戦後76年も続く戦略爆撃の恐怖――日本人にかけられてき...

戦後76年も続く戦略爆撃の恐怖――日本人にかけられてきた「ドゥーエの呪縛」【橋本琴絵の愛国旋律㊱】

平和式典のアピールは核廃絶と無関係

 今年の夏も、広島・長崎では原爆被害者を追悼する式典が開催された。長崎市長の田上富久氏は、今年93歳で亡くなった長崎原爆の被爆者小崎登明さんの遺言ともいえる次の言葉を引用して演説をした。

 「核兵器は、普通のバクダンでは無いのだ。放射能が持つ恐怖は、体験した者でなければ分からない。このバクダンで、沢山の人が、親が、子が、愛する人が殺されたのだ。このバクダンを二度と、繰り返させないためには、『ダメだ、ダメだ』と言い続ける。核廃絶を叫び続ける」

 また同日、長崎市松山町にある平和公園に隣接する爆心地公園内では、地元の高校生80人が集まり、赤いリボンを握りしめて「人間の鎖」をつくり、世界からの核兵器廃絶をアピールした。

 客観的に考えれば、核兵器とは通常兵器による戦闘を抑止するために各国が備えたものであり、「ダメだ」と言い続け、あるいは人間の鎖をつくることと、核廃絶には何ら因果関係はない。しかし、戦後絶え間なくこうした行為は続けられている。

 広島原爆をテーマにした漫画『はだしのゲン』の作者中沢啓治さんは、原子爆弾については次のようなコメントを残している。

 「私の父と姉、弟は倒れた家の下敷きになり、母が必死で助け出そうとしたが、柱はビクともしなかった。火災が起きて、弟は『お母ちゃん、熱い、熱い』と叫びながら死んでいった。その悲惨さは、とても『地獄』などという言葉で表せるようなものではなかった。以後、私は『原爆』という言葉から目と耳をふさいで逃げ回った。あの凄惨な光景が目に浮かんでくるからだ」(朝日新聞 1995年8月5日掲載)

 上記の被爆者の様態に科学的な考察を加えると、これらは致死的な経験をした後、その当時の情景に関連する言葉や概念の知覚によって強制的にその記憶が想起されることで、神経伝達物質のノルアドレナリンが大量に分泌されて氾濫する「フラッシュバック」という現象であるものと推認される。

 現在の精神医学診断基準書には、「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)という項目がある。この病気は、自分の生命を失いかける経験をするか、他人が死亡する様子を間近で見た時に発症する精神障害として知られる。

 平成17年(2005)4月には、兵庫県尼崎市でJR福知山線が脱線して乗客107名死亡、562名が負傷する事故が起きた。この生存者の多くは前述したPTSDを発症したことが事件後、大きく報道された。

 電車事故でPTSDを多くの人が発症したならば、「原爆投下」は、はたしてどれほどの人々が心的外傷を負ったのだろうか、と考えるのは自然なことではないだろうか。原爆投下後には無数の死体が散乱し、ガラスの破片が全身に突き刺さるなど致死的な外傷を負った無数の人々が辺りを徘徊していたのである。

戦時中にもあったPTSD

 今日では当たり前に理解されているPTSDの概念は、第二次世界大戦当時の精神医学水準では正確に解明されていなかった。当時も「戦時恐慌症」や「戦時ストレス反応」という呼び方はあったが、統一された医学基準とはなっていなかった。たとえば1943年8月、アメリカ陸軍のパットン将軍は、シチリア戦線の負傷兵の激励に訪れた際、身体に何ら傷のない兵士がベッドに横たわっているのを見て「臆病者め」と激怒し、手袋で兵士の頬を平手打ちする事件を起こしている。このように陸軍高官であっても、PTSDの原理を理解していなかったのである。

 PTSDの病理概念が正確に解明されたのは、CTスキャンなど脳内の断面を撮影する医療技術が発達してからだった。具体的には、ベトナム戦争に従軍した兵士が帰国後に精神錯乱を起こし、因果関係のない主張を繰り返す様子を示したため脳の断面図を撮影してみると、大脳辺縁系の偏桃体が健常者に比べて委縮している事実が確認された(これに対しても、元から小さいだけだという批判もある)。

