兵頭新児:話題の「弱者男性論」をなんとしても≪許さない...

兵頭新児:話題の「弱者男性論」をなんとしても≪許さない≫人たち

「弱者男性論」者はアンチフェミなのか?

 今まで、何度か『Daily WiLL Online』にてフェミニズム批判を書かせていただきました。

 ただ、実のところ昨今、ことにネット上の大手メディアでは「フェミニズム」以上に「弱者男性論」(※)とでも称するべきものが話題になっているように思います。
 ※様々な議論があるが、概ね「男性も非常につらいことあり、生きづらいのだ」と主張する論

 この「弱者男性論」が俎上に上るとき、その弱者男性は「アンチフェミ」であるとされることが多く、のっけからフェミニストの敵、として認識されていることがわかります。

 今回はそうした認識に対する「反・弱者男性論」について検討してみたいと思います。

 少し前に話題になったのが、現代ビジネスにおける『「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由』です(以下、この記事をここでは「当稿」と表現します)。

 論者のベンジャミン・クリッツァー氏は、プロフィールによれば「ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している」とのこと。

 彼は冒頭から以下のように断言します。

 
 ≪典型的な弱者男性論者とその読者(以下、あわせて弱者男性論者と呼ぶ)は、自分たちのことを「非モテ」や「キモくて金のないおっさん」と自嘲的に表現する。そして、彼らが言う「つらさ」の内実とは、経済的な困窮に関するものである場合もあるが、大半においては「女性」が関わるものだ。
(中略)
 また、弱者男性論者たちは「かわいそうランキング」や「お気持ち」という言葉を好んで用いる。≫
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弱者男性論者はモテないから「女性」を非難?

社会生活は常にリスクを伴う

 ここには二つのポイントが隠れているように思われます。

 まず、上に挙げられた「キモくて金のないおっさん」、「かわいそうランキング」、「お気持ち」といったワードはいずれも文筆家の御田寺圭氏(「白饅頭」名義でも活動中)により発信されたものです。

 即ち、(当稿では弱者男性論者の名前や具体的な主張の引用などが一切ないのですが、ここから察するに)「弱者男性論者」≒白饅頭支持者であると、クリッツァー氏は半ば、そんな図式を描いていることになります。

 第二に、彼の考えでは、「弱者男性論者」は「非モテ」という言葉に換言し得る、ということ。

 しかしこれは果たして適切な認識なのでしょうか。

 まず御田寺氏、確かに彼は「ネット世論の旗手」といったテイで『矛盾社会序説』を上梓した人物です。ツイッタラー、note執筆者としても有名であり、ある程度は正鵠を射ているように思われます。

 そんなわけで以下は彼の著書を、概ね弱者男性論者全体にも当てはまるとの前提の上で考察することにします。

 さて、そんな御田寺氏の提唱した「キモくて金のないおっさん」、「かわいそうランキング」は実のところ、ほぼ同義と言ってもいい言葉です。同書の第一章のタイトルは「「かわいそうランキング」が世界を支配する」。ここでは彼が学生時代に出会ったホームレスのおじさんが自分の今の境遇をただ自分の責として受け止め、彼が生活保護など行政に支援してもらう手があることなどを進言しても、それを断固として固持したというエピソードが描かれます。このおじさんは自分を「いるだけでも迷惑な存在」と自己規定し、福祉に頼っては「今度こそ世間様に顔向けができなくなる」と語っていたといいます。

 彼はこのおじさんを「透明化された存在」と称します。また保健所の犬も「大きな黒い犬」は引き取り手がいない、小さくて白い、即ち「可愛い」犬ばかりが引き取られる、といったエピソードも語られ、そうした理不尽をこそ、彼は「かわいそうランキング」と呼んでいるのです(もっとも、以前書いたように、ぼくもこれ以前に「愛され格差」という言葉を提唱していたのですが…)。

 ともあれ、上のエピソードでも明らかなように、「キモくて金のないおっさん」の最終形態はホームレスであり、第二章「男たちを死に向かわせるもの」では男性がいかに死のリスクを背負っているかが述べられます。

 フェミニストは「男たちは女性を家に押し込め、経済的利益を独占してきた、けしからぬ」と強弁し続けますが、御田寺氏は「男性たちは社会に出ることでずっと死の危険に晒されてきた。果たして、女性がそんなリスクを背負ってまで経済的な優位に立とうとするだろうか(大意)」と指摘しているのです(これもまた、既にぼくの著作で散々述べられていたことではありますが…)。

