軽率な毎日新聞

 学校の健康診断で生徒たちが上半身裸になることへの疑問が、SNS上でバズっているのをご存じでしょうか。子供の心臓や皮膚の疾患を調べるため、医師も上衣をめくって検査をする必要が生じることがある。しかし思春期の少女にしてみれば、素肌を他人に晒(さら)すのは成人女性以上の羞恥が伴う、というわけです。

 この問題については以前より時々、話題に上っていたのですが、本年5月21日、音楽評論家の高橋健太郎氏がXにおいて、自分の小学6年生である子供が憤(いきどお)っていたとポストしたことがきっかけで、また騒がれたのです。
 高橋氏は抗議した子、泣いた子もいるが学校側は応じなかった、さらには過去にも同じ問題が起きていたにもかかわらず教育委員会が改善してくれなかった、とポストを繰り返しました
 このポストに『毎日新聞』が反応し、X上で高橋氏に接触ニュースとして報道されるに至りました

 ところが本件、『毎日』より2日早く『ライブドアニュース』にも採り挙げられており、そこでは内容そのものが疑わしいとされています。横浜市教育委員会に取材したところ、泣き出す児童や抗議などがあったという話は聞いていない、という回答を得たのです
 もちろん、教育委員会の回答が絶対ではないでしょうが、『毎日』はいささか軽率だったのではないでしょうか。

 ところが高橋氏は炎上後、「もう飽きた」とそのまま遁走してしまいました
 いえ、「遁走」というのはバイアスのかかった表現かもしれません。しかし高橋氏、最初のポストでは(同氏曰く悪名高い)横浜市教育委員会への批判と同時に市議会の常任委員会のメンバーについてこと細かに述べており、また氏は立憲民主党のゆるキャラ、「立憲民主くん」をつくった人物。本件にも何らかの政治的意図が働いているのではないか……とつい、勘繰ってしまいたくはなります。
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高橋健太郎氏のX

影を落とすフェミニズムの悪影響

 確かに女子が裸を見られることに対し忌避(きひ)感を持つのは当然ですが、同時に脊椎側彎(せきついそくわん)症(背骨が横に曲がる病気)など、早期発見には視認が有効で、また実際、検診でそこを見落としたことで医師側が賠償を求められるといった訴訟も起きています。
 こうなるとナイーブに騒ぐことで学校での検診そのものがやりにくくなることも考えられ、下手をすればなくなってしまうのでは、といった懸念も囁(ささや)かれました。

 そしてここには――いつもぼくの記事を読んでくださっている方にはもうおわかりかもしれませんが――フェミニズムの悪影響が影を落としているのではないか……と思われるのです。
 例えば、AED問題をご存じでしょうか。これもSNS上で定期的にバズる話題ですが、要するに男性があくまで善意で、女性をAEDで救助したとして、しかし女性が「救助にかこつけて余計なところにまで触った」と訴え出たとしたら、果たして無罪を勝ち取れるのか……ということです。

 実際にはそうした事例が今まで起こったことはなく、また弁護士による談話などでは、仮にそうした訴えがあったところで、有罪となる可能性は低いだろうとは言われているのですが……しかし、痴漢冤罪(えんざい)問題でぼくたちはすでに知っているわけです、仮に無罪を勝ち取れたところで、訴えられた時点で職を失ったり、報道によって悪評を流布されたりして、人生が終わりかねないことを。また、「前例がない」というのも、近年女性の性的権利が声高に叫ばれ続け、「前例のない」事態が次々に起こっていることを鑑みるに、あまり安心材料にはなりません。

 そして、こうした「性犯罪」の厳罰化を進めてきたのがフェミニストであることは、いかに、どう言い訳しようが否定できないわけです。そしてまた、フェミニストたちはそうした「冤罪」について真面目に考えている様子が、残念ながら全くないことも。
 例えば龍谷大学犯罪学研究センター博士研究員、京都大学博士という立派な肩書きを持つ牧野雅子氏の『痴漢とはなにか』を開いてみましょう*。本書によると2017年の大阪府警のデータでは、痴漢事案の221件中、現行犯逮捕は87件、「指導・警告」が104件ということなのですが(166p)、牧野氏はそれをもって世間で流布されている「痴漢として警察に引き渡された段階で現行犯逮捕されているという話」は嘘だというのです!