 ベトナム帰還兵のなかには、共産ゲリラが葉っぱを踏んで攻撃してきた際の記憶から、「クシャリと葉っぱを踏む音」と「攻撃されて生命の危機を経験した」という記憶が関連づけられて認識され、平和なアメリカ合衆国内で「誰かが葉っぱを踏んだ音」を聞いてしまうと、敵の接近だと脳が誤作動を起こして、闘争本能や敵愾心を刺激する神経伝達物質のノルアドレナリンが大量に分泌され、ただ葉っぱを踏んで近寄っただけの人を攻撃し、時には殺害してしまうなどの錯乱が見られたのである。

 これは、イラク戦争の帰還兵にも同様の症状がみられた。中東特産の香辛料の匂いや、ゴムタイヤの焼ける臭いなどに反応して恐慌反応が起き、精神の正常性を失う様子が確認されている。

 ベトナム戦争やイラク戦争でPTSDが確認されている現実に対して、それ以上の戦闘が行われた第二次世界大戦下でPTSDがなかったとは断言できない。そうしたことから、広島と長崎の被爆者たちが「原爆」という言葉や「核武装」という概念を知覚しただけで、精神の正常性を失ったと考えることは、中傷の意図はなく決して不合理とまではいえないだろう。

 しかし、そういった方々の想いとは別の主題として、私たちは改めて本土空襲や原爆投下が行われた目的=「戦略爆撃」について改めて理解すべきであろう。
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いまでこそ社会的に認知されているPTSD。心的障害であるだけに、戦禍での精神的ストレスは凄まじいものだっただろう。

「戦略爆撃」の目的=民衆のパニック

 戦略爆撃とは、文字通り「戦略的に爆撃を利用することで」、一般にその目的とは相手国のインフラ破壊や民間人の大量虐殺であると考えられている。

 しかし、実際のところはそういった直接的な被害を相手国にもたらすだけのためではないのである。戦略爆撃理論はイタリア王国の陸軍少将ジュリオ・ドゥーエが発表し、その後アメリカ合衆国の陸軍少将ウィリアム・ミッチェルによって完成した。航空機を使い、戦争相手国の都市部を徹底的に爆撃する目的は、実は「パニックを起こした民衆を大量につくり出すこと」にあると戦略爆撃理論創設者は説明している。そこで、ドゥーエが発表した戦略爆撃理論『Il dominio dell'aria』(制空論)から極めて重要な次の一節を紹介したい(原典はイタリア語であり筆者はイタリア語がわからないため、英訳を引用した上で筆者が邦訳した。なお、日本語版は戦後出版されていない)。

 “A complete breakdown of the social structure cannot but take place in a country subjected to this kind of merciless pounding from the air. The time would soon come when, to put an end to horror and suffering, the people themselves, driven by the instinct of self-preservation, would rise up and demand an end to the war.” (このような無慈悲な空襲を受けた国では、社会構造の完全な崩壊が起きるのは避けられない。国民自身が恐怖と苦しみに終止符を打つため、自衛本能に駆られて戦争の終結を求めて立ち上がる時がやがて来るだろう)
※Tannenberg Publishing 2014/8/15 Translated by Dino Ferrari

 『制空論』には、各所で「パニック」という単語が使われている。前述の通り、第二次世界大戦前にはPTSDの概念は解明されていなかったが、致死的な経験をした人に何らかの精神症状が起きることは広く認識されていた。そして、訓練を受けた将校であれば致死的な経験を克服できる確率が高いが、階級が下になればなるほど死の恐怖を克服できる能力を持たない者が増えることも認識されていた。ならば、何ら軍事訓練を受けたことのない一般大衆が集団で致死的な経験をしたならば、どのようになるだろうか。ドゥーエはそこに注目していた。

 結論として、戦略爆撃を加えれば、多くの死体を目にした一般大衆が「戦争継続」に対して不平不満を主張し、相手国政府はその統制に多大な労力を支払うこととなり、結果的に戦争継続能力を喪失するか大きく減退させるという分析が、戦略爆撃理論の支柱である。

