「国益とは何か」を明言できない岸田総理

 令和3年12月13日に行われた衆議院予算委員会で、自民党の高市早苗政調会長が「(北京五輪について)日本政府の方針を現段階でどう考えていますか」と質問したところ、岸田総理は「適切な時期に、オリンピックパラリンピックの趣旨、精神、外交上の観点といった諸般の事情を総合的に勘案した上で国益に照らして自ら判断する」と答弁した。
 
 更に高市政調会長が「総理がおっしゃる適切な時期とか国益はどういったものですか」と再質問すると、岸田総理は「オリンピックまでの期間の中で、各国の動きも勘案した上で我が国として適切な時期を考えていかなければならない。国益はまさに日本の外交の置かれている立場をしっかり総合的に勘案して判断すべきものだ」との旨を答弁し、「国益の定義」の明言を避けた。
北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

「国益とは何か」を明言できないのか―
 何故、岸田総理は明言しなかったのか。

 その答えは、「政治」という概念を人類史上で最初に定義したアリストテレスの思想に求めることが出来る。以下に、アリストテレスの主著ともいえる『ニコマコス倫理学』を若干解説したい。

 政治とは、善を希求する行為である。その「行為」の結果、「利益」を獲得する選択を善という。政治とは、個人の利益といった「小さな利益」を超越したより大きな利益(多くの人々が享受できる利益)、すなわち人間の集団の最大範囲である「国家」の視点から利益(善)を追求する行為である。ここから国益を「最高善」という。では、最高善である利益とは何か。それは「幸福」という主観的心証によって定義できるとする。幸福を知覚すれば、それは利益であり、善なのだ。
 しかし、同時にアリストテレスはこのように警告している。

幸福とは何であるかという点になると、ひとびとの間には異論がある(中略)その挙げるところはひとびとによって異なり、ときには同一人が異なったものを、例えば病気の時には健康を、貧しいときには富を挙げるようなことさえある”(アリストテレス著 高田三郎訳『ニコマコス倫理学』第四章より)

 つまり、善とは幸福の追求であるも、人によって幸福の定義は異なるし、同じ人間であっても時期によって幸福の定義は異なる場合がある。よって、「おおむね」幸福の定義は方向性が定まっていても、絶対的かつ普遍的な定義ではないのである。

「親中派」の利益は国全体の不利益

 さらに言えば、誰かにとっての最高善(利益)は、同時に誰かにとっての「最高悪」(損害を伴うもの)である場合があることを考えなければならない。その人が帰属する集団の違いによって、一方には善(幸福)であっても一方には悪(不幸)であるからである。

 だから、岸田総理は「国益」の定義を明言できなかったのだ。「国益」について明言すれば、「親中派」にとっての最高善が、「親中ではない人々」にとっての最高悪であることを言葉にする責任を負わなければならなかったからだ。

 具体的な事例で説明しよう。

 例えば、ある有力政治家の妻がウイグル人から強制摘出した臓器の移植手術を受けて命を長らえたとする。この妻本人とその親族にとっては「ウイグル人殺害による強制臓器摘出」は善であるが、摘出された側のウイグル人本人とその家族とっては悪である。また、この政治家と同じ共同体に属する人々にとっても、この政治家の妻の生命が延びようと終わろうとさしたる利益ではなく、むしろそのような不法を自らの共同体から輩出してしまったことへの懸念が強く生じる。不法は他の共同体から強く批判されるからだ。

 また例えば、ある服飾企業が安価の原材料を得ることによって製品の低価格化に成功したとする。その企業自身と、低価格製品が市場に供給されることによって安価に製品を得られる「その企業製品の購買者」にとって、これは善である。しかし、原材料となる綿花の栽培のため強制労働をしなければならないウイグル人にとっては大損害であり、またその企業製品を購入しない多くの人々にとってもまた「共同体からならず者を出してしまった」という強い懸念を覚えさせる。
北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

