恐るべき海外のLGBT教育
《全国の私立学校が、「クィア包摂」カリキュラムの一環として、全国私立校協会 (NAIS)によって管理された、性的に露骨なコンテンツを4歳の子供に~秘密裏に、そして両親の知らないうちに~触れさせるよう訓練してる》
この「クィア包摂」は原語では「クィアインクルーシブ」となっていました。これは以前小山田圭吾氏の問題を扱った時にご説明した「インクルーシブ教育」、即ち「健常者と障害者を共生させよう」という教育と同様、性のマジョリティが「クィア」、つまりセクシャルマイノリティを「包摂」していくためのカリキュラム、ということなのでしょう。
また、入学契約書には「親、保護者の承認は、学生の性同一性を尊重するための前提条件ではない」と書かれているのだそうです。
(NAIS加盟私立校、認定校がどう違うのか、また「入学契約書」がそのいずれのものなのかなど判然としませんが、原文でも明確でないので、ご容赦ください)
ジョージア州にある、やはりそうした(NAISと関連が深い、ということでしょう)学校には、学生がアクセスできる学校の図書館に、『Gender Queer』という本が置かれているといいます。これはとあるトランス男性の半生記を漫画化したものなのですが、ここにはオーラルセックスの描写もあるのです!(ただし登場人物はトランスであり、出てくるのも疑似ペニスではあるのですが)
スウェーデンのニュースサイト、「Samnytt」では2021年4月19日、「ウメオ市の学校で10歳の子供にフィストファックとアナルセックスの教育がなされた」との記事が掲載されています(閲覧注意:過激な画像が掲載されております)。
さすがに問題となって以降は校長が不適切と認め、調査する意向を明らかにしたといいますが、ここでは「アナルは男女関係ないからジェンダー・ニュートラル」と教えていたとのことで、確かにジェンダーフリー(や、LGBTフレンドリー)が望ましいと考えるならば、一般的には「ヘンタイ的」とされる行為をこそ、好ましいと考えるほかないことになります。
「対岸の火事」ではない日本
日本でも近いことは起こっています。例えばトランス男性である遠藤まめた氏も思春期の、そして未就学児童の幼いLGBTたちを「支援」しているということも、上の記事でお報せしました。同氏は「にじっこ」というグループを主催し、そこには「LGBTかもしれない」、「4歳やら5歳」の幼児が参加しているといいます(『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』113p)。
いくら何でもどうしてそんなそんな幼い子供に、と思いますが、考えてみれば「ジェンダーフリー教育」についても全く同じことが言えそうです。
多賀太『男子問題の時代?』ではジェンダーフリー教育の実践の例として、小学生の男の子が黒いランドセルを選んだことに対し、
《そうした「自分らしい」選択の背後にひそむ「性別へのとらわれ」に気づかせ、より「自分らしい」選択ができるよう児童に働きかけている。》(125p)
と述べる箇所があります。この「働きかけ」が具体的にどんなものかはわかりませんが、要するに幼い子供が自分の好きな色を選んだことに対し、延々と文句をつけているというのです!
フェミニストたちはジェンダーフリーについて批判されると「あくまでジェンダー規範の押しつけから自由であろうという解放運動だ」と主張するのですが、それは苦しい言い訳というものです。そもそも、実質的に現代の日本で(少なくとも女性に対しては)ジェンダーの押しつけなどほとんどないとしか思えませんし、裏腹にジェンダーフリー教育は上に見たように、むしろ価値観の押しつけでしかありません。
ここでは小学生低学年に対して、性器や性交、避妊具などを図解入りの教材で説明し、人形を使ってセックスの実演を行う性教育が行われていました。
桜井裕子『性教育の暴走』によれば小学6年生が性情報を調べるために「コンビニでエッチな雑誌を購入し、拡大コピーをしてノートに貼って発表した。(92p)」、小学1年生が「一人一人に鏡を持たせて性器を見せる授業をしている。(96p)」といった事例が確認できたそうです。
この「過激な性教育」については2005年、参院予算委員会で採り挙げられ、その時の様子はNHKで中継されたのですが、議員は資料として上のセックス人形を持ち込もうとして、NHK側から「そんな卑猥なものは映せない」と拒否されたと言います(68p)。そんなものが、小学校の教材として使われていたというのです。
つまり、欧米の教育中に出てきた「オーラルセックス」「アナルセックス」には少々負けるかも知れませんが、日本においてもそれほど状況は変わっていないと言えるのです。
