「男女」という言葉そのものを消してしまえばいい

 6月10日、『週刊SPA!』が運営する情報サイト「女子SPA!」と「Yahoo!ニュース」による共同連携企画として、「「男の子はクッキーさん、女の子はタルトさんと呼びます」……ズレたジェンダー教育、どう対応する? 専門家に聞いた」という記事が掲載されました。
 インパクトの強い記事で、あちこちに転載されバズっているようですが、しかしそもそも「男の子はクッキーさん、女の子はタルトさん」と言われてもわけがわかりません。同記事から少し引用してみましょう。

《ある幼稚園では、取り組みの一環として、男の子・女の子という呼び方を使わず、代わりに男の子を「クッキーさん」、女の子を「タルトさん」と言うようにしたそうです(※園の特定を避けるために呼称は変えてあります)》

「呼称を変えて」というのもいまいち理解しにくいですが、要するに実際には「男の子はバナナさん、女の子はイチジクさん」と呼んでいたとか、例えばそうしたことだったのでしょう(喩えが不適切であったことをお詫びします)。
 馬鹿馬鹿しい限りですが、そもそも記事のタイトルが「ズレたジェンダー教育」ですし、この事例はむしろ、批判的な文脈で挙げられているのです。
 しかし同時にそこには「ズレていないジェンダー教育」は好ましいとの含意もあることになります。ならば、どうしたジェンダー教育であれば、好ましいと言えるのでしょうか。

 それはもう少し後に考えるとして、この「クッキーさん、タルトさん」を実践していた幼稚園では、今年度の指導計画について教諭から保護者へ以下のような説明があったそうです。

《わが園で積極的に取り入れているSDGsへの取り組みの一環として、“ジェンダーの人”に寄り添う姿勢や、“ジェンダーの価値観”を取り入れていきたいと思っています》

 この教諭の言葉について、同記事は「理解が追いつかず、区別ができていない」と批判します。
 確かに「ジェンダー」とは「社会的・文化的性」を指す言葉ですから、“ジェンダーの人”というのは日本語として珍妙だし、また“ジェンダーの価値観”を取り入れるというのは、「男らしさ女らしさを大事にしよう」と言っているのも同様です。後者は大変結構なことだと思いますが、この教諭がそれを意図して発言したとは、考えにくいでしょう。上の発言を添削するならば、以下のような感じになるはずです。

「わが園で積極的に取り入れているSDGsへの取り組みの一環として、“LGBTなどジェンダーマイノリティの人”に寄り添う姿勢や、“ジェンダーフリーの価値観”を取り入れていきたいと思っています」

 この“ジェンダーの人”という表現は“ハムの人*”みたいな稚気(ちぎ)があり、何となく笑ってしまいますが、勘繰るのであれば、ここからは教諭の「ジェンダー(とやらいう、よくわからんこと)について云々言う(小うるさい、厄介な)人」とでもいったホンネが透けて見え、さらには同記事もそうしたホンネをどこかで感じ取り、ことさらに批判を展開したのではないでしょうか。
 さらに勘繰るならば、「クッキーさん、タルトさん」といったワードからもどこか、教諭たちの「何をどうしろってんだ」と途方に暮れている顔が浮かんできます。

 以前お伝えしたことがありますが、『ハリー・ポッター』の原作者として有名なJ.K.ローリング氏は、トランスジェンダー活動家たちからの苛烈な嫌がらせ、キャンセルカルチャーを受けています。が、その理由は(いくつかあるのですが、一つには)ある記事がトランスジェンダーへの配慮で「女性」という言葉を避け、「月経がある人々」と呼称していること、つまりは「女性という言葉が消されてしまったこと」を批判した、というものです(「子どもをLGBTに導く"ヘンな"大人たち」)。

 こうしてみると先生方には、ごちゃごちゃとうるさいことを言われるのだから、「男女」という言葉そのものを消してしまえばいい、といった思惑があったのではないかと、そんな想像もしてしまいたくなるのです。
 これは丁度、『ちび黒サンボ』が黒人差別として封印されてしまい、それ以降、漫画やアニメなどでも(黒人差別的描写ではなく)黒人の姿そのものが消えたといった状況を思わせます。

* お中元やお歳暮にハムを贈る青年が「ハムの人」という愛称で呼ばれるというハムのCMで広まった言葉です。
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幼稚園にジェンダー教育は必要なのか?(画像はイメージ)

