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なぜ、橋下氏はナザレンコ氏のツイッターに過敏に反応したのか

奴隷の平和を選べというのか

 元大阪府知事・橋下徹氏のウクライナ・ロシア戦争に関する発言が止まらない。
 とうとうその「矛先」は、祖国が戦火の中にある在日ウクライナ人のナザレンコ・アンドリー氏(国際貿易関連の会社員。言論活動も行っている)にも向けられてしまった。

 3月24日、ナザレンコ氏がツイッターで、
《8年ぶりに本州を出ました。北海道なう。人生初めて》
 と呟いたことに対して噛みついたのだ。

 橋下氏は、ナザレンコ氏の上記の投稿に被せて、次のように述べている。

《雑誌への記事ありがとう。新聞広告の見出しを見たけど、僕は奴隷の平和を選べとは言っていない》(3月25日)と。

 橋下氏が言う雑誌への記事とは、月刊『WiLL』5月号にナザレンコ氏が寄稿した論稿「義勇兵に志願した私」を指すと思われる。
 ナザレンコ氏は、記事の中で、橋下氏の《あと10年、20年で(国外で)頑張りましょうよ。もう1回そこからウクライナ建て直してもいいじゃないですか》という発言を取り上げ、《まるで国を棄(す)てろと言わんばかりの主張を展開している》《我々に「奴隷の平和」を選べとでもいうのでしょうか》と批判したことから、ナザレンコ氏に矛先を向けたのだろう。

《あなたも雑誌に意見を出す存在なので批判対象にさせてもらうが》(3月25日)との橋下氏の文章がそのことを証明していよう。
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ナザレンコ氏のツイッター《8年ぶりに本州を出ました。北海道なう。人生初めて》(3月24日)に噛みついた橋下徹氏

的はずれの批判

 ちなみに、橋下氏はウクライナは侵攻したロシアと交渉し、早期停戦を主張する立場である。一方、ナザレンコ氏は、抗戦を主張している。

 さて、上記のナザレンコ氏の発言に対し、橋下氏は次のようにツイッターで述べた(3月25日)。

《あなたは日本にいる限り奴隷になることはない。こうして北海道を楽しめる。他方、マリウポリのウクライナ市民、その他戦地で悲惨な生活をしている市民はどう考えているのか、僕はそこが一番気になっている》
《あなたの主張も理解できるし、戦争指導者層や戦闘員はそう考えるだろう。しかしマリウポリの市民、その他一般市民はどうか。僕の主張はその視点。あなたがマリウポリで今の主張を続けることができるのだろうか?義勇兵に志願したのは立派だけど、結局日本にいて、北海道を楽しみにしている》


 前述したように、ナザレンコ氏は抗戦を主張している。橋下氏は、ウクライナ国民が戦地で悲惨な状態にあるのに、抗戦を主張することへの違和感を表明したわけだが、まず何より「北海道を楽しみにしている」「あなたは日本の北海道を楽しんでいる」とのナザレンコ氏への批判は的外れであり、誤解に基づくものである。

 というのも、ナザレンコ氏は、遊びや観光のために、北海道に行ったわけではないからだ。北海道の自衛隊駐屯地で講演、意見交換をするために、赴いたのである(3月25日、同氏ツイッター)。

 ナザレンコ氏は、講演後「北海道だと仮想敵国が共通のはずなので、大変有意義な時間になりました」と述べている。
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ナザレンコ氏のツイッターに対する橋下氏の連投ツイートの一部(3月25日)

まるで印象操作をしているかのよう

 仕事で訪問したにもかかわらず、「北海道を楽しんでいる」と娯楽で行ったかのように、一方的に批判するのは、ナザレンコ氏の名誉を損なうものであろう。
 
 橋下氏のナザレンコ氏への関連ツイート(全てで10)の中に、「北海道を楽しむ」との文章が5つも出てくる。事情をよく知らないのにもかかわらず、ナザレンコ氏が北海道に娯楽で行っているかのように印象付けたいのであろうか。

