男の体は雑に扱われてきた?

 去る11月19日は国際男性デーでした。
 みなさん、ご存じだったでしょうか。
 発祥は1999年とそれなりに古いのですが、ぼくも最近になるまで知りませんでした。
 が、ここ数年、比較的よく耳にするようになった気がします。実際、このワードで検索すると、各地方自治体などにおける特集記事がやたらとヒットします。
 まあ、もっとも、ちらちらと見たところではどこの自治体のサイトも記事は似たり寄ったり。例えば豊島区の記事は以下のような具合です。

《11月19日は「国際男性デー」。1999年にトリニダード・ドバゴで始まったとされ、男性・男児の健康に目を向け、ジェンダー平等を促すことを趣旨とした記念日です。
「男だから〇〇であるべき」「男なら〇〇しなければ」といったジェンダーバイアスに無意識のうちにとらわれていませんか。
そのことが男性の生き方を狭め、息苦しいものにしているかもしれません。
性別ではなくその人らしさを大切にして、一人ひとりが尊重されるジェンダー平等社会をみんなでめざしていきましょう》


 他の自治体も大体同じで、何だか担当者がウィキペディアでもコピペして適当にでっち上げたんじゃないか……とついつい勘繰りたくなってきます。
 もっとも、男性の健康に目を向け、男性を息苦しさから解放しようというその主張は、大変結構なことです。
 例えばですが『南日本新聞』の記事では、男性の自殺率が女性の2倍ありながら、悩み相談に訴え出る率は女性の2割程度と、なかなか弱音を吐くことのできない男性のつらさを指摘しています。「ハフポスト」の特集では「6割以上の男性が職場で男性に向けられる偏見に『生きづらさ』を感じている」という調査結果が挙げられ、また「朝日新聞GLOBE+」では「国際男性デーに考えたい男性の悩みや葛藤、田中俊之准教授「体は雑に扱われてきた」と言う記事が掲載されました。

《僕はこの例をよく出すのですが、男性が職場やお店などのトイレで小便をする際、のぞこうと思えば隣の人の性器が見えてしまうような状況です》


  ……え?
 これが男の「体は雑に扱われてきた」ことの例だそうです。
 ほかには、男性は尿漏れがあっても雑な対応しかしない傾向があるとか。
 いえ、こうした指摘自体は悪いことではないでしょう。確かに同性同士とは言え、性器を見られるのはあまりいい気分ではありません。もっとも昨今の女子トイレは「心が女性の身体男性」と共用にされていることも多く、それに比べればマシだ、とフェミニストのお叱りを受けてしまうかもしれませんが……。
 また、尿漏れというのも滑稽(こっけい)さを感じてしまい、真面目に語られにくいところですが、男性が自らの身体のケアを怠る傾向を持っていることは確かです。

実は弱い立場の男性

 厚労省の調査による2020年の「年齢階級別にみた施設の種類別推計患者数」を見ると、外来患者の男女比率は大雑把にいって3:4で女性が多いことがわかります。

「いや、女性はか弱いのだから、より健康に気を使う必要がある」とお考えの方がいらっしゃるかもしれませんが、よく知られているように平均寿命は女性の方が上です。同じく厚労省の「平均寿命の推移」では2019年の男女の平均寿命差は6.36歳。1955年の差は4.15歳で、わずかとはいえ、男女の「生命格差」は開いていく傾向にあります。
 女性の寿命の方が長いのは生物学的要素にも還元できる部分もありましょうが、ならばこそ男性こそ、自らをケアすることに敏感であるべきです。

 しかし、これは比較的知られていることですが、自殺者も過労死者もホームレスも、男性の方が圧倒的に上です(だから『南日本新聞』が自殺の件を報じているのはなかなかいいと思いました)。
 警察庁の調査では2022年の自殺者の男女比は67.4:32.6、。厚労省の調査では2022年の過労死者の男女差は(業務による脳血管疾患・心臓疾患を原因とする死亡と業務よる精神障害を原因とする自殺に分けられているのですが、これらを合計すると)536:189
 男性の労働人口が女性より多いことを計算に入れても(男女比ははおおよそ6:4です)、圧倒的な数字と言わねばなりません。

