女が異常に威張っていた時代

 今までもジャニーズ問題、そしてLGBT問題について、幾度も書かせていただきました。従来、弱者であり、無垢で清浄なるマイノリティであるとされてきたLGBTたちにも加害性がある、それは幼い子供や女性に対しても発揮されることがあるといったことが、これらによって明らかになったかと思います。

 一方、フェミニストたちもそれに対して声を上げ始めています。それそのものは確かに結構なことではあるけれども、今までフェミニズムがずっとLGBTを仲間として扱ってきたことに反省があるようにはとても思えない、彼女らは理念も何もなく、ただひたすら自らのエゴによって動いているだけではないか……そんなことも、今までお伝えしてきたつもりです。

 では、果たしてフェミニズムはどのような形でLGBTと「強いつながり」を持っていたのか。
 今回はその一例として、30年前に起こった「ゲイブーム」についてご説明しましょう。
 いえ、さらにその前提として、当時は大変な「フェミニズムブーム」であったことをまず、お報せしなければなりません。何しろ男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年、バブル期は労働力が不足して、とにもかくにも女性の社会進出が推奨されました。それに伴い、セクハラだジェンダーフリーだとフェミ発の用語や理念が華々しく雑誌記事を飾り、フェミニストたちは総合誌でも盛んに筆を振るっていたのです。

 そんな「女の時代」の中、1989年に女性誌、『CREA』が創刊されます。同誌は当時、妙に「意識高い系」の記事を連発していたのですが(割と早い段階で普通のファッション誌になってしまったのですが)、91年の2月号では「ゲイルネッサンス'91」という特集が組まれました。これが当時の「ゲイブーム」の発端となったと、一般的には言われています。

 では、それはどのようなものだったのか……特集の巻頭に掲げられたリード文を引用してみましょう。

ゲイって言われる人って、アートに強くて、繊細で、ちょっと意地悪。
彼らと話すと、とっても気持ちがなごむのはナゼ?
ストレートの退屈な男とでは味わえないフリーな感覚。
ファジーな性から本気でもっと学びたい。
“女を超えた男たち”からの過激なメッセージはけっこう深い。


 何というか、「軽薄極まりない」との感想が浮かんできます。
「ストレート」というのは「異性愛者」との意味で、「ゲイ」は普通の女好きの男たちと違って知的で刺激的だ、との物言いの裏には、当然「そうしたゲイの価値のわかる私こそ、イケてる女だ」との思い上がりが垣間見えます。
 何しろこの『CREA』、同年8月の特集は「男を救おう」。とにもかくにも男に対して、女が異常に威張っていたのがこの時代でした。
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日本では30年前に「ゲイブーム」があった(画像はイメージ)

癒しを与えてくれるペットのような存在

 一方、同誌を「意識高い系」と評したように、当時の「ゲイ特集」に躍るフレーズも、どうにも薄っぺらなスノッブ趣味に溢れていました。
 特集内の下森真澄「ゲイとの快適生活をめざす女たち」という記事にも、そうした感覚は見て取れます。

《例えば、芝浦にあるディスコ『GOLD』に集まるクラブ・キッズたちは、完璧に美形、スタイル抜群、しかも明るくて利発そう、という一見文句なしのイイ男がゴロゴロいる。彼らの大半がゲイと聞くと、女に興味のある男にしか興味のない私なんかはガックリしてしまうほどである。
(中略)
 彼女と同様にゲイの友だちを持っている女たちに共通しているのは、ゲイの友だちであること自体に、すごくエグゼクティブな意識を持っているような気がする点だ。(中略)性欲を抜きにしたところで、本当に魅力のある人間だけが、彼らの女友だちになれるという感じなのである》
(104p)

 ホンマかいなという感じですが、当時の女性誌には、こういうのがよくあったのです。
『ELLE JAPON』1993年10月5日号の横森理香「NYゲイ・カルチャーはビーチに健在!」の冒頭では'88~'89年のニューヨークについて「カッコイイ男の子は全員ゲイで、ゲイ・パーティは超盛り上がり(74p)」と書かれ、1993年刊の清水みさを『くっつかないでよ sodomyな美少年・美青年とお友だちになりたい!』(これは副題が象徴するように、実に屈託のないゲイと友だちになるためのHow to本です)の節タイトルには「ゲイ・ボーイはカッコよくなくっちゃ」「ゲイ・ボーイ イズ ビュウティ!」などとあり、本当に頻繁に、こうした寝言が真顔で並べ立てられていたのです。

 勘繰るならば「男に相手にされなかった」ことをこう言い換えていたんじゃという気がしないでもありませんし、あるいは単純に「(フェミニンな)イケメン」の言い換えで「ゲイ」と言っていたのではとも思えますが、ともあれ、当時はこうした戯れ言が佃煮にするほどに量産されていたわけです。

