ANTIFA(アンティファ)に染まるLGBT

ANTIFA(アンティファ)に染まるLGBT

しばき隊とLGBT

 極左集団、ANTIFAが話題となっている。トランプ大統領の「米国はアンティファをテロリスト組織として指定する」との発言は日本のマスコミでも大きく取り上げられ、ふだんネットに接する機会のない人たちにも、その存在が知られるところとなった。

 だが一方で、わが国のアンティファ運動については、なぜかほとんど報道されることがない。そして、LGBT運動とアンティファの関係についても。拙稿では、ゲイをカミングアウトした政治家としての筆者が感じた問題点について明らかにしていきたい。巷間指摘されているように、日本におけるアンティファは「C.R.A.C.(元しばき隊)」の別名に他ならない。「C.R.A.C.」とは、ヘイトスピーチを行う右派団体の根絶を目的とした市民活動団体のこと。

 彼らが赤と黒のアンティファの旗を振り、同文字デザインのTシャツを売っているのは欧米のファッションを真似しているだけだと揶揄する向きもあるが、そこには少なからず「暴力には暴力で対抗せよ」という運動論への共鳴があることは間違いない。排外主義に対して「感情より理性を」「話せばわかる」といった生ぬるい戦略しか取れないリベラル派への苛立ちが、彼らをより過激な言動へと駆り立てている。

 筆者としばき隊との遭遇は、2013年まで遡る。フリーター全般労働組合が主催し、作家の雨宮処凛氏をシンボルとして毎年開催されている「自由と生存のメーデー」に参加したときのことだ。サウンドデモの隊列に突如、右翼団体が突っ込んできたのだ。「あっ」と思った次の瞬間、疾風のように道路を駆け抜け、渦中に入っていく人たちがいた。それが、しばき隊だった。付近は騒然となったが、すぐさま警察が対応し、混乱は次第に収まった。

力ずくで排除せよ

 デモの前面に出るのではなく、勝手連的(あるテーマに賛同する者が自発的に集まって支援する市民活動の様式)に自警団の役割に徹して全体をコントロールする彼らの手法は、巧妙に考えられたセルフプロモーション(自己PR)のように感じられた。

 翌2014年、しばき隊界隈の人たちを中心メンバーとする「TOKYO NO HATE」が、国内最大のLGBTの祭典、東京レインボープライドのパレードに初のフロート(飾り付けをされた台車を乗り物で牽引したもの)を出す。このとき筆者は、行進者の横をトランシーバーを握って小走りする野間易通氏の姿を目撃している。野間氏はしばき隊創設者の一人だが、おそらく前年のことが頭にあり、自発的に警護を買って出たのだと想像する。

 もちろんLGBTパレードは、暴徒に襲われた経験がないわけではない。けれども、みんなの知恵でそれを乗り越えてきた。沿道から応援してくれる人たちとのハイタッチは、「信頼」をベースに性的マイノリティへの共感を広げていこうとする参加者たちの意志の表れだった。

 しかし、しばき隊の接近によって、LGBT運動は様相を変えていく。「差別者との対話には意味がない。力ずくで排除せよ」というアンティファ思想に共振するLGBT当事者が増えていき、2018年5月には東京レインボープライド公式シンポジウムのパネリストとして、元しばき隊メンバーが登壇するまでになった。

新しい形態のデモ

 これまでLGBTパレードは「新しい社会運動」の見本だとされてきた。新しい社会運動とは、フランスの社会学者アラン・トゥレーヌ氏が提起した概念だ。1960年代以降、社会の複雑化に伴い、従来の二項対立の図式(資本家vs.労働者、国家権力vs.被支配者など)では解決できない問題が続出し、階級闘争型の労働運動は訴求力を失っていった。そうした中、官僚的統率ではない緩やかなつながりによる新しい形態のデモが若者の心をつかんでいく。

 とりわけ2000年代以降には、トラックにDJブースを積み込み、大音量で音楽を流し、それに合わせて踊りながら行進するスタイルが人気を博した。LGBTパレードはその先駆けだった。同パレードが注目されたのは、「抗議」を前面に出すのではなく、誰もが参加可能な「お祭り」をつくり上げることに成功したからだ。祝祭を一緒に経験することで、これまで性的マイノリティに関心がなかった人々にもシンパシーの輪を広げ、社会に気づきをもたらしたと評価された。

 ところが、この新しい社会運動は、国会前デモに象徴されるように再び姿を変化させていく。団塊の世代の左派系文化人や政治家と結託するようになり、あたかも55年体制に先祖返りしたかのような善悪二元論に陥っていった。そしてLGBT運動もまた、それに引きずられていくことになったのだ。

 2018年7月27日。東京の永田町にある自民党本部前には、杉田水脈議員へ抗議するため主催者発表で5,000人が集まっていた。「LGBTには『生産性』がない」との雑誌での発言が差別に当たるとして、当事者たちが紛糾した事件をご記憶の方も多いだろう。だが、このデモの中心的呼びかけ人だと思われている東京レインボープライド共同代表の二人は、当時日本にはいなかった(山縣真矢氏はベルギーのブリュッセル、杉山文野氏はニューヨークにいた)。実はこれを企画したのは野間易通氏と彼を慕うアンティファ界隈のゲイであり、ハッシュタグをつくり、SNSを使って動員していったのだった。