 確かに捕まるのは50%弱とは言えますが、これは相当な高確率でしょう。にもかかわらず牧野氏は男性側の冤罪への畏れは過剰であるとし、自らを「被害者」であると考えるなどけしからぬと平然と書き立てるのです!(169p)
 AEDについては不可抗力で女性に触ったとしても、それが裁かれかねないとの懸念が語られているわけですが、痴漢冤罪も性質としてはかなり近しいでしょう。「確かに触ったかもしれないが、満員電車内のことであり、自分の意志ではない」といった事例も、そこには相当に潜(ひそ)んでいることでしょうから。

 また、外科手術を受けた女性が、男性医師からわいせつな行為を受けたとして訴えたところ、術後せん妄(手術後に錯乱、幻覚、妄想といった症状を起こしてしまうこと)と判断されたという事件もありました。この件では医師は無罪になっていますが、それでも100日以上身体を拘束されて社会的信用を失い、大変な苦しみを強いられたのです。
 ほかにも介護の現場で女性障害者が男性に入浴介助されるのは性的虐待であるといった訴えも、ニュースで耳にするところです。

 本件は、いわゆる「冤罪」とはちょっと違いますが、女性の性的権利と、「それとはまた別の権利」、すなわち医療従事者の手間であるとか、女児の健康そのものとバッティングを起こしているという意味で、やはり共通の要素を持っています。

*実は本書、以前にも批判したパオロ・マッツァリーノ氏がぼくの批判に応えて、新たな(「性犯罪の訴えのほとんどが警察で門前払いになるという」)根拠として提示した書なのですが、それが全然根拠になっていない、という奇書でもあります。

「昭和は地獄」って本当!?

 左派は元来、為政者に対して大衆の要求を届けるという役割を持っていました。
 しかし社会が豊かになるにつれ、その「大衆」が「マイノリティ」にすり替わり、そしてマイノリティが権利を勝ち取ることそのものは大変好ましいけれども、それは往々にして大衆の権利とのバッティングを起こすことでもあり、そこを省みなようとしなかったがため、その言説に歪みが生じだした……といったことは、近年の車椅子インフルエンサーの炎上などを考えても明らかでしょう。

 しかし、こと女性問題についてはそれに加え、独自の特殊性があるように感じられます。
 例えば、車椅子の件ならば社会が豊かになるにつれ、駅のエレベータなど完備され、バリアフリーが整備されていくという方向性がある(だからこそ、いささか要求が過剰になってしまった、というのが炎上の本質でしょう)。
 ところが性加害問題については、本質(つまり人間のセクシュアリティ)は何ら変わらないのに要求ばかりが膨れ上がっているというのが現状であるように思われるのです。

 先の『痴漢とはなにか』では、昭和から平成に至るまでの痴漢に対する世間の温度差を、週刊誌記事などを採り挙げ、調査しています。見るとなるほど、昭和の週刊誌では痴漢を楽しいこと、許されるべきこととし、文化人なども擁護しており、確かに驚き呆れます。引用する牧野氏の筆致も怒りに満ちたモノですが、それも道理だとは思います。

 しかしこれは、昭和の時代は世間全体がそうしたことに鷹揚であったからだ、としか言いようがないのです。

「だから、かつては女性の人権が認められていなかったのだ」
「昭和は地獄だったのだ」


 左派の人に聞けば、そうした意見が返ってきますが、それは本当なのでしょうか。
 戦後しばらくは、日本でも混浴の温泉地が残っていました。街頭でも母親が胸を露出して、赤ん坊に授乳したりもしていました。また、そもそも『痴漢とはなにか』には女性誌においても痴漢が面白半分の扱い方がなされていることが引用されています。「男性が女性を抑圧していた」のではなく、男女ともに鷹揚(おうよう)だった、というのが正しいでしょう。

 あるいは、以下のような反論が考えられるかもしれません。

「過去はともかく、すでに時代は変わったのだ。今の時代にアップデートせよ」

 確かに、性に対する温度は差は時代や文化で違います。ブルカで顔すら隠す文化圏もあれば、熱帯などでは女性も胸を露出しています。そのいずれが正しいものであるとすることも、できないでしょう。 

 しかし近年の性的規範の厳格化は、果たして自然なモノなのでしょうか。
 フェミニストによってセクハラという概念が日本へと持ち込まれたのはバブル期。それから40年近い時が経ちましたが、この間に性犯罪に対しての風当たりは強まる一方でした。それそのものはよきことだ、当たり前のことだと考える方もいましょうが、冤罪の可能性に目をつぶってでも、とにもかくにも厳格化せよというのが近年のかけ声であったことは、松本人志事件を見ても明らかです。