『CREA』の同特集では矢島桃「エグゼ・ゲイの優雅にして禁欲的な生活」といった記事もあります。

《私がゲイの彼らと仲良くなったごく単純な理由は、異常に多かったパーティーの送迎運転手兼エスコートとして役立ってくれたことが大きい。「恋の相手でない男」は、疲れなくてイイのだ》(84p)

 先の『くっつかないでよ』の後書きは、著者が嫌なことがあって気分をささくれ立たせて帰宅すると、可愛らしい封筒が届いていた、とのエピソードで始まっています。

《差出人は、ゲイ・ボーイのお友だち。さっそく、開封してみると、「To My Best Friend」ということばといっしょに、小さな押し花が添えられていました》(237p)

 一体全体、セックスの相手でもないのに、彼女らがそこまで尽くすだけの価値ある女性だったとは驚くべき話ですが、ともあれ当時のゲイは女性たちにとって「癒やし」を与えてくれるペットのような存在として認識されていました。
 いえ、先の下森氏の記事も以下のように、むしろそうした女性たちに批判的に締められてはいます。

《しかし、その関係に頼ることが彼女たちの本当の問題の解決になるのだろうか》(105p)

 この種の記事は実のところ、そうした内省もセットであることが往々にしてありましたが、それでも記事そのものが「ゲイにかしずかれる私」という物語に則って量産されていたわけで、その意味でレディースコミックと本質は変わりません。
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ゲイ・カルチャーは時代の最先端だったのか――(画像はイメージ)

信仰にしがみついているだけ?

 ――さて、しかし、こうした「イケてる」女性たち向けの記事を、もしオタク男子が読んだとしたら、思わず吹き出してしまうのではないでしょうか。
 そう、「ゲイブーム」というのならば、オタク界はずっと「ゲイブーム」だったからです。恐らく本稿をお読みの方もご存じでしょうが、オタク女子たちはアニメや漫画などに登場する美少年キャラ同士が少年愛に耽(ふけ)るという内容の「BL(ボーイズラブ)」が大好きです。いわゆる「腐女子」ですね(むろん、同特集においても「ゲイに親しむ最先端の女たち」として積極的に腐女子への言及がされています)。
 だからオタク男子は、上のような「意識高い」系の記事を見ても、直感的にその下心が感じ取れてしまうわけです。

 腐女子の中には「自分のモノにならない男は皆ホモになればいい」といった名言(?)を吐く人もいます。これはBL趣味の本質をよく表していて、女性にとって自分の性的魅力で男性を虜(とりこ)にすることこそが理想であるものの、それにはリスク(ふられる、性的な加害に遭うなど)も伴う。一番安全なのは女性的美少年に自らを投影し、その美少年が(しばしばレイプなど過激なシチュエーションの中で)愛される様を見物する方法なのです。

 BLの世界ではこうした女性的役割を担う少年を「受け」、男性的役割を担う男性を「責め」と呼び、これはそのまま女性と男性との関係性を美少年と男性に置換したものに他ならないわけです(いい年齢のおっさんが「受け」を演ずるBLがないわけではないのですが、それでも女性的な性の役割を担うことに、変わりはありません)。

 そんなわけで当時の「ゲイ特集」を見て、オタク男子は密かに苦笑をもらしていたことでしょうし、BLが一般にも周知された現代から見れば、非オタクの人たちも、やはり笑ってしまうのではないでしょうか。
 ただ、しかしこれを「インテリ、エグゼクティブぶった女の厨2病的背伸び」だとばかりも言っておれません。というのは、こうしたブームの背景には、先に申し上げたようにフェミニズムブームがあったからなのです。
 やはり「ゲイルネッサンス'91」に寄せられた作家、橋本治氏の「いまどきの女はすでにしてゲイである」を読むと、それがわかります。

《今の女の内実はゲイとおんなじだよ。だって、男に依存しないってことを前提にしてて、しかも恋愛なり性交渉の相手は男なんだから。ゲイの男とおんなじでしょ?
(中略)
 かつての女というものは、男との関係によってそのあり方を決定されてたもんで、自分から直に社会との関係を持っちゃったら、これはもう、かつての意味での“女”ではないんだ。“男”ですよ》
(74p)

 何が何だかわからない、と思われた方もいましょうが、何のことはない、「女が働くようになったから、その行動は男と変わらなくなった」と橋本氏は言っているのです。
 別に均等法以前の女性が全く働いていなかったわけでは全くないし、均等法以降も女性は政治や管理職といった分野に進出したわけでもない(フェミはそれを男のせいにして文句の百万ダラを並べるばかりです)。ましてや、女性が家族を養い、「専業主夫」が増えるなんてことも一切、起きなかったわけで、どこが男性化しているんだと言いたいところですが、とにもかくにも「女は強くなり、男たちを蹴散らしている」というのが当時の情報誌における絶対の信仰であり、そこを疑うことは許されていなかったのです。