弱者男性は「非モテ」のルサンチマンではない

  上に挙げた御田寺氏の主張が「弱者男性論」の代表的な主張であると考えると、クリッツァー氏が唱える≪「弱者男性論」の大半が「女性」が関わるもの≫というのは大嘘であることがわかります。

 たしかに、弱者男性論の大半は、男女のジェンダー差が男性に多大なデメリットを与えているとするもので、その意味では女性に関わるものなのですが、そこを彼は「弱者男性論者は女にモテなくてひがんでるだけだぜ」と事実を歪めて伝えているのです。

 御田寺氏の著書も先を読み進めれば「非モテ」といったテーマにも取り組んではいます。しかし男性の抱え込まされている問題はそれ以前に、競争にさらされる社会やそこから落伍した際の貧困、そして最終的には生命の危機です。また、女性のホームレス数、過労死者数、業務上の死者数が男性のそれに比べて格段に低いことは既にネット上の「弱者男性論」界隈ではデータと共に繰り返し主張されています。それをクリッツァー氏が目にしなかった可能性は大変に低い。彼が都合の悪い論点に無視を決め込んでいる可能性は、極めて高いでしょう。

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ホームレスは男性の方が圧倒的に多い

リベラルの常套手段=「反対できないきれいごと」で反論する

 その一方で、クリッツァー氏の当稿記事では、不思議にも「弱者男性論者」の主張を的確に押さえているのです。

 ≪彼らは、女性の「幸福度」は男性よりも高いという調査結果があることや大半の女性は男性に比べて異性のパートナーに不足していないことなどを指摘しながら、女性のつらさは男性のそれに比べて大したものではない、と主張する。そして、女性に有利になるような制度改革やアファーマティブ・アクションなどの必要性を論じるフェミニズムの主張を批判するのだ≫

 まさにその通りの指摘で、ここまでで見れば弱者男性論者の主張はもっともなこととしか言いようがありません。ところが…

 ≪上述したような弱者男性論の主張は、一般的に言われている正論からはかなり外れたものだ。≫

 ≪政治家たちによる女性蔑視発言や医学部の入試不正問題、政治や経済の領域におけるジェンダー・ギャップなど、この社会に女性差別が存在するということは、大半の人にとっては疑いのない事実として認識されているはずだ。それなのに、男性のほうが女性よりもつらいなんてことがあり得るのだろうか?≫

 え…?

 大変残念なことに、クリッツァー氏は(他の多くのフェミニストと同様に)弱者男性論者の主張に対して一切の理論的な反論をしません。
 
 ただ、「一般的な正論とは違う」から、とまるで当然のごとく全否定するのです。
 
 もちろん、「弱者男性論」が「一般的な正論」と同じかとなると、そこは疑問です。先のホームレスのおじさんの話題が象徴するように、(男性も女性も、男性の弱者性について)それと気づけずにいること自体が、何よりも問題なのですから。

 しかしクリッツァー氏が例に出している森元会長の発言などについてはどうでしょうか。マスコミの偏向報道に惑わされている人も多いでしょうが、疑問を感じている人も多いはずです。つまり、彼の言はリベラル・左翼寄りの人たちが良くつかうレトリック「誰も反対できないきれいごと」に近いものを感じます。
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森元会長の発言も「悪い」前提で報道された

「フェミ」前提で矛盾する論理

 続けて彼は「男性学」に言及し始めるのですが、不思議なことにここでも正しいことを言っています。

 ≪男性学では、「男らしさ」という規範が男性に及ぼす影響や、社会に普及している常識や偏見が男性に課すプレッシャーなどについて、その道徳的な問題点が指摘されたり改善策を提案されたりするのだ。≫

 そう、「男性学」は口先では「男性を救う学問」と仰々しく謳っているのですが、実際にはフェミニズムの一派でしかなく、救いを求めてきた男性たちに「フェミに帰依すれば救われる」と免罪符を売りつけるだけのものなのです。
 