 デモ後も怒りの炎は消えることがなく、論文を掲載した『新潮45』を廃刊に追い込んだ。一連の動きを先導しているのはアンティファだと当初から関係者は分かっていた。しかし、ファクト(事実)を報じるマスコミは一切なかった。このあと、彼らはさらにエスカレートした。区議会議員の選挙応援に訪れた杉田議員に対し、襲い掛からんばかりの至近距離から罵声を浴びせるなど、その糾弾方法には杉田発言に否定的だった人たちからも疑念の声が上がるようになった。

結局は村社会

 筆者は杉田議員を擁護しているわけではない。最後の発刊となった『新潮45』10月号では、当事者の立場から彼女の認識不足を指摘し、LGBTのおかれている現状を説明、杉田議員との対話を呼びかけた。けれども、アンティファ思想に染まったLGBT活動家たちは、その筆者でさえも攻撃対象とみなすようになる。

「対話路線が無意味だということは米国で証明されている。敵に塩を送るな」との理由で、ツイッターでの総攻撃が開始されたのだ。筆者だけではない。アンティファや彼らと歩調を合わせるLGBT活動家に少しでも異を唱えると、どこからともなく指令が発せられ、誹謗中傷の銃弾が飛んでくる。

 組織を持たないアンティファは、イタリアの哲学者アントニオ・ネグリ氏とアメリカの哲学者マイケル・ハート氏が描くマルチチュード(群衆)そのものだ。2人は、グローバル時代の新たな主権と資本主義に対抗する主体としてマルチチュードを肯定的に構想して見せた。これからの世界を変革し得る存在として期待を寄せた。

 だが、現実はそうはならなかった。確かにバラバラな個がネットでつながり、デモはやりやすくなったかもしれないが、そこに出現した世界は多様性とはほど遠い〝村社会〟だ。村の掟に逆らう者は容赦なく私刑にする彼らを、大衆は遠くから冷ややかな目で見ている。LGBT活動家が「差別だ」と認定すれば議論することも許されない言論空間は、果たして公共的と言えるだろうか?

一方的なレッテル貼り

 たとえば、最近こんなことがあった。鈴木英敬三重県知事が都道府県として初めてとなるアウティング禁止条例制定の意向を県議会で表明したところ、多くのLGBT当事者から反対の声が上がったのだ。ところがマスコミは、条例制定への動きに喜ぶ一部の左派LGBT活動家のコメントを伝えるのみで、市井の当事者の懸念をまったく報道しなかった。「アウティング」とは、本人の了解を得ずに、公にしていない性的指向や性自認を暴露すること。

 鈴木知事は「(アウティングは)家族関係や就労関係を不安定なものにしたり、友人との人間関係を分断し、孤立に追い込んだりしかねない」「互いを思いやる社会となるよう、取り組みをさらに進める必要がある」と見解を述べている。おそらく三重県は、良かれと思って、この条例を考えたに違いない。

 しかし、そこには極めて大きな落とし穴がある。「合成の誤謬(ごびゅう)」という言葉をご存じだろうか。ミクロの視点では合理的な行動であっても、それが合成されたマクロの世界では、必ずしも好ましくない結果が生じてしまうことを言うのだが、アウティング禁止条例はまさにこれに該当する。政策担当者の念頭には、2015年に一橋大学で起きたアウティング事件があるのだと思う。ゲイの法科大学院生が同級生の男性にLINEで恋愛感情を告白したところ、性的指向を暴露され、精神に不調をきたし、校舎から転落死したと伝えられているが、実際はそんな単純な話ではないとゲイ当事者の間では語られている。

 一部のメディアによると、男友達だと思っていた相手からいきなり告白された異性愛者の男子学生は「付き合うことはできないが、これからも良い友達でいたい」と丁寧に断っていたという。それにもかかわらず、その後も通常以上の接触があったため、たまりかねた異性愛者の男子学生は、思い悩んだ末、仲間に暴露してしまったのだそうだ。LGBT活動家による「アウティング反対!」の大合唱のもと、暴露した学生のほうが悪者だと一方的にラベリング(レッテル貼り)されてしまったが、それはあまりにも短絡的な人間理解だと筆者は思う。遺族との裁判では和解が成立しており、口外禁止条項が設けられているため、これ以上の情報がオープンにされることはない。

 だが、この事件からは多くの学びを得ることができる。アウティング禁止条例はLGBTへのまなざしを決定的に変える恐れがある。LGBTから告白されたら誰にも相談してはならないとすれば、そんなリスクのある人にいったい誰が近寄るというのか。「頼むから私にはカミングアウトしないでくれ」と思うのが自然だ。また、どんなに仲が良くても人の気持ちは時間とともに変わる。記憶も捏造される。過去にまで遡って断罪するのだとしたら、かなりの人が社会人としての生命を失うだろう。アンティファが吹き荒れる米国では、誰もが知る名作である映画『風と共に去りぬ』やコロンブス像が差別だとされた。

 米国の政治学者フランシス・フクヤマ氏は、人種やジェンダーに特化したアイデンティティ政治は部族間の戦争のようになると警告する。LGBTを闘争の武器として使うのではなく、たとえアウティングされたとしても、それが何ら問題にならない社会の構築をわが国は目指すべきではないだろうか。
松浦 大悟(まつうら だいご)
1969年、広島市生まれ。神戸学院大学法学部卒。秋田放送にアナウンサーとして入社し、2007年の参院選で初当選、一期務める。2017年の衆院選で落選。アナウンサー時代にゲイであることをカミングアウトしている。秋田市在住。

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