ナザレンコ・アンドリー:若者の「政治的無関心」がヘンな...

ナザレンコ・アンドリー:若者の「政治的無関心」がヘンな政治家を生む

「政治への無関心」と「責任を避けたがる若者」は比例する

 筆者が日本に来て最も痛感したことは、先進国住民と後進国住民の間にある「政治に対する熱心度の差」だ。もちろん、それは国の社会が安定しているからこそ生じるものであり、一概に「悪い」とは言い切れない。しかし、国際情勢も国内情勢も急速に変化しつつあるなかで、その変化を無視し、今までの消極的な態度を取り続けることは、いずれ大きな危機につながるのではないかと心配でならない。

 政治に対する温度差に、最も衝撃を受けたのは大学生のころだ。「青年心理学」という授業を履修した際、教授の「自分が大人だと思っている人」という質問に対し、教室にいた80人のなかで手を挙げたのは、わずか2~3人だったことが今も記憶に残っている。教授によれば、これは最近の傾向で、30~40年ほど前までは、むしろ20歳の大半は大人としての自覚があったという。こうした変化は、教育の方針転換(厳しい社会のなかで生活できるように訓練することから個性を重視する優しい教育へ)や過保護親(いわゆるバカ親)の増加が原因と思われる。責任を課されることを嫌う若者が増えているのも、そうした生ぬるい環境を与えすぎたからだろう。

 そうした「責任を避けたがる若者」の姿勢が顕著に表れているのが選挙だ。「行かなくても責められないわけだし、自分で一票を投じることに責任が伴うくらいなら、選挙に行かない。そもそも自分の一票で何にも変わらないでしょ」という気持ちから、日本では若者の投票率がなかなか上がらない。そのため、日本政治は"高齢者による高齢者のための政治"になりがちだ。本来なら逆の状態が一番望ましい。これから先、何十年も日本で生き続け、国家の未来を担うのは若者の方だからだ。
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若者が選挙に行かなければ、政治家は選挙に来る高齢者向けの政策を打ち出すのは当然だ。すると、さらに若者が「どうせ行っても……」と思い、悪循環が続くことになる

良くも悪くも政治に積極的だった昭和の学生たち

 日本も少し前までは、若者が政治に積極的だった。「良い例」とは一概に言えないかもしれないが、たとえば安保闘争に明け暮れていた左翼たちや「浅沼稲次郎暗殺事件」を起こした山口二矢、三島由紀夫が結成した「楯の会」や前身の「祖国防衛隊」などに名を連ねた右翼たちも皆学生だった。たしかに、前者が日本で革命を起こそうと暴力的な方向に進んだことは、絶対に批判されるべきことだ。ただ善し悪しは別として、己の信念を抱きながら、命を懸けて政治と闘う覚悟があったことは誰にも否定できないだろうし、全共闘運動が興隆を極める最中に三島由紀夫に討論を挑んだ東大全共闘のように、「暴力」ではなく「言葉」で政治的議論に参加する左翼もいたことはたしかだ(海外では、今なお学生運動が盛り上がっているところが多い)。

 今日、日本で行われている政治集会を覗くと、1960年代の政治闘争に参加していた世代が今なお政治に強い関心を持ち続け、多くの政治運動に参加している印象が強い。逆に言えば、新しく若者が入ってこないのが実情だ。

 ただ世論調査を見る限り、むしろ若い世代のほうが立派な国家観を持っている。いくら野党が政権の揚げ足を取って政権批判や綺麗事を口にしても、若者の自民党支持率が高いことがそれを証明している。しかし参政権を使わない(選挙に行かない)ために、そうした若者たちの真っ当な意見が国政にまったく反映されていない。「もったいない」としか言いようがない。

政治に関心ナシでも幸せに生きられる平和な国「日本」

 もう一つ、大学時代に感じたことがある。4年生のころ、議論(弁論)の授業を履修したときのことだ。受講していた学生は日本人と留学生が半分ずつほどで、皆で一つのテーマを決め、賛成と反対の立場に分かれて議論するというものだった。そこでは多くの社会問題がテーマに挙げられていたが、なかでも「憲法改正」に関する議論は最も印象的なものだった。欧米の留学生たちは、問題点を踏まえたうえで「国軍を持つのは当たり前でしょ? いまだに日本だけが(憲法9条に)縛られている理由がわからない」という考えの人が大半だった。

 一方、中国の留学生は、案の定「かつて戦争犯罪を行ったにもかかわらず、いまだに心の底から謝罪をしていない(?)のだから、絶対に(憲法9条)を改正させるべきではない」という立場の学生が多かった。ただ一番不思議だったのは、日本人学生の反応だ。本来、日本の憲法をどうするのか決められるのは有権者である彼らだけにもかかわらず、最も議論に消極的だったからだ。