 クリッツァー氏も

 ≪昨今の男性学には、「男性のつらさ」という問題を正面から扱えない傾向がある。≫
 と正確に指摘しています。

 これについてはぼくも完全に同意するのですが、ところが当稿は以下のように続いていくのです。

 ≪それでは、弱者男性論は「男性のつらさ」を解決するための有意義な議論をおこなえているのだろうか?≫

 ≪結論から言うと、わたしには、かなり疑わしく思える。弱者男性論の多くは、男性のつらさの原因は「女性」にあるとして、女性たちの問題や責任を述べ立てることで女性に対する憎しみや敵意を煽ることに終始しているからだ。≫

 現状は男性ばかりが重い荷を背負わされていると表現するしかない。しかしフェミニストは「我々の方が大変だ、さあ私の荷物を持て」と迫ってきます。(フェミニストではない)一般の女性の中にも、そうした人は多いのではないでしょうか。

 そうなると女性への怒りも必ずしも理不尽とは言えないと思うのですが、しかし一体全体どうしたことか、クリッツァー氏は女性に怒りを感じるのはまかりならん、と言うばかり。

 ネット上の「弱者男性論」界隈を見る限り、そこにあるのは女性への怒りではなく、むしろ諦観であるようにぼくには思われるのですが、ともあれ彼の筆致はそこを、「不当な、根拠のない憎悪を煽っているのだ」とコソクなイメージ操作で否定しているだけに見えます。

学問なら「フェミニズム=真理」を疑え

 もう一つ不思議なのは、当稿において女性の上昇婚志向についての指摘がちゃんとなされている点です。

 これは「女性が(多くの場合、自分も働いているにもかかわらず)自分以上の経済力を持った男性を求める傾向にある、それでは女性からのリターンがないではないか」との主張につながるものであり、フェミニストたちはここを無視する傾向にあったのを、彼はちゃんと認めているのです。

 こうなるといよいよもって弱者男性論は全て正しい、との結論しか導き出せないのでは、と思っていると…

 ≪弱者男性論者たちの議論の問題点は、「女性」という属性(もしくは集団)に統計的・平均的に備わっている傾向の責任を、個人としての女性たちに負わせようとする、ということにある。≫

 へ…!?
 ことを女性個人の責に負わせようとした弱者男性というのは、一体誰なのでしょうか?

 もちろん、「女性のみなさん、弱い男性も受け容れてください」的な主張をする弱者男性論者もいないではありません。しかしそれって「女性個人の責にする」ことにはなりませんよね。

 また、そうしたことを言うのは大体、弱者男性論者の中でもリベラル寄りでジェンダーフリーによってそれが成し遂げられると信じている向きが多く、むしろクリッツァー氏のスタンスに近いと言えます。

 それに、彼の言うように「個人の責に帰するな」というのであれば(それ自体は正論と思いますが)、いよいよ責任はフェミニズムそのものに負わせるしかないことになる。
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フェミニズムは「究極の真理」なのか?
 しかし彼は以下のように言うばかりです。

 ≪代わりに弱者男性論でおこなわれているのは、「女性」(または「フェミニスト」「リベラル」)という属性を仮想敵にして、自分たちのつらさの原因はすべて彼女たちに責任があると主張することで、弱者男性である読者たちの溜飲を下げさせるための議論だ。≫

 これ以降、当稿の主張は「憎悪を煽り立てるな、煽り立てるな」というばかりで、「書いているうちに自分たちが悪いことに気づいてしまい、大慌てで弱者男性論者側に『攻撃しないでください、攻撃しないでください』と言い訳している」という図にしか見えず、笑ってしまいます。

 最終的に当稿は

 ≪だからこそ、アマチュアに任せるのではなくアカデミックな世界で正面から向きあって扱われるべき問題であるのだ。≫

 と締められるのですが、アカデミックな場(=男性学)では男のつらさを扱っていないと指摘していたのにこの結論というのは、単純に矛盾しています。

 一つだけ言えるのは当稿からはクリッツァー氏がフェミニズムを「絶対に疑ってはならない、究極の真理」として信じているとしか読めず、その前提があることによって、当稿の論理も乱れたものになってしまっているという点です。

 しかし当稿は御田寺氏がホームグラウンドにしている「現代ビジネス」で発表されているのですが、見た限りでは彼が反論している様子はありません。不思議ですね。

 今回の記事では、主にクリッツァー氏の主張への反論という形で「反・弱者男性論」に言及いたしましたが、次回は別の観点からいかに「反・弱者男性論」がおかしいかについて掘り下げたいと思います。もうちょっとおつきあいいただけると幸いです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。

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