【白川司】「ジェンダーギャップ指数」というまやかし

【白川司】「ジェンダーギャップ指数」というまやかし

男女平等指数120位の日本

 世界経済フォーラムが3月31日に、国別に男女間格差を分析した報告書「ジェンダーギャップ指数2021」を発表した。日本は156ヵ国のうち120位。つまり、世界で120番目に男女平等が進んでない国ということになる。「G7首脳会議」でおなじみの主要7カ国で最下位だっただけでなく、東アジアや太平洋地域でも最下位。昨年度が121位だったので順位は上がっているものの惨憺たる成績だ。

 ジェンダーギャップ指数とは、政治参画・経済参画・教育・健康と生存率という4つの分野で、男女間の格差を数値化したものだ。

 今回の順位は上から、1位アイスランド、2位フィンランド、3位ノルウェー、4位ニュージーランド、5位スウェーデンの順番。ニュージーランド以外は、なぜか北ヨーロッパばかりである。

ナミビア(6位)やルワンダ(7位)が「男女平等」である理由

 不思議な現象もある。それは6位がアフリカ南西部のナミビア、7位がアフリカ南東部のルワンダで、どちらも発展途上国で、どちらも決して男女平等を達成しているとまではいえないことだ。

 たしかにどちらも男女平等の政策を強力に進めているのだが、これには切実な事情がある。どちらも内戦や独立戦争で男性が数多く亡くなり、男性人口が減ったことで、女性が政治経済に参画しないと国が立ちいかなくなっているからだ。

 言い換えると、この指数は、女性を働かせるように教育し、男性より女性がよく働くと高くなるのであって、それ以外の個々の事情は斟酌されないのである。

 17位のフィリピンもその典型だろう。フィリピンは貧富の差が激しく、安いところは1日数百円程度(日本円換算)で、安価にメイドが雇えるという。だから、家事をメイドにまかせて外に働きに行けるわけだが、メイドの女性たちは低賃金の状態で放置されている。これを「男女平等」と言っていいのだろうか。

 貧富の差があろうがなかろうが、この指数はあくまで「男女」のみをターゲットにしており、「男性が怠惰で、女性が働き者」といった社会的背景などはすべて捨象されている。社会的背景や国家の事情をなおざりにした「男女平等論」に何の意味があるというのだろうか。

日本における女性参画の低さ

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確かに日本の女性の政治参画は低い
 日本の個々の順位を見てみよう。政治参画が147位、経済参画が117位、教育は92位、健康が65位。政治・経済の低さが目立つが、識字率がほぼ100%を誇る教育ですら、決して高いとはいえない。あくまで、欧米の基準で男女平等かどうかだけを見ているからだろう。

 もちろん、日本の政治経済の指数の低さは理解できる。女性の国会議員の割合は全体の1割程度であり、閣僚もそこから選ぶのだから毎回数名程度、女性首相にいたってはまだ誕生すらしていない。経済においても、大企業に女性の社長や役員にどれだけいるかを思い出してもらえば、日本の順位が低いのも納得せざるをえない。

 女性がもっと進出すべきであり、そのための方策を国が考えるべきだという意見には賛同するしかない。また、女性政治家を増やして政治に女性の意見を盛り込んでいくことは、日本の国益にも叶っている。

 だが、この指数をそのまま信じて「日本は120番目に男女平等ではない国」=「156ヵ国のうち36番目に男女差別がひどい国」と規定して、それを考えるのは不適切と考えるべきだろう。

 というのは、上述のアフリカの2国やフィリピンで述べたように、この指数はその国の社会時的な事情を全く考慮していないからである。

 男女平等を達成するという場合、私たちはまず社会的背景をしっかりつかんでから政策を考えなければ、国の進路を誤ってしまう可能性すらあると考える。

日本で「女が強い」と言われる理由

 では、日本の社会的背景とはどのようなものか。持論を述べたい。

 「財布のひもを握る」という表現がある。家計の管理を夫と妻のどちらが握るかということだが、国際社会調査プログラム(ISSP)の2012年の調査を見ると、日本は、「妻が管理」が55.9%と17ヵ国平均の14.9%を大きく上回り、逆に共同管理が日本は11.2%と十七カ国平均の52.1%を大きく下回っている(参考文献・岡本政人2015)。

 一説には江戸時代から始まっているといわれるように、「家計は妻が管理するもの」とされてきた日本の伝統から来たものだろう。日本では妻が夫に小遣いを渡す「こづかい制」が多いと言われており、家庭の経済は女性が握る傾向が強い。これが意味するのは、日本では家庭をコントロールしているのは女性であるということだ。

 実際に、結婚している友人らに聞くと、特に子供のいる家庭では妻の意見が圧倒的に強く、夫は妥協していることが多いようだ。結婚当初はリーダーシップを発揮していた男性陣も徐々に権限を奪われ、最終的に妻のリーダーシップに従うようになることが多いようだ。

 話を聞いた者の多くに一致する点がある。それは、結婚のときの気持ちで、多くの男たちが「この(か弱い)女性を守らねば」という気持ちで結婚するようなのだ。ところが、徐々に妻のほうが権限を強め、子供が妻の味方になり、だんだん肩身が狭くなり、最後はいつの間にか妻に従属する存在になっている。