言い逃れではないか

 では、「ズレてない、好ましいジェンダー教育」はいかなるものなのか。
 もし“ジェンダーフリーの価値観”を取り入れるとするならば、フェイスブックに倣って50種類もある全ての「性別」に対して呼びかけるべき、といったことになりましょう。

「男の子、女の子、トランス男の子、トランス女の子、Xジェンダーさん、Aジェンダーさん……」と日が暮れるまで声が枯れるまで叫び続け、「多様な性」に対応すべきなのです。さあ、1人ひとりの「性」を大切にする社会へとアップデートしましょう!(ちなみに「Xジェンダー」は男性にも女性にも属さない人、「Aジェンダー」はジェンダーの概念自体を持たない人。なぜ「G(ゲイ)」や「L(レズビアン)」などがないのか、と思った方もいらっしゃるでしょうが、これらは「性的指向」なので「性別」とはちょっと違うのです)。

 ――そんな面倒なことを言われるくらいなら、黒人同様、男女という言葉そのものも消してしまった方がいい……好ましいことではないとは言え、先生方の困り顔が浮かんできて、責める気にもなれません。
 さらに、本当にこれは勘繰りの勘繰りの、そのまた勘繰りになってしまいますが、同記事自体が、ある意味でこうした(つまり、ジェンダー論者様の深い深いご意向を忖度申し上げていない)「ズレた性教育」を槍玉に挙げることで、予め「アリバイ工作」をする意図があるのでは……と、ぼくには思えます。

 というのも、同記事では大妻女子大学人間関係学部の田中俊之准教授がコメントを述べているのです。田中氏は一時期、よく「男性学」についての本を出していた御仁で、この男性学、「男たちはフェミニスト様のご高説に従い、未来永劫の謝罪と賠償をせよッ!!」と宣(のたま)うものなのですが……。

 同記事には以下のような箇所もあります。

《先日ある取材先で、「小学校の子どもを持つ親が、『ピンクが大好き』と言う女の子に何度も問いかけ直し、なかば誘導尋問で青を選ばせた」というエピソードを聞きました。ジェンダー問題への意識が高すぎるあまりなのでしょうか》

 これに対し、田中氏は「子どもに色を強制するのがいけない」と否定的なコメントをしています。
 むろん、確かに子供を誘導することには賛成できません。
 しかし田中氏のお仲間である男性学の旗手、多賀太氏は『男子問題の時代?』(2016)で以下のように言っているのです。

《たとえば、先の三年生のあるクラスでは、黒いランドセルを使っている男子が、黒を買った理由として「赤より黒が好き」と答えていた。
(中略)
 もちろん、小学校では、こうした結果を「個性尊重」として放置しているわけではない。そうした「自分らしい」選択の背後にひそむ「性別へのとらわれ」に気づかせ、より「自分らしい」選択ができるよう児童に働きかけている》
(125p)

 何と生徒たちの自主性を疑い、「誘導」しているというのです!(一応、読み進めると、男の子が黒いランドセルを選んだ選択を「本当の好みなのかジェンダー規範に則ったものか証明のしようがない」と悩む素振りは見せているのですが……)

 ともあれ、男の子が黒を選びたがる傾向は普遍的としか思えず、「ジェンダー教育」はそこをよしとしない「誘導」という側面が、最初からあるとしか思えません。
 しかし近年は現場でもジェンダー教育に対する疑念が沸き上がっており、「軟化政策」が取られているという事情が、田中氏の発言の裏にはあるのではないでしょうか。事実、近年のジェンダーフリー教育関連の本を読むと、そうした事例(強制)はよくないといった記述が目に留まり、そのこと自体は好ましいけれども、それも世論を受けての言い逃れではないかと、ぼくには思われるのです。

 そうなると問題の記事も、あらかじめ「ズレたジェンダー教育」を槍玉に挙げておくことで、いざ批判の声が大きくなった時には、「我々は誤解を受けている」と「ズレた」人たちに責をおっ被せる気ではないか……そんなことも想像したくなるのです。
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全ての「性別」は50種類もあるそうな……(画像はイメージ)