 もちろん、これは一般大衆が戦争予算の可決権を有する「議員」を選挙によって選出する権利を持つ「民主主義国家」に対して当てはまる理屈である。ドゥーエの戦略爆撃理論は、「朝鮮戦争であれだけ北朝鮮を爆撃しても、ベトナム戦争で北ベトナムをあれだけ爆撃しても戦争は終わらなかったし、何よりナチスドイツがあれだけドレスデンやハンブルクを爆撃されてもソ連軍が総統官邸と国会議事堂を占領するまで戦争を止めなかったではないか」と批判されている。ただ、これらの国々は戦争中に選挙が行われたことはなく、そもそも共産国では一般大衆が為政者を選出する権利を有していない。そのため、独裁国家に対してはいくら一般大衆を殺傷しても、政府の戦争能力には影響しなかったのである。

 しかし、大日本帝国は大東亜戦争の真っただ中でも衆議院総選挙を執行し、一般大衆が普通選挙によって「戦争予算」を可決する権限を持つ議員の選出を行っていた。つまり、良くも悪くも民主国家であったため、一般大衆を殺傷することは政府の戦争継続能力を減退させるという戦略爆撃理論に、そのまま該当するケースとなったのである。こうして、ドイツのように国会議事堂の一階と二階で両軍が撃ち合いをするような本土決戦を行うことなく、日本は戦略爆撃によって無条件降伏をした。

 この戦略爆撃理論の恐ろしいところは、「戦争中」のみならず、戦争が終わってから何十年もその効果が継続することにある。

正常な判断ができなくなった日本人

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筆者の故郷広島に残る通称・原爆ドーム
 筆者自身、広島県に生まれて育ったため、「反核教育」がどのような実態を持つものなのかを経験している。それは、まだ判断能力を有しない児童に対して、原爆被害者の死体そのもの写真や内臓が付着した遺品などを反復して何度も見せることにその目的がある。現在は撤去されているが、広島市にある原爆資料館のエントランスには、原爆投下後に熱線を浴びて皮膚が剥がれ落ちて、絶命する寸前の女性と子どもの等身大の残酷な人形が展示されていた。

 つまり、実際の原爆被害者がPTSDを起こすだけではなく、その後に生まれた子供たちにも「致死的な認識」をさせて、PTSDかそれに準じる認識をさせ、PTSDを量産する行為を戦後76年間も継続してきたのだ。現代では、15歳未満の児童に対して死体を含む残酷な映像を視聴させることは欧米社会で厳しく制限されているが、日本では7歳未満の未就学児にさえ、眼球が溶け落ちた死体の写真やアニメーションを反復して見させ続けたのである。

 当の実行者たちは、それが「平和に通じる」と固く信じていたのかもしれない。しかし、そのおかけで今年も「人間の鎖」など、平和とは何ら因果関係のない主張をしていることに羞恥心を覚えない高校生たちが登場した。また、上記の戦略爆撃理論の邦訳が戦後一冊も出版されていないことからしても、まさに戦略爆撃を受けたパニックが、戦争終結から76年経っても継続し、正常な判断ができなくなった「ドゥーエの呪い」が日本人にかけられているのである。

 この呪縛は、実際に日本へ核ミサイルの照準を併せている国があるのに対して、その国に対して核兵器廃棄を求めることなく、自分たちの生命財産を守っているアメリカの核兵器に対して廃棄を要求するなど、極めて危険な水準に到達している。いま必要なのは、対話でなく治療である。

 最後に、日本と核兵器の関係について、適切な言葉を残したイギリス王国の第71代総理大臣マーガレット・サッチャーの言葉を引用して本稿を終えたい。

 “Would the nuclear bombs have been dropped if Japan could have retaliated?  Nagasaki and Hiroshima show just how vulnerable a nuclear-free zone really is.”
 (もし、日本が報復できたならば原爆は投下されたでしょうか? 長崎と広島は「非核地帯」が、いかに脆弱か実際に示したのです)

February 12, 1983
Winter Gardens, Bournemouth
Speech to Young Conservative Conference
(若き保守会議へのスピーチ)
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橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。

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