10月11日、横浜市内でおこなわれた街頭演説で、れいわ新選組の山本太郎代表が衆院選の東京8区からの出馬を取りやめると発表した。

 山本氏は、すでに野党間の調整で立憲民主党の女性候補を擁立することが決まっている東京8区に立候補すると発表していた。いわば「割り込み出馬」だ。同区は自民党の石原伸晃氏の地盤ながら東京の中でもリベラルな住民が多い地域(杉並区)で、圧倒的な知名度を武器として殴り込みをかけることを意図したのだろう。

 これに対し野党候補陣営が反発、メディアも立憲民主党陣営寄りの報道をして、山本氏には批判が集まった。

 たんなる「一人政党」だった時ならともかく、れいわ新撰組は今や野党では有力な党の一つであって、野党のあいだでもそれなりの責任を負っている。したがって、擁立候補を調整したあとで勝手に覆したのだとすれば、責任ある行動とは言えまい。だが、それ以上に今回の件で大きな計算違いだったことは、この騒動を通じて山本氏が「弱者の味方を装った唯我独尊の政治家」であることが露呈してしまったことだ。
白川司:東京8区出馬騒動で見えた山本太郎の抱える「矛盾」

白川司:東京8区出馬騒動で見えた山本太郎の抱える「矛盾」

言葉は常に力強いが…

"役者"政治家の限界

 私は『月刊WiLL』の2019年10月号に、依頼を受けて「山本太郎の正体」という一文を寄稿したことがある。そのときに山本氏の演説や国会質問の動画をいくつか見て、発見があった。

 山本氏は俳優出身だけあって男っぷりに優れており、鍛え抜かれた発声には言葉の説得力を増す力強さがある。そして、何よりその場その場に応じた完璧な装いをしている。街頭演説ではラフながらおしゃれで、国会では仕立ての良いスーツを着こなし、ドラマさながらの着こなしだ。

 ただ、役者は本来、政治に向いていないものだ。なぜなら、役者はおのれをむなしくして、演出家の道具に徹するべきもの。一流の役者とは、自分を空っぽにして、演出どおりの人物になりきることができる演技者のことだ。「自分」が残っている役者は、たとえ人気があったとしても、一流とは言えないだろう。
 タレント議員に本当にやりたいことがあるのかどうか疑わしいような政治家が多いのは、彼らは長年演出家の指示どおりにやることを生業としてきたのだから、ごく当然のことだ。

 弁舌さわやかな山本氏も、流れるような演説ぶりが、かえって政治家・山本太郎の「演技」を際立たせた。山本太郎がもともと持っている暴力的なほどの爆発力と、そこで紡がれる弱者へのいたわりの言葉がどうもかみ合わず、乖離しているように感じたためだ。

 もちろん、それは個人の感想にすぎない。それを素直に受けとる者にとって、山本氏の言葉は1つの救いのように聞こえるかもしれない。弱者救済をこれほど力強い言葉で投げかけてくれる政治家はいなかったと涙しても不思議はない。

野党にもひんしゅくを買った過剰パフォーマンス

 だが、私には山本氏の言葉は「弱者救済をテコに既存の秩序を破壊してやりたい」という破壊願望をかぎとった。彼にはそのように思わせる「前科」もあるのだ。

 2015年に安保法案の採決で山本氏は「ひとり牛歩戦術」をおこない、喪服に身を包み数珠をつけて安倍首相をにらんで葬式パフォーマンスをおこない、ひんしゅくを買った。

 山本氏は安保法案に対して、他の野党とも行動を共にして「自民党が死んだ」などと過激な言葉で反対し続けていたが、さすがにこの葬式パフォーマンスは野党側も退いていた。

 国会は与党と野党の駆け引きの場である。野党としては「最後は与党の採決で決まる」ということはわかっていながらも、反対のパフォーマンスをすることで、支持者をつなぎ止めるものだ。
白川司:東京8区出馬騒動で見えた山本太郎の抱える「矛盾」

白川司:東京8区出馬騒動で見えた山本太郎の抱える「矛盾」

野党にもひんしゅくを買った「過剰パフォ」
via twitter
 山本氏がこのようなパフォーマンスをおこなったのは、与党だけでなく野党の反対も単なる「反対アピール」に過ぎないことに落胆したためではないだろうか。つまり、彼はひんしゅくを買うのを知りながら、与野党の「論争ごっこ」をぶっ壊したい衝動にかられて、過剰なパフォーマンスに走った、ということだ。

 このような山本氏のうちなる破壊願望は、自分より強い父権的なものへの批判に向かいがちだ。だが、彼の演出家は、彼の暴力性を抑えて、それを「弱者の味方」に転化しなければならない。破壊ばかりしていては、支持は得られないからだ。政治とは煎じ詰めれば同じ意見の政治家を集めて、物事を動かすこと。政治は数といわれるゆえんだ。破壊だけでは孤立するだけで何も成し遂げられない。


 東京8区への野党連携を無視した出馬宣言も、結局、彼の破壊願望から来たものではないだろうか。彼は「野党連合」という秩序が気に入らずに、「談合」に過ぎない選挙調整に父権的なものを見いだして、あえて破壊しに行ったというわけである。

"強者"側となってしまった山本太郎

 だが誤算があった。8区の野党候補が女性候補だったことだ。そのために、「強者の山本太郎に攻撃された立場の弱い女性候補」という想定外の図式が出来てしまった。明らかな計算違いだろう。山本太郎が攻撃したかったのは、立憲民主党や共産党の長老支配だったろうに、老練な野党は「山本太郎の女性いじめ」を演出し、結果的に山本氏はそれに屈した。

 彼は聞く者を扇動して秩序を壊そうとすることには長けているが、被害者づらすることにかけては老練なベテランである立憲民主党や共産党の敵ではない。「どちらが弱者に寄り添っているか」の競争では、弱者を装ったほうが勝つ。絶対強者の自民党には彼の攻撃は有効でも、同じ野党内では無力化される。
 れいわ新撰組は参院選挙でALS患者や脳性まひ患者の方を擁立して国会に送り込むなど、社会的に弱者に目を配ったユニークな方法で「国会」という場を揺るがすことにも成功している。

 だが、弱者救済と破壊は両立しえない。いくらきれいごとだと言われても、弱者救済に必要なのはやさしさを基調とした政策だ。いくら「弱者救済」を叫んだところで、やっているのが破壊活動では政治でなく革命を志向しているのではないかと疑われて仕方が無いだろう。そもそも、弱者を秩序破壊の道具に利用するのは愚劣な行為である。今回の東京8区騒動で、そのような山本太郎の「矛盾」が露呈したのではないだろうか。
白川 司(しらかわ つかさ)
評論家・翻訳家。幅広いフィールドで活躍し、海外メディアや論文などの情報を駆使した国際情勢の分析に定評がある。また、foomii配信のメルマガ「マスコミに騙されないための国際政治入門」が好評を博している。

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