 以前にもお伝えしましたが(「「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提」)、厚労省の調査を見てもホームレスは「4977人中、女性が177人」(もっともこれは2018年の調査で、数自体は年々減少していますが……)。
 こうした時、「女性は性的暴行を受ける可能性が高いので路上生活を選ばない」とされるのが普通ですが、そもそもが路上生活なんて男性だって餓死、凍死、暴行死の危険に晒(さら)されるものであり、好んでやりたいものではなく、他にどうにもならなくなって追いこまれるもののはずです。つまりそうした論者は「女性はそこに追いこまれる以前にセイフティーネットがある」という事実を故意にスルーしているのです。

 男の「体は雑に扱われてきた」という指摘は全く正しく、田中氏がそこを指摘したことには賛同の声を惜しみませんが、肝心の実例がどうにもおかしいわけです。
 確かにトイレの問題も尿漏れの問題も、それはそれで取り組む価値のある重大事ではあります。が、上に挙げた「生命格差」を考えると、ぼくはここで田中氏が「あえて、そうした問題から目を逸らすため、そのような問題をわざわざ探してきて持ち出した」ように思えるのです。
 何しろ田中氏のお話はこれ以降、男性は定年まで働けるという特権を自明視している、だから女性(や、他のLGBT)たちについての想像力が働かないのだとし、

《そういう人たちの「犠牲」の上に自分たちの特権が築かれている、ということを考える必要がありますね》

 などと言っているのですから。
 あれあれ、男性デーは男性の生きづらさを考えるための日であるのかと思ったら、いつの間にか「女性やLGBTのことを考えろ!」とお説教が始まってしまいました。
 実際のところ、男性は「定年まで働」かなくてはならないという「義務」を負わされている性であり(専業主夫が極めて例外的な存在であるのはみなさんご承知の通りです)、その結果が上にある自殺者、過労死者、ホームレスの数として現れているはずです。
 しかしこれらデータを上げては、「男性は女性たちの犠牲の上に特権を築いている」というありがたいありがたいお説教に説得力が失われて、大変です。田中氏としてはそこを無視するしかなかったわけですね。

フェミ的な価値観のゴリ押し

 さて、この田中俊之氏は一体どういう方なのかというと、「男性学の専門家」です。
 男性学については随分前にもご説明したことがありますが(「話題の「弱者男性論」をなんとしても≪許さない≫人たち」、「「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち、「「反・弱者男性論」に見るフェミニストのご都合主義」)、要するに「男性を救う」と謳(うた)ってはいるもののフェミニズムのバリアントでしかなく、その内容は上の田中氏の言説にもあるように「男たちは女性の苦しさを知り、反省しろ!!」と言うだけのもの。

 近年、フェミニズムの反社会性は広く知られるようになってきました(そのせいか、「男性学」関連の本は主旨としてはフェミニズムそのままでも、言葉として「フェミ」が出て来ることは、希少になっているという印象を持ちます)。また、「男たちは女性を差別しているのだ」といったそのお題目にも説得力がなくなり、「弱者男性」という言葉が人口に膾炙しつつあることが象徴するように、男性側の窮状も目立つようになってきました。
 そこで国際男性デーなどが騒がれるようにもなり、男性学の専門家たちもお座敷がかかることが多くなってきたのでしょう。田中氏も五年ほど前、やたらと男性学関連の書籍を出しておりました。しかし結局は、「フェミニズムに入信しろ」と言う以外には特に「持ちネタ」もない……といったところが実情であるように思われます。

 いえ、仮に田中氏が本稿を読んだら、「フェミニズムは男をも救うのだ」などと言うかもしれません。これは、近年のフェミニズム寄りの人間の決まり文句でもあります。
 しかし、それに妥当性があるかとなると、大いに疑問というほかはありません。

 田中氏の著作、『男がつらいよ』を見てみると、それがわかります。
 ここでは男性の幸福度が女性のそれよりも低いという『平成26年度版 男女共同参画白書』の調査を持ち出しながら、結論としては「女性の方が大変だ大変だ」と繰り返すというもの。男性の非正規雇用が増えているという話をしつつ、しかし女の非正規の方が多い、「ですから、男女の比較では、女性の置かれている状況の方が深刻です。(102p)」などとわけのわからない結論が導き出されるのです。