さらなる厳格化が求められる

 では、牧野氏は性加害に対する目が厳しくなり、女性専用車両までが用意されるようになったゼロ年代には、溜飲が下がったのでしょうか……? 
 大変残念ながら同書では年代が下るに従い、牧野氏が女性専用車両に対するからかい、痴漢冤罪に対する懸念に対して、より以上の怒りを燃やすばかりなのです。

 この10年、フェミニストは萌えキャラに文句をつけてくるようになりました。萌えキャラには肌も露わな、性的魅力をアピールしたものも多いのですが、どう見ても健全なものにまで彼女らが文句をつけるのは、みなさんご存じの通りです。
 つまり先に挙げた障害者の例などとは異なり、性的規範は、厳格化すればするほどさらなる厳格化が求められるようになる、という流れがあるのは明らかなのです。

 それはなぜか――となると、ぼくには「女性のセクシュアリティが、男性から求められることによって充足するものだから」としか、考えられません。つまり、「厳格化」されればされるほど、さらなる「厳格化」をすることでしか「私は男性から求められた」という「物語」を紡(つむ)げなくなるということです。
 近年、男性は草食化が進みました。近代化による身体能力のアドバンテージの低下、長期に渡る不況なども原因として挙げられましょうが、やはりフェミニズムによる男女の経済格差の消失(つまり、女性が男性に経済的に依存する必要性の消失)と、性規範の厳格化こそが一番大きな原因でしょう。

 バブル期は男性が草食化するにつれ、女性が肉食化するなどといった言説が流行しましたが、それは豆粒ほども実現しませんでした。その代わり、セクハラの基準値を低いところにまで引き下げれば引き下げるほど、さらなる不満が噴出する。といのは、女性にとっては「男から求められる」ことこそが重要だからです。
 宣伝めいて恐縮ですが、ぼくは15年前、『ぼくたちの女災社会』という本を著しました。まさに性規範が厳格化されつつあったただ中で、ぼくはそれをフェミニズムによるゴリ押しだ、と説明しました。そして同書の中には、会社などで女性に「結婚しないの?」と尋ねるだけでセクハラになりかねないことが、驚くべきこと、嘆かわしいこととして記述されています。

 ところが15年経った今では、それは完全に常識化してしまっています。つまり、フェミニズム的価値観のゴリ押しと浸透がこの15年だけでも驚くべき勢いで進んでいるとしか、考えようがないのです。
 しかし、女性に対してそうした話題を持ち出すことすら憚(はばか)られる社会が、果たして本当に女性にとって望ましいものでしょうか。

 女性の中にも男性と結婚や恋愛、セックスについての話題を楽しみたい気持ちはあるはずですが、フェミニストは「それは全て悪しきことだ!」と決めつけ、否定してきた。その結果が、非婚化、少子化が取り返しのつかないところにまで進行した、今の社会です。
 そしてこれは「女児の恥じらいを尊重しよう」というかけ声で検診がなくなりかねない、その結果、病気の発見が遅れ、取り返しのつかないことになりかねないという今回の騒動と、構造を全く同じくしているのです。
 女児の恥じらいも、もちろんできる範囲で尊重すべきことであるのは、性犯罪をできる限り生まないようにすることと同様、大切なことです。しかし「そのためにはいかなるコストも投じ、いかなる犠牲をも払え」と言い出すと、それはフェミニズムという歪(ゆが)んだ思想になってしまうのです。

 最後にまた宣伝になりますが、上に挙げた『ぼくたちの女災社会』の電書は今月一日より、Kindle Unlimitedでの展開を機に、増補改訂版が出されることになりました。章ごとに「補論」として大幅な加筆がされ、今の時代へのアップデートがなされております。
 上の「性規範が厳格化するほど、女性はさらなる性規範の厳格化を求める」というテーゼは本書の中でも詳しく検討されているのですが、補論の執筆作業中、自分でも読み返していて、それは今でこそ体感的に納得しやすいのではないか――言い換えれば、本書は今でこそ、なされた指摘が現実化しており、お読みいただければ納得しやすいものなのではないか……と手前味噌ながら感じております。
 どうぞ、購入をご検討いただければ幸いです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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