 もちろん、これは「夫」側の一方的な見方に過ぎないものの、男性社会といいながら、実は家庭においては女性のほうが強いことが多いというのは傾向として認めていいのではないだろうか。なにしろ財布のひもを握られているということは、経済を握られているということだ。官庁で財務省がいちばん強いように、家庭では財布を握っているほうが強い。

 かつての日本の家庭は妻が夫を立てることと良しとしていた。それだけを見ると「男性優位」であるが、財布を握っていたのであれば、それはもしかしたら形だけ男を立てていただけで、実権は妻にあったということではないだろうか。言い換えると、妻側に実権があったからこそ、夫をおだててコントロールできたということだ。

 現在はその建前も不要になって、単純に妻が権力を握っていると考えるとわかりやすい。「男はおだてていればいい」というのは、多くの女性が処世術として心得ているのではないだろうか。
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日本の「母」は最強!

日本では「母」が最強

 そう考えると、妻が子供を味方にして夫を操縦している家庭は、女性優位であり、さらに広げれば、日本社会でいちばん強いのは「母」ということになる。

 「母」たちはネットでは既婚女子→キコンジョシ→キジョ→鬼女と揶揄されているが、実際、鬼女たちの社会に与える影響力は絶大である。

 たとえば、タレントのベッキーは、「ゲス不倫」で人気タレントから滑り落ちたが、その原因は鬼女たちを怒らせたからだろう。それは相手の川谷絵音の糟糠の妻に対する仕打ちが鬼女たちの逆鱗に触れたからと思われる。川谷氏もそれなりのダメージを負ったが、ベッキー氏ほどではなかった。

 東出昌大と唐田えりかの不倫についても、多くの鬼女たちが東出の妻であった杏さんに同情がいって、唐田氏は実質、日本の芸能界から追放されたようになっている。日本社会の最大権力者は母なのである。

 その逆が、ビートたけしである。1999年、母のさきさんが亡くなったお通夜のとき、彼はカメラの前でインタビューを受けながら、だんだん感極まって「かあちゃん」と言って絶句して号泣し始めた。全国の母ちゃんたちがこの瞬間からビートたけしの味方になった。もともとトップタレントだが、そこからのビートたけしの地位は何があっても揺るがないほど盤石になってしまった感がある。

 そうやって考えると、日本社会はこと政治経済でみればたしかに男性社会であるが、家庭は女性が君臨する二重構造になっている。男性社会を女性が牛耳っているのが日本社会である。政治経済だけ見て「男社会だ」と言うのは浅薄ではないのか。

社会的背景を考慮した「男女平等」を

 「おっさん」や「じいさん」たちが、「日本は男社会じゃない、女が強い」と言うのを聞いて、多くの「若い女性」たちは呆れかえっているだろうが、それは彼らの実感であることに留意すべきだ。

 やはり家庭では女性のほうが強くて、それなりの我慢を強いられてきたということなのである。つまり、男性が言う「女が強い」は家庭における実感であり、若い女性は「職場での弱い立場」からそれを聞くから反発を覚えるという面のあるということだ。

 ただし、ここで注意すべきことがある。日本社会で強いのは「母」であって「女性」ではない。

 日本社会でいちばん弱いのは「若い女性」である。序列で言えば「若い女性>若い男性>年配男性>年配女性(=母)」のような順番になっている。現在は晩婚化や少子化で「年配女性=母」ではないのだが、この序列は過去のごく大まかなものにすぎないが、ここで若い女性がいちばん割を食っているのは間違いない。

 もちろん、男性が「日本は女が強い」と言うのを聞いて女性たちが腹を立てるのはもっともなことであり、改善していかなければならない面は多々ある。ただし、それは「男を黙らせる」という言論封殺のようなやり方ではなく、実際に女性が不利にならないようにしていくということで達成されなければならない。

 ヨーロッパ人が自分たちの指標で男女平等をはかり、それを真実のごとく受け入れるのは控えるべきだろう。日本には日本の事情があり、日本として男女平等を進めるべきである。文化や社会構造への考慮なしに男女平等をイデオロギーで達成しようとするのは、人間という存在を置き去りにして共産主義化を進めている国家と本質的に大きな差はないと考える。

呆れた大新聞のご高説

 呆れるのは、この件を大きく取り上げているマスコミだ。

 朝日新聞は社説で「憂うべきは、そうした海外からの評価そのものよりも、問題意識を装いつつ腰を上げない日本の内なる硬直さだ。社会のすみずみに根を張る不平等を、いつまで許し続けるのか。明白に責任を果たしていないのが、政治である」と、堂々と政治の責任にしている。また、毎日新聞は「日本の男女平等達成率は独裁国家以下」などとあおっている。

 月刊『WiLL』4月号でも述べたが、女性役員の割合は朝日新聞でも13.33%しかない。毎日新聞にいたっては0%である。いったいどの口が言うのか。そんなに男女平等が大事なら、まず自分の社から、来年の新卒採用の半分を女性にしたらどうか。それなら簡単だろう。堂々と社説で説教までしておいて、まさか「できませんでした」などと言うまいな。
【参考文献】
岡本正人「世界と日本の家計管理の実態と動向――国際社会調査データを用いたパネル分析および多項ロジット分析」『季刊 家計経済研究』第107号(2015年)
http://kakeiken.org/journal/jjrhe/107/107_06.pdf

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