んだ1年後の1977年まで続いた。このような文化大革命では、2,000万人の死者を出したと推定されている。
改革開放と経済の発展
 文化大革命が集結した翌1978年、鄧小平が中国共産党の最高指導者となった。彼は毛沢東の政敵として激しい非難にさらされながらもそれを乗り越えた人物であり、毛沢東主義を否定しその政策を改めていった。また、文化大革命によって疲弊した中国経済を立て直すために、改革開放を推し進め市場経済体制への移行を試みた。鄧小平からの誘いを受けた欧米諸国や日本は、共産主義国と協調して協力することに対して警戒しながらも、支那大陸は10億人を超える巨大市場であった。そのため、

 「経済が発展し豊かになれば、共産主義者も変節し自由化して民主化するだろう」

 という期待と弁解を用意して、巨大市場に飛びついたのである。アメリカ合衆国、EU各国そして日本もその一員である。請われるままに最先端技術を移転し、莫大な金額を投資して工場を建設した。その結果として2008年、中国はGDPで日本を追い越し世界第2位の経済大国にのしあがったのである。

 だがしかし、その裏には中国共産党独特のあくどさ、えげつなさが潜んでいいたのだ。令和の時代になって、ようやくにしてそれに気づいた西欧自由諸国は、中国共産党を警戒しその体制を崩壊させるべく動き出した
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鄧小平の石像
中国の農村戸籍と農業不振
 さて、そのような中国には大きな弱点もあるのだ。

 中華人民共和国の憲法では法の下の平等が規定されているが、実際には都市と農村との間に大きな差別が存在している。都市の労働者は社会保障制度で保護されるのに、農村に暮らす農民は自給自足を原則として社会保障制度の対象から外されていた。これは長い戦乱の後に成立した政権が、経済を発展させるため工業化を優先して採用した政策とされる。

 だが農民たちが職を得て都市に定住しても、戸籍は出身地の農村に置かれたままになり、都市戸籍を得られるわけでない。彼らは「農民工」と呼ばれ、社会保障を受けられない二級市民として差別されている。いつまでたっても貧困から抜け出せない生活を強制されているのだ。

 そんな中国には広大な農地があるにもかかわらず、農業は不振を極めている。今日では14億人を養うために、大量の食糧を輸入しているのだ。その理由として、前述の農村戸籍の他にもう1つ考えられる。それは、2000年以上戦乱に明け暮れたこの国の歴史だ。農業で実りを手にするには半年ほどの日数が必要だが、戦火に追われる農民たちは収穫を目の前にして逃げ出すことになる。収穫物は他人に奪われ、農地は踏み荒らされる。

 そんな彼らもまた、秋になれば他人の田畑に忍び込み稲穂を刈り取り、梨やブドウを盗み取る。当然ながら豚や鶏、牛に馬など手当たり次第に奪い取っていく。その地に根付くこともなく、地道に農業などやっていられない国なのだ。そのような盗賊行為は自国の中国だけにして欲しいのだが、最近では隣国にまで来てやっているようだ。多分、世界中で同じことをしていることだろう。

 「そこにある物を手にして逃げる」

 ことが、2000年にわたって磨き上げた彼らの得意技なのだ。そして、この実態こそが中国における農業不振の原因なのである。
たった1つの誉め言葉
 ちなみに、悪口ばかりではいささか気が引けるので、美点についても述べてみる。彼らが逃げ出す時、鍋と釜は必携品であった。毎日の食事には欠かせないものだ。鍋釜だけは常に手元に置いていたということだ。かくも食にこだわる彼らの料理は2000年にわたって工夫改良され、世界に名だたる中華料理が出来上がったのである。

 本稿の趣旨からすれば、本来なら支那料理と称すべきだが、こと料理に関しては「中央の華」ともいえる出来栄えで、あえて「中華料理」と認めたい。ユネスコの無形文化遺産に登録はされなくても、志那人が人類に残した立派な遺産である。
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中国共産党の幹部たち
現在の中国共産党幹部たち
 習近平を国家主席とする今日の中国共産党の幹部たちは、1人が数10兆円もの現金を米ドルやスイスフランにして隠し持ち、アメリカ、カナダ、スイス、香港などにいくつもの邸宅を所有している。そこには留守居を兼ねてか、それぞれに愛人を住まわせているという。

 前述の『資本論』によれば、共産主義では私有財産を禁じている。このような共産党幹部たちは、『資本論』など読んだこともないだろう。毛沢東らが命がけで学んだ共産主義の意味すら知らない無学、無教養な輩と言わざるを得ない。そんな彼らは、民主主義、自由主義について知ろうとも学ぼうともしない。まことに残念ながら、理解できないのだ。

 それどころか、

 「あらゆる権力を握って、すべてを貪り尽くす」

 2000年以上にわたって通りなれたこの道を、彼ら中国共産党の幹部たちは最上の方策と信じているのだ。だからして、これ以外の方法を知らないし知ろうともしないのである。彼らは創始者である毛沢東の孫の世代に当たるが、100年を経ずして浮浪者、山賊から王侯貴族に成り上がったというわけだ。だがその実態はやくざ、ならず者であり100年前から何も変わっていない。いや、むしろ権力を手にした分だけより悪質かつ強欲になっている。それは共産党の幹部のみならず、末端の地方公務員たちも同じことなのだ。

 かくなる中国共産党は国を統治すべき正当性もなく、もちろんのことそんな能力もない。犯罪組織以外の何物でもないのだ。アメリカ合衆国ポンペオ国務長官が明言したように、犯罪者の集団である中国共産党と支那人(共産党に隷属し支配される人々のこと、本稿ではこうした人を支那人と称する)とを明確に区分するべきなのである。

 つい先日のことだが、中国共産党の李克強総理は

 「中国国民の多くは、いまだ貧困の中にある」 

 こんなことをぬけぬけと放言した。共産党幹部が隠し持つ資産だが、本来はその国民が受け取るべきものなのだ。その総額は、日本円にして1,200兆円とも言われている。スイスや香港の銀行に死蔵されていて、決して日の目を見ることのない金だ。それを国民のために吐き出せば、かかる貧困問題は即日にして解決するはずだ。「財産を私有せず、皆で共有する」これこそが共産主義なのだ。まったく中国共産党の幹部どもは、ただただ強欲なだけの無学、無教養な輩ではある。

 なお第3部では、自由主義諸国からの反撃と中国共産党の排除方法、そして中国という国を自由主義の支那共和国へと再生するための道筋を考えてみたい。
矢板佳大
時事評論家。日本人に生まれたことを誇りとして、皇居での新年祝賀に日の丸の小旗を手にして参加し、伊勢神宮や靖国神社に参拝している。大和魂と八紘一宇の精神に目覚め、自由と民主主義を守るため真実と正義を追及している。自動車メーカーにて乗用車を開発し、高専機械工学科の教壇に立つ経験を持つ。

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