 1万歩譲って女性の行動が男性のそれと変わらなくなったとしても、内面までが男性になるとも思えないのですが、フェミニズムにおいては「ジェンダーとは社会的に学習されたものだから、リセットすることが可能」と考えられます。当時のフェミニストたちは「これから女性は男性から押しつけられたジェンダーを跳ね返し、女性性というものは消滅するのだ」と邪気なく信じていたのです。

 大前提として、橋本氏はフェミニズムの支持者であり、また明確にカムアウトしてはいないものの、ずっと同性愛者ではないかと囁(ささや)かれていた人物です。そんなわけで同氏の主張は、当時のフェミニズムのムードを、極めて強く表しているのです。

《女がゲイと話が合うっていうんだったら、それはゲイが女であることを教えてくれるからだと思うね。今の女が知らないでいる、失われてしまった“女”なるもののあり方ね》(同)

 これはまあ、なかなか的を射ていて、要するに先にBLについて述べたように、女性たちは「ゲイ」に自らの女性性を仮託している、といった意味でしょう。しかしこれが正しいとなると、女性たちは少しも男性化していないことになってしまうのですが。
 また、論調は以降、「女が強くあれと追い立てられているので男性との恋愛が成り立ちにくくなっている(大意)」とも続き、これまたなかなか正鵠を射てはいましょう。

《セックスの領域を司るものは女だと思ってるから、男は原則的に女としかセックスをしないんだ。
(中略)
 今の男の錯乱なんていうのはさ、結局のところ、「自分の性交の対象は女であらねばならない自分の恋愛の対象は女であらねばならない」という信仰にしがみついているだけなんだと思うけどね》
(75p)

 しかしこうなると、またわけがわからなくなります。

男の欠点を突かれ、利用されようとしている

 実は当時、上野千鶴子氏も近いこと(「男にとって性欲がそんなに辛いものであるならば、捨ててしまえばいい(大意)」)を言って、評論家の山崎浩一氏に「上野氏は性欲というものを機械のパーツのように着脱可能だと思っているのか(大意)」と呆れられたことがあったのですが(山崎浩一『男女論』(156p))、橋本氏もそれと同じ勘違いをしていたのだ、と言えます。

 実のところ氏は似たような主張(ホモセックスのススメ)をあちこちでしており、先にも述べたようにジェンダーフリーが進めば、人類はみなバイセクシャルになる……とでもいった願望、もとい妄想を抱いていたのではないでしょうか。
 要するに「女たちが強くなり、(男は弱くなり)男女のジェンダーが揺らぎつつあるのだ」との当時、馬に食わせるほどに溢れていた言説を、氏もまた繰り返しているに過ぎません。

 続き、同氏は「性交の対象だけが女で、その性行動のパターンはゲイの男でしかない男なんてゴマンといるよ。(75p)」などとわけのわからないことを言っているのですが、これは今となっては凡庸な「ホモソーシャル」論、すなわち「男は男とばかり仲よくつるんでいる、けしからぬ」であることは、あまりにも明らかです。

 ――以上、「ゲイブーム」の発端である特集に橋本氏が登場していることは極めて象徴的で、これ自体にフェミニズムやLGBT運動のある種のプロパガンダといった性質が濃厚にあったのです。
 これらは同時にまた、ヘテロセクシャル男性を仮想敵にしたマウント、という性格を強く持っていました。

 男というものは天下国家を饒舌(じょうぜつ)に語ることはできても、自分に身近なこと、個人的なこととなると、とたんに寡黙になる生き物です。だからジェンダーだ、セクシュアリティだと言われても語る言葉を持たず、沈黙せざるを得なくなる。そこを突けば、男をへこませることができるというわけです。

 もしかしたら、『CREA』自身にそんな意識はなかったかもしれない。編集者さんがシュミでやっていたことかもしれません。とはいえ、そこに当時のフェミニズムブームが強く影を落としていたこともまた、否定できないのです。

 LGBTブームはこの頃に用意され、女性たちは軽率に乗っかってしまい、そして今、ジャニーズ問題や女性のスペースへのトランスの立ち入り問題などで、手痛いしっぺ返しを食らっているのだと言えます。それは丁度、同時期に乗せられて「社会進出」し、「生涯未婚」という報酬を手に入れたのと、全く同じに。

 一方、近年それら問題が語られ出した、つまりLGBTの暴走に批判が集まりつつある現状は大変素晴らしいことではあるけれども、しかしLGBTやフェミニズムへの根本的な理解度が今ひとつなため、その思想にまではなかなか切り込めず、擦り寄ってくるフェミニストと手を取り合っている人たちもいます。
 そうしたフェミニストの中には、当時はLGBTを「駒」にして男を攻撃し、ご満悦だった方もいらっしゃいます。しかし果たして、彼女らがそうした過去の自分に対して内省があるのかとなると、それは冒頭に書いたように極めて疑問というしかない。

 男性側は今また、男の欠点を突かれ、利用されようとしている……ぼくにはそのように思われるのです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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