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「人権侵害」を無視し、「親中派」という特定の人々のために国益を損なうのか―
 我が国における親中派の最大の問題点とは、個々人や特定の集団の善(利益)を追求するあまり、共同全体の「最高善」(国益)を考慮できない極めて近視眼的な思考をしていることにある。国益とは、その国家に属する人々がすべからく利益を共有できる「最高善」であり、政治とはこの最高善を得る行為であるが、親中派はそれを放棄し、一部の人々の利益を求め、しかもその利益の獲得のためには多くの被害者と批判者という不必要な摩擦を生み出し、共同体の存立に危機をもたらしているのだ。
 12月13日夜に放送されたBS日テレの番組内で、安倍晋三元首相は北京冬季五輪への「外交ボイコット」に関して「中国に対する政治的メッセージは日本がリーダーシップをとるべきだ。時を稼いでどういう利益があるのか。(国際社会から)日本は結局、物事を決められないのではないかと思われてはならない」との主張をされ、早急な対策を決定する必要性を訴えた。

 これこそ、「共同体(日本国)」の最高善を求めた行為であり、「人類の最高の共同体である国家の目的は最高善」(アリストテレス著『政治学』山本光雄訳)なのである。一部の人々のための利益のために共同体全体の利益を損なうという発想は、もはや現代の人類社会では認められ得ない。親中派の理屈は、『他部族の女は強姦して良いが、自部族の女を強姦することは重大な犯罪と定める未開人の倫理』(ジョン・デューイ著『哲学の改造』清水幾多郎・清水礼子訳)なのである。

経験論からも否定される「人権侵害」

 ところで、これまでギリシャ哲学の立場から国益を論じてきたが、現代社会ではもう一つの新しい論理によって国益を定義している。それは、イギリス経験論の立場から「最高善」(国益)を論じるものだ。

 その代表ともいえるデイヴィット・ヒュームの「人間本性論」では、善の定義を合理的な思考によって導き出すのではなく、経験的に定義している。それは、「幸福」という主観ではなく、「存在していること」という客観的事実から「善とは何か」を導き出すものだ。つまり、幸福の知覚とは、あくまで生存していることが前提であり、肉体と精神が消滅しては幸福以前の問題であるから、「存在していること」に善の前提を求めたのである。
北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

「人間本性論」を主張したデイヴィット・ヒューム
 この考えは、各自が原始的な欲望によって、誰かの命や財や貞操を奪えば(または加担すれば)、結局は報復を招き、奪い返すための争いも起き、これによって生じる争いは多大なる損害をもたらし、その損害は得られた利益よりも大きい場合が往々にして有ることを前提にしている。

 例えば、首狩りや生贄、誘拐結婚などの蛮習を伝統文化としている部族があったとする。こうした部族ではその風習が当然であったとしても、その
部族が西欧文明の先進的な兵器と直面したとき、西欧側による差別と狩猟の対象となりで多くの同胞の死を伴い経験するであろう。そして、共同体の存立に困難を覚え、それらの行為や認識が部族に損害をもたらすものと「経験・学習」することで、初めて自らの蛮習を改めることができるということだ。
 このように人間は、他人の同意を得ないで他人の命や財産や貞操を奪えば、結局は紛争が生じて利益は消えてなくなることを学習した。そこで、合意を形成して法律を発展させた…というのが経験論の立場から見る「国益」である。

「経験論」にしたがわず、滅んだ国

 しかし、この考えの問題点は、集団ないし国家に損害が生じ得ない限り、その野蛮性が彼ら自身の中で認識されず、社会規範として法制化される恐れがあることだ。

 例えば、帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人抹殺)。帝政ロシアはユダヤ人のジェノサイドを公的に認めていた。誰もそれを非難しなかったからである。しかし、1903年に始まった帝政ロシア領内のポグロムを受けて、ユダヤ人経営のクーン・ローブ財閥(現在のアメリカン・エキスプレス)は、弱小と見なされていたためどの財閥も購入拒否をした大日本帝国の戦時国債を引き受けた。東洋の小国であったとしても、女子供を虐殺する帝政ロシアに一矢報いる必要性を覚えたからだ。結果的に、帝政ロシアは敗戦によってその権威を大きく失墜させ、崩壊への土壌を形成した。

