気づかされた「日本人になる」ということ
平成19年5月31日、李登輝元総統が、祈願であった奥の細道の旅の出発点として、東京深川の松尾芭蕉記念館を訪れたとき、僕もお迎えの一団の中にいた。当時、まだ僕は、おたく系ライターで、仕事のフィールドは特撮関連本やマンガの解説が主だったわけで、この日、日の丸と緑の台湾旗(青天白日旗に非ず)を振って亜州の巨人を出迎えたのは純粋なファン意識からであった。
李登輝総統ご夫妻を先頭に、僕らお迎え組一行が隅田川のほとりを散歩するというサプライズがあった。下谷稲荷町の産である僕にとって隅田川は子供のころから馴染み深い川だが、その故郷の川を李登輝総統と一緒に歩く、なんとも感慨深い。近所のおかみさんたちによる緑茶のサービスもあった。河川横の路地の袋菓子工場の軒下に設けた白い長テーブルの上に並んだお茶の緑は今の記憶の中に涼しげである。「元」がつけど、一国の元首と並んで同じお茶をいただく、これも下町ならではのおもてなしといえるかもしれない。
このときの来日では、もうひとつの悲願であった靖国神社参拝を実現され、兄上に再会されている。そして、外国特派員協会での記者会見、「靖国問題というのは、内政に行き詰った中韓が作り出したもの」と外国人記者を前にして堂々と看破された。
「私は22歳まで日本人だった」。おそらく、この言葉を抜きに李登輝という人を語ることはできないだろう。かく言う僕も、この言葉に触れることなければ、台湾という国への興味や知識は欧陽菲菲かテレサテンで止まり、今も一人のロートルおたくライターとして紙魚にまみれながら粥を啜っていたかもしれない。
総統の言葉は、「日本人とは何か」という命題を僕に突き付けた。未だにその明確な答えを見つけることができないでいるが、ひとつ悟ったのは、「日本人に生まれるのではない、日本人になるのだ」ということである。生まれもった国籍や民族としての日本人とは別の、もっと大きな概念としての「日本人」がある、それに気づかされたのである。
李登輝総統ご夫妻を先頭に、僕らお迎え組一行が隅田川のほとりを散歩するというサプライズがあった。下谷稲荷町の産である僕にとって隅田川は子供のころから馴染み深い川だが、その故郷の川を李登輝総統と一緒に歩く、なんとも感慨深い。近所のおかみさんたちによる緑茶のサービスもあった。河川横の路地の袋菓子工場の軒下に設けた白い長テーブルの上に並んだお茶の緑は今の記憶の中に涼しげである。「元」がつけど、一国の元首と並んで同じお茶をいただく、これも下町ならではのおもてなしといえるかもしれない。
このときの来日では、もうひとつの悲願であった靖国神社参拝を実現され、兄上に再会されている。そして、外国特派員協会での記者会見、「靖国問題というのは、内政に行き詰った中韓が作り出したもの」と外国人記者を前にして堂々と看破された。
「私は22歳まで日本人だった」。おそらく、この言葉を抜きに李登輝という人を語ることはできないだろう。かく言う僕も、この言葉に触れることなければ、台湾という国への興味や知識は欧陽菲菲かテレサテンで止まり、今も一人のロートルおたくライターとして紙魚にまみれながら粥を啜っていたかもしれない。
総統の言葉は、「日本人とは何か」という命題を僕に突き付けた。未だにその明確な答えを見つけることができないでいるが、ひとつ悟ったのは、「日本人に生まれるのではない、日本人になるのだ」ということである。生まれもった国籍や民族としての日本人とは別の、もっと大きな概念としての「日本人」がある、それに気づかされたのである。
精神としての「日本人」たれ
李登輝総統の誕生で、蒋父子の治世で押さえつけられていた日本語世代の台湾人たちが堰を切ったように、日本と日本人を語り始めた。彼らは多桑(トウサン)世代とも言われる。蔡焜燦氏、許国雄氏、鄭春河氏……それら敬愛すべき多桑の書かれた幾多の本を読むと必ずといっていいほど、「〇歳まで日本人だった」というフレーズにぶつかるし、彼らには、かつての「日本名」もまるで青春の宝物のように誇らしいもののようである。
戦後教育の申し子のような自分には、それらは〈WHY〉の連続であった。結果的に、李登輝総統から突き付けられた命題は、自虐史観から抜け出す一穴を僕に与えてくれたのである。