 この調査では、就業状態別の男女の幸福度が挙げられているのですが、「正規雇用者」でのみ、わずかに男性の幸福度が上回っているのを除くと、あらゆる状態で女性の幸福度が上、中でも学生、退職者、そして主婦の幸福度が高いという結果が出ており、普通に解釈すれば「主婦は幸福(そして男性も正規雇用者であれば、まだしも幸福)である」となるはずなのですが、そこを無視してこのように言うのですから、田中氏が男性はおろか女性の幸福も真面目に考えているとは、とても思えません。
 ただひたすら、「ジェンダー平等云々」といったフェミ的な価値観をゴリ押しすることだけが、頭にあるのでしょう。

 彼らは「男のつらさに寄り添う」ポーズを取りながら、弱者男性に対し、ただひたすら「マチズモ(男らしさ)を捨てよ」と繰り返します。
 同書にも田中氏が教えている大学の女子学生に、中高年男性に年齢を聞かれたら語気を荒げて「年相応だよ!」と答えるように指導している(p166)との奇妙な箇所があります。同様に、男性に対して「すごいバカだね」と罵るのが望ましい、とも(p44)。つまり、「女たちよ、マチズモを振りかざすバカな男たちを罵倒し、目を覚まさせてやれ」というわけです(この女子大生がそれで逆ギレした男に暴力でも振るわれたら、氏はどう責任を取るんでしょう)。
 田中氏は「男はとにもかくにも喧嘩ばかりして、攻撃的でけしからぬ」と義憤を繰り返すのですが、奇妙なことに誰よりも攻撃的で男性に対して喧嘩を売ろうとしているのは氏の方なのです。
 これはどうしたって九条の会の呼びかけ人がナイフによる殺人未遂で逮捕された事件や、男性フェミニストがやたらと女性にセクハラやレイプを働いている件を思い起こさせますよね。
 (13570)

『平成26年度版 男女共同参画白書』の調査(男女共同参画局)

平等に貧しくなれ

 田中氏のもう一冊の著書、『男が働かない、いいじゃないか!』を見てみると、氏の秘められた情念がはっきりします。
 本書では「就職できなくたって、いいじゃないか」、「無職だっていいじゃないか」といった言葉が延々延々、延々延々と並びます。
 最終章の最後の節のタイトルは「さいごに――男が働かなくてもいいですか」というもので、引き続いての本文が、「もちろん、働かなくても大丈夫です。(176p)」というもの。

 本当に頭から最後までこのワンワードが繰り返されるのですが、しかし、100人が100人とも疑問に思うであろう、「ならば、どうやって食っていけばいいのか」についての答えは、大変に驚くべきことに本書にはただのひと言も書かれていません!
 この最後の節の前の節のタイトルは「結局、社会は変わりませんよね」というもの。その問いに対し、男性がフルタイムで働くという意識が変われば、社会も変わるのだとぶち、最後に「自分を変える勇気を持って、一緒に社会を変えていきましょう。(175p)」と発破をかけ、節を終えています。

 こうなると著者の目的は「男性に労働を止めさせる」というところにあり、その後に男性がどうやって食っていくかについては一切の頓着(とんちゃく)をしていません。これでは立場の弱い男性たちに「死ね」と言っているも同じなのではないでしょうか。

 先に田中氏が、女性の非正規の多さに憤っていることをご紹介しました。
 となると、氏の真意は男性に労働の場を女性へと明け渡させることにあるのではないでしょうか。
 男の全てはただただひたすら悪であり、しかしながら女性が働き、また先の女子大生への指導のように攻撃性を発揮することは正義である。それが田中氏の考えです。

 言うならば、「脱男性」こそが田中氏の――いえ、「男性学」の専門家たちの目的だったのです。
 それは「脱成長」を説く上野千鶴子氏が、自分は外車に乗り、タワマンで暮らしていることを、やはりどうしたって連想させます。
 男性の攻撃性、マチズモ(男らしさ)も能動性と表裏一体であり、悪いばかりのものではないはずですが、そこを悪として断罪すれば、男性の労働意欲、女性と交際しようという意欲は薄れ、日本は衰退していくばかりでしょう。しかしそれは、彼ら彼女らにとってはどうでもいいことなのです――いえ、それこそを望ましいと考えているのかもしれません。

 相手に武装解除させつつ、ナイフを隠し持つ平和運動家、「平等に貧しくなれ」と説き、自分は不平等な分配を得ているインテリ――男性学はそうした人たちのための学問であり、国際男性デーもまた、そうした人たちが弱者男性を取り込んでフェミニズムの信徒にするためにつくられた記念日だったのです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

関連する記事

関連するキーワード

投稿者

この記事へのコメント

コメントはまだありません

コメントを書く