 もちろん、頑固ジジイのごとく「今の若者はけしからん」と言うつもりは一切ない。むしろ先述したとおり、政治に対する日本人の感覚は若者のほうが圧倒的に正常だと思う。つまり日本は、これまで社会システムが安定かつ正常に機能し続けてきているので、政治に関心を持たなくても命を落とすような危険を気にせずに済むという平和で幸せな環境で生きられているということだ。だからこそ、日常生活において政治との関係を実感することが薄くなっただけなのだと思う。

本気になれば反日政党を国会から追い出せる

 しかし年齢を問わず、政治への無関心はさまざまな弊害をもたらしている。ここでは4つの例を挙げてみたい。

①野党の議席が多すぎる
 まずは「野党の議席が多すぎる」ことだ。世論調査だと野党の支持率は各党を合わせても10%に満たないが、その数字見合わない数の議席を獲得している。それには「別に自分が選挙に行かなくても自民党が勝つだろう」と安心している自民党支持者が大勢いて、現状に強い不満を持っているノイジー・マイノリティーの投票率が高いことはもちろん、ツイッターデモや抗議を繰り返し、左派メディアの協力を得ながら存在感を上手くアピールできているからだろう。つまり選挙に行かない自民党支持者であるサイレント・マジョリティがもっと積極的になれば、反日政党を国会から追い出すこともできるのだ。

②新たな政治家が力を増やせず政治が停滞する
 次の弊害として、新しい政党はなかなか力を増やせず、政治が停滞してしまうことが挙げられる。新しい方が積極的に立候補し、有権者はより徹底的に政党の方針や候補の公約を調べてくれていれば、日本の政治にももっと多様性が生まれただろう。しかし政治に関わる意欲が低いため、新しい政治家はなかなか知名度を上げることが難しく、当選できず、現状維持はとりあえず自民党に、反自民であればとりあえず野党に入れてしまう。それ以外の選択肢には気づかないのだ。
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国会での質問時間が、与党2割:野党8割なのも問題だ。国民から支持もされてないうえ、質問の内容も無駄と思えるものばかりなのに……

無知ゆえの「反政府」は危険すぎる

③安易な「自民党嫌い」から反日政党に投票する
 さらなる弊害として、共産主義の恐ろしさを十分に理解できず、自民党が嫌、というだけで共産党のような恐ろしい党へ票を入れてしまう人が出てくることだ。私の知人にも、実際にそのような人がいた。彼は「共産主義については詳しくないけど、なんか女性とか社会的弱者に優しそうだから(票を)入れてみた」と私に言ったことがある。政治に参加するのは良いことだが、このような無知蒙昧では、日本の民主主義に取り返しがつかない損害を与えかねない危険性を孕んでいる。

 言うまでもないが、社会主義や共産主義が政権を握った例は多くの国で見られる。歴史的背景や文化、地理、経済発展のレベルなど要素がまったく異なる国々でも、社会主義(共産主義)がもたらす結果はいつも同じ「独裁」と「貧困」だった。

 もちろん、あらゆる国の共産党が、日本共産党と同様「あれ(過去の社会主義)は真の社会主義ではなかった! われわれこそ『地上の楽園』をつくれる!」という主張を繰り返してきたが、結局、皆例外なく同じ悲惨な結果をもたらし続けてしまった。共産党政権を民主的に誕生させることができても、民主的な判断を下すことができないのがほとんどだ。

④普通選挙では直接的に保守政治家を応援できない
 最後の弊害だが、ほとんどの有権者は総理大臣を選ぶことができない。ご存じのとおり、同じ自民党内でもさまざまな政治的立場の人がいる。高市早苗氏が首相になるのと、石破茂氏が総理になるのとでは、まったく「別の国」になる。

 ところが無党派層はもちろん、積極的に保守政治家と自民党を応援している方のなかでも、党員になっていない方が多い。つまり、彼らが普通選挙で自民党に入れた票は、自民党の左派のためになり、保守政治家の支援とならないパターンもあり得る。それでは、せっかく野党候補を落としたのに、彼らと主張を同じくする議員や首相が選ばれてしまう。実際に自民党に入って党の活動に積極的に関わっていれば、この事態は防げるだろう。

 東欧では「政治をやらなければ政治にやられる」ということわざがある。国外では中露の覇権主義、国内では国体と国防、そして伝統的家族観を軽視する政治家が首相になろうとしていることを受けて、改めて政治の重要性に気づき、ネットだけではなく、現実でもより活発に政治活動に取り組み始めるべきではないか。
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いまだに日本共産党は党綱領で「暴力革命」を否定していない。戦後、在日朝鮮人と共産党員たちが結託し、阪神教育事件(昭和23年)やメーデー事件(昭和27年)などの流血騒擾事件をいくつも引き起こしたことを忘れてはならない
ナザレンコ・アンドリー
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。

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