 また、ナチスドイツのユダヤ人迫害。こちらも当初国際社会は何ら非難を加えなかった。結果的に、最初は「ユダヤ人商店の利用ボイコット」程度だった迫害が、公民権停止となり、ゲットー(隔離区)居住となり、強制収容所移送となり、最終的には絶滅収容所送りとなったのである。しかし、これに対して在米ユダヤ人社会は米政府に働きかけて、レンド・リース法を成立させ、ソ連に対して大西洋および太平洋と日本領海(宗谷海峡)を航路とした大規模な対ソ支援(兵器・軍需物質供給)をした。このため、ドイツ軍はバルバロッサ作戦発動後にモスクワの10km手前まで迫るも、絶えることなく出現するソ連軍によってついには負けたのである。

 結果的にどうか。帝政ロシアも、ドイツ第三帝国も「存在し続ける事が出来なかった」のである。
北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

北京五輪:"外交的ボイコット"こそが日本を救う

人類の経験論に従わなかったために滅んだドイツ第三帝国

不正に与すれば日本は滅ぶ

 人類社会は不正に共感しない。不正を幸福であるとは認識しない。仮に、売春や酒乱を快楽と定義する価値観が存在したとしても、それらに対して不快であるとする価値観は必ず存在する。個人差はあるので、もしかすると不倫を快楽かつ幸福であると定義する人もいるかもしれない。だが、そうした人よりも多くの人にとって快楽・幸福とは、夫・妻との愛を育み、夫・妻との子を育て上げることである。姦通のために家族を失い自らの遺伝を継ぐ子どもが良く育たなくなることを多くの人は不幸であると定義する。それが「人類社会の経験則」なのだ。当然、集団強姦や強制堕胎、強制労働に対しても同じ認識を多くの人が持つことであろう。

 だからこそ、これまでの人類社会が共有してきた歴史的経験則を持たない者、すなわち経験を継承しない者は腐敗に対して寛容であり、同胞の少女が拉致されても黙諾し、同胞の血税で外国人が不正な金銭を得たとしても無関心であり、特定の民族に対する強姦や強制労働による利益に対して親和性を持ち、家族の解散や児童の連れ去りや罪無き胎児の殺処分を認め、軍拡をする隣国を前にして自国の防備を糾弾し、秩序の維持そのものに無関心である。

大局を見れば明らかに人類社会では、その歴史の中で認められてきた振る舞いの「存在が許される」という価値基準を持つ。それに違背する存在を許していない。
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「不正」を働く国に与すれば、その国も滅亡せざるを得ないであろう―
 近頃よく言われるSDGs(持続可能性)とは、元をたどれば保守主義の原理である「存在し続けること」にその源流がある。誤った選択をした個人や組織は存在を許されないからである。保守主義には正義執行の意志がある。

 北京五輪の外交的ボイコットとは、人類社会における普遍的倫理を共有できるという意思表示である。それがなければ、私たちの日本国は汚辱にまみれた「未開人」と見なされるであろう。

 以上を踏まえて岸田総理には、我が国の持続可能性(SDGs)にとって極めて重要な次の言葉を贈りたい。

Bad men need nothing more to compass their ends, than that good men should look on and do nothing.” Inaugural Address at St Andrew's (1867) John Stuart Mill

“悪人が自らの目的を達成するためには、善人が見ていて何もしないこと以上のものは必要ない
 1867年セント・アンドリュー大学着任演説 ジョン・スチュアート・ミル

 岸田政権は、ただちに北京オリンピック外交的ボイコットを主張し、対中人権非難決議をすべきである。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。2021年8月にワックより初めての著書、『暴走するジェンダーフリー』を出版。

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