知り合いの台湾出身の60代の婦人(結婚を機に日本に帰化)は「私(の心)は戦前の日本人だから」が口癖だ。多桑世代のご両親から日本精神を引き継いでいるという自負がそう言わせている。なぜ「戦前の」が頭につくのかといえば、戦後の日本人はGHQに骨抜きにされ、もはや「日本人」であることを忘れてしまったからだそうだ。
彼女は、現在ビジネスクラスで中国語を教える傍ら、生徒に「日本人よ、日本人たれ」と発破をかけているという。
農民出身の近藤勇と土方歳三が京に上るとき「武士より武士らしく死のう」と誓った逸話がある。むろん、彼らのいう「武士」は、階級としての武士ではなく、精神としての武士を意味するのはいうまでもない。
同じく、多桑世代のいう「日本人」とは、精神としての日本人である。日本人に生まれたからといって、必ずしも「日本人」ではないのだ。お前らよりなんかよりも俺たちの方がよほど「日本人」だぞ。そう言われているかのようで、恥じ入るばかりである。
ならば、一生かかって「日本人」になってやろう。李登輝総統を知って、多桑たちと出会って、そう思った。そして、そこから僕の人生の意味が変わったように思う。
では、日本精神とは何か。多桑のひとりは「義」であると僕に言った。しかし、戦後の日本が、台湾の友情に義をもって報いてきたかは、はなはだ疑問だ。これもまた大きく恥じ入ることである。
アメリカに先を越されてしまった形であるが、台湾の国家承認の日も近いと信ずる。そのときこそ、日本が義でもって盟友に報う最大の機会が訪れる。精神の同盟である。
おそらく李登輝総統も、台湾元年と日本の覚醒を感じ、心安らかに旅立たれたことだろう。
改めて、李登輝元総統のご冥福をお祈りするとともに感謝の心を捧げます。
戦後教育の申し子のような自分には、それらは〈WHY〉の連続であった。結果的に、李登輝総統から突き付けられた命題は、自虐史観から抜け出す一穴を僕に与えてくれたのである。
知り合いの台湾出身の60代の婦人(結婚を機に日本に帰化)は「私(の心)は戦前の日本人だから」が口癖だ。多桑世代のご両親から日本精神を引き継いでいるという自負がそう言わせている。なぜ「戦前の」が頭につくのかといえば、戦後の日本人はGHQに骨抜きにされ、もはや「日本人」であることを忘れてしまったからだそうだ。
彼女は、現在ビジネスクラスで中国語を教える傍ら、生徒に「日本人よ、日本人たれ」と発破をかけているという。
農民出身の近藤勇と土方歳三が京に上るとき「武士より武士らしく死のう」と誓った逸話がある。むろん、彼らのいう「武士」は、階級としての武士ではなく、精神としての武士を意味するのはいうまでもない。
同じく、多桑世代のいう「日本人」とは、精神としての日本人である。日本人に生まれたからといって、必ずしも「日本人」ではないのだ。お前らよりなんかよりも俺たちの方がよほど「日本人」だぞ。そう言われているかのようで、恥じ入るばかりである。
ならば、一生かかって「日本人」になってやろう。李登輝総統を知って、多桑たちと出会って、そう思った。そして、そこから僕の人生の意味が変わったように思う。
では、日本精神とは何か。多桑のひとりは「義」であると僕に言った。しかし、戦後の日本が、台湾の友情に義をもって報いてきたかは、はなはだ疑問だ。これもまた大きく恥じ入ることである。
アメリカに先を越されてしまった形であるが、台湾の国家承認の日も近いと信ずる。そのときこそ、日本が義でもって盟友に報う最大の機会が訪れる。精神の同盟である。
おそらく李登輝総統も、台湾元年と日本の覚醒を感じ、心安らかに旅立たれたことだろう。
改めて、李登輝元総統のご冥福をお祈りするとともに感謝の心を捧げます。
但馬 オサム(たじま おさむ)
1962年、東京生まれ。文筆人・出版プロデューサー・国策映画研究会会長。十代のころより、自動販売機用成人雑誌界隈に出入りし、雑文を生業にするようになる。得意分野は、映画、犯罪、フェティシズム、猫と多岐にわたる。著書に『ゴジラと御真影』(オークラ出版)、『韓国呪術と反日』(青林堂)など多数。
1962年、東京生まれ。文筆人・出版プロデューサー・国策映画研究会会長。十代のころより、自動販売機用成人雑誌界隈に出入りし、雑文を生業にするようになる。得意分野は、映画、犯罪、フェティシズム、猫と多岐にわたる。著書に『ゴジラと御真影』(オークラ出版)、『韓国呪術と反日』(青林堂)など多数。