 橋下氏は、
《あなたがもし今北海道を楽しむなら、それは外出自粛要請中にクラブに通った国会議員の比にならないくらい批判される行動だと思う》
《戦地の自国の仲間たちに、徹底抗戦だ!一般市民の犠牲も已むなし!と叫びながら、自分は日本の北海道を楽しむ姿の矛盾、滑稽さに気づいて欲しい。あなたは戦闘員ではない。あくまでも戦地の一般市民の視点で考えるべきだと思います。あなたはもう有名人です。北海道ではSNSの写真に気を付けてください》
(いずれも3月25日)

 とまで言い放っているのだ。

 在日ウクライナ人は、日本国内を旅行することも許されないのだろうか?
 何度も言っているように、ナザレンコ氏は、娯楽(楽しみ)ではなく、講演という仕事のために、北海道に行っているのだ。自粛期間中に遊びのために、クラブに通った国会議員とは全然違う。

 さらに橋下氏は、ナザレンコ氏に対し、
《あなたには戦闘員の視点ではなく、毎日死の恐怖に晒され、水も食料も医薬品もない中での生活を強いられ、家族の命を奪われ、とにかく生き延びたいと決死の覚悟で避難行動をとっている一般市民の視点で発言して欲しい》(3月25日)
 とまで要求している。
 要は、抗戦ではなく、「ウクライナ一般市民の目線」で政治的妥結、停戦を主張してほしいと言っているのだ。

 しかし、橋下氏は、ウクライナの一般市民の視点・思考をどれほど知っているのだろうか? まわりにウクライナ人の知り合いがたくさんいて、考えを聞いたのであろうか? そうではなく、連日流れてくる戦地の悲惨な報道から、ウクライナ人の思考は、政治的妥結、停戦に違いないと想像されたのであろうか?
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ウクライナ東部戦争(砲撃後の学校)。この状況をもって橋下氏はウクライナ人の気持ちを理解できるというのか

橋下氏の上から目線

 ウクライナ人の一般市民の視点を言うならば、ウクライナ人のナザレンコ氏のほうが、日本人の橋下氏よりもよく分かっているのではないか。
 ナザレンコ氏は「家族がハリコフ州にいるし、戦闘員の仲間も、非戦闘員の仲間もいる」(3月25日)からである。

 橋下氏の《ウクライナ一般市民の思い、考えを説得力を持って代弁できるのは、ウクライナ人であるあなた。あなたは戦地の戦闘員ではない。戦地の一般市民の状況を感じるべきだと思う。戦地の戦闘員には敬意を表します》(3月25日)との言葉からは、ウクライナ人の想いを代弁できるのはナザレンコ氏だと言いつつも、本当は自分(橋下氏)こそが、ウクライナ市民の思いをよく理解しているという、自負心、もっと言えば傲慢さを感じることができる。

 また、これまでの一連の発言や「戦地の戦闘員には敬意を表します」との表現からは、日本にいるナザレンコ氏を下に見ているように感じるのだが、私の思いすごしであろうか。

 ナザレンコ氏は、ウクライナを救うために義勇兵に志願もしているし、連日のように、ウクライナ戦争に関して情報発信をしておられる。「国家機関とも相談してる」(3月25日)とのナザレンコ氏の言葉からは、祖国のために奔走(ほんそう)している姿をうかがうことができる。

 そうであるのに、戦地に姿がないからといって一段下に見るのは間違っている。戦地で戦う以外にも、祖国のためにできることは多々あるのだ。我々、日本人は、祖国が戦火にある在日ウクライナ人の苦悩や傷心に思いを馳せるべきではないか。

 このような時に、いくら意見が対立しているからといって、相手を「論破」しようと躍起になるのは、それこそ日本人として慎むべきだろう。
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濱田 浩一郎(はまだ こういちろう)
1983年、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員・姫路日ノ本短期大学講師・姫路獨協大学講師を歴任。現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し迫り、解決策を提示する新進気鋭の研究者。著書に『日本人はこうして戦争をしてきた』『日本会議・肯定論!』『超口語訳 方丈記』など。

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