しかし何故、そんなにも幼い子供にLGBT教育、ジェンダーフリー教育をすることが重要なのでしょう。
この点についても先の記事で書いたのですが、以下復習としてごく簡単にまとめてみましょう。
過激な教育の中に潜む思想
LGBTは――いえ、フェミニストやその思想的影響下にあるLGBTの運動家には、「この世のほとんどが異性愛者で占められている現状は間違っている。現代はヘテロセクシャル男性によって女性に異性愛が強制され、同性愛者やトランスが虐げられている邪悪な社会なのである」といった考えがあるのです。
※傍線編集部
そんなバカな……と思われるかも知れませんが、これは「強制異性愛(社会)」と呼ばれる、フェミニズムにとって主要な概念です。決して「例外的なフェミニスト、LGBTが抱いている過激な考え」ではなく、フェミニズム、そして(その強い影響下にある)LGBTの解放運動のど真ん中を大きく貫いている、基本的な考え方と言っていいのです。
未就学児童にすらLGBT教育を施そうという彼ら彼女らのやり方は、多くの人々からは歪みきった、偏向しきったものに見えますが、彼ら彼女らの主観では、異性愛者によって独占されてるこの社会のあり方こそが絶対的に間違っており、根本から覆さねばならないものだったのです。
本当はもっと多くのLGBTが潜在的に存在しているのに、この社会ではそうした「ありのままの姿」で生きることが、許されてはいないのだ――というのが彼ら彼女らの考えなのですから。
彼ら彼女らにしてみれば、現代社会こそが子供たちに「間違った価値観」を植えつけている悪者そのものであり、その前に正義の味方である自分たちが子供たちを救ってやらねば、との使命感に燃えているわけです。
今まで、萌えキャラなどにフェミニストたちが文句をつけてきた事例についてご紹介してきました。そんなフェミニストが何故過激な性教育を、と思われたかも知れませんが、ここまで来るとその理由も明らかです。
一昔前のお堅い道徳的性愛観も、萌えアニメなどが表現する女性観もけしからぬ、自分たちの押しつける性愛観だけが正しいのだ、というのが彼ら彼女らの考えであったのです。
その意味で、フェミニストを「セックスヘイター」であると評する人もいますが、それは当を得ていません。フェミニストは「自分たち以外の人ヘイター」であり、セックスそのものは上に見たように大好きだったのですから。
もはや児童虐待ではないのか?
そもそもが、フェミニズム自体が70年代のフリーセックスの潮流と深い関わりを持っており、ここででは上に書いたような「ヘンタイ的」なセックスがよきこととされました。
以前、米国で9歳の男の子がトランスであるとして、母親によって去勢されようとしている件をお伝えしたしました。記事中で紹介したジョン・マネーは、「性別は生後に変更し得る」との説を唱え、人体実験を行った(そしてその失敗を隠蔽し続けた)恐るべき人物ですが、同時にフェミニストでもあり、フリーセックスを信奉して成人と子供とのセックスを肯定し、治療対象であった子供にポルノを見せたり、セックスの真似ごとをさせたりもしておりました。
つまり、大変残念なことですがLGBTの、そしてフェミニズムの運動は、最初から「子供への性的虐待まがいの介入」という特質を含んだものだったのです。
ぼくたちとフェミニストたちとの間には、例えば草食動物と肉食動物の世界観が全く異なるであろうことと同じくらいの、相互理解など期待すべくもない、根源的な対立関係があるのです。資本主義と共産主義の対立に比べても桁の全然違うものでしょう。
フェミニストは「共生」という言葉が大好きですが、それは互いが共生し得ない者同士であるからこそであり、彼ら彼女らの言う「共生」は常に「我々の都合にあわせろ」という意味しか持っていないことは、今回ご紹介した早期ジェンダーフリー教育、早期LGBT教育を見ても明らかなのではないしょうか。
左派は「子供たちは未来からの留学生」といった言葉が大好きです。
そんな留学生を自分たちの政治的な運動の矢面に立たせることも、彼ら彼女らの常套手段です。
しかし、ことこの問題についてはそれに加え、子供のジェンダー、セクシュアリティに根本的で不可逆な刷り込みを行おうという邪悪な意志をも、感じないわけにはいきません。
いえ、それではまだ済まないでしょう。
実のところ、彼ら彼女らがやたらと子供に関わりたがるその根本には、上に書いたマネーの例が示唆するように、「小児性愛」的な欲望がいくらかでもあるのではないか、とぼくは考えています。
この件については情報も少なく、推測を多く含む話になってしまうので、改めて別の記事でそのあたりについて、ご説明ができればと考えております。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。