ウラで「ズレてないジェンダー教育」は進行している

 意地悪すぎる見方と思われるかもしれません。しかしこうしたジェンダー教育については、ゼロ年代にも「過激な性教育」といった形で、問題になったことがありました。その時にも近いことはあったのです。
 この時、保守派側からの批判として「男女混合の着替えが行われている」といったものがあったのですが、それは(小学校の低学年がそうしていることを除けば)デマだったとされています。

 当時のフェミニストがそうしたジェンダーフリーに対する攻撃への反論を意図して出版した『バックラッシュ!』(2006)においては、「ジェンダーフリーは何でも男女混合でやらせることを旨とするわけではない(大意)」と反論がなされています(小山エミ+荻上チキ「ここがよく出る! 七つの論点」373p)。

 しかし目下の女性のスペース問題、つまりトランス女性を女子トイレなどに入れよという主張を見てみると、いかがでしょうか。確かに学校での男女混合着替えは実態のない、保守派の勇み足だったのかも知れませんが、今となっては、「ジェンダーフリーは何でも男女混合でやらせることを旨とするわけではない」などとは、とても言えないのではないでしょうか(そもそもこの小山氏、10年以上前にも「オカマは女湯に入る権利がある」として、ぼくと言い争った人物なのです!)。

「いきすぎたジェンダー教育」への批判をかわすために、予め「我々の思惑を誤解する外部の者が悪いのだ」と「アリバイ工作」をしておこう。
 先の記事には、そんな思惑が秘められているように思えて、ならないのです。

 いくつか、近年の「ズレていないジェンダー教育」についてもご紹介しましょう。
 TBS NEWS DIGの「「男だけど男の子が好き そういう人もいるんだよ」“ドラァグクイーン”(派手な女装をした男性)が小6生に特別授業=静岡・菊川市」という記事によれば、「性の多様性について理解を深めてもらおう」という意図の下、静岡県菊川市の小学校で3月15日、ドラァグクイーン(派手な衣装や化粧などによる女装をした人)の加藤アゴミサイル氏による特別授業が行われたとのことです。
 内容としては同性愛者への差別を止めようということで、加藤氏は(当然、男性の)恋人と共に「授業」を行ったということです。

 以前にもぼくは海外の事例として、2歳から4歳児が対象の幼児教育番組にドラァグクイーンが登場したことをお伝えしました(「市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ」)。
 先の事例は小学6年生対象のもので、年齢は違うし、またテレビ番組と実地での講義といった差もあるにはありますが、こうも早く、欧米での状況が日本へと伝わってきていることには慄然(りつぜん)とさせられます。

 こうした事例は他にも「海外のトンデモ「LGBT教育」は対岸の火事ではない――」などでも書かせていただきましたし、是非お読みいただきたいのですが……実は6月19日、世界で最も人気の高い新聞サイトともいわれるイギリスの「Mail Online」に、「10代前の子供向けの「過激な」性教育授業計画に激怒:12歳の子供向けのアナルセックスとマスターベーションに関するグラフィック教材について親は知らされていないと活動家らが警告」といったショッキングなニュースが掲載されました

《別の教材である『Great Relationships and Sex Education』本は、「人間関係と性の教育に携わる者に非常に人気がある」本で、11歳から13歳の子供たちに向けた、肛門や性器、乳首に触れることは「非常に楽しい」と示唆する、マスターベーションの「実践ガイド」である。
(中略)
教材には、「自分の体の声に耳を傾け、どのような刺激を好むかを見つけてください」と書かれていた》


 記事には以下のようにもあります。

《「活動家の教師」は、「包摂の名の下に子供たちを性的対象とするという包括的な使命」の一環として、(引用者註・性的な)塗り絵、クロスワードパズル、漫画の絵も少女と少年に与えている》

 ぼくも以前、LGBT運動家がペドファイルと親和的になっていると指摘しましたが(「フェミを推進したいあまり、トンデモ性愛までを許容するヤバい人たち」)、海外ではその傾向がいよいよ強まりつつある。そして先のドラァグクイーンの事例を考えた時、これが日本に上陸するのも、そう遠い未来ではないのではないか……。
 そう、ぼくたちが「ズレたジェンダー教育」のニュースに失笑している間にも、それを隠れ蓑に「ズレてないジェンダー教育」は進行している……それは丁度、「ツイフェミ」がネット上の笑い種になっている間にも、より以上の悪質さを持つ「真のフェミ」が深く静かに侵攻しているという状況と、「完全に一致」している。
 ぼくには、そう思われます。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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