「ビッグイシュー」の奇妙なツイート

 1月16日、奇妙なツイートがバズりました。

ビッグイシューの販売者やホームレス状態の人には女性が少ない傾向があります。なぜか考えてみませんか? ※「女性は働かなくても生きていけるから」ではありません。

 ツイートしたのはThe Big Issue Japan。ビッグイシューといえば、ホームレスに雑誌を売る仕事を提供し、自立を支援する企業です。
「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

 女性のホームレスが大変に少ないのは事実であり、ならばひとまず、ビッグイシューが女性について述べる必要は、それほどないのでは……と思いつつ、リンク先に飛ぶと「The Big Issue Online」の「女性のホームレスはなぜ少ない? 単身女性の貧困が考慮されていない社会デザインについて/岡山ウィズセンターに出張講義」という記事に行き当たります(もっともこの記事自体は、3年前のものです)。

厚生労働省の調査結果を見ても、4977人中、女性が177人。「不明」とされている人が全員女性だったとしても370人で、1割にも満たない。男女比に大きな偏りがあります。

 何しろ同記事でも上のようなデータが挙げられており、ホームレス問題はもっぱら「男性問題」であると言っても過言ではないのです。

 しかし、一体全体どういうことか、同記事は上の記述以降、ただひたすら日本では女性の貧困者が多い、男性に比べ賃金格差があるといったデータの提示に奔走(ほんそう)します。

 記事では「稼ぎが少ない女性は主婦のパート労働ばかりではない」としていますが、そうは言っても主婦がそれなりの割合を占めているのは事実でしょう。また、いずれにせよ女性が貧しいにもかかわらず路上生活者が少ないというのは、女性が恵まれていることの証拠と言わざるを得ないはずです。

性産業より路上生活がマシなのか?

 さらに記事は、以下のような主張を展開します。

女性は体力もなく、1人でいれば危ない目にあうことも多く、路上に出た場合のリスクがとても高い。そのため、性産業など屋内に住めてはいても安心できる状態にはないとか、誰かの家を転々とするというような状態で過ごすという人もいます。

 え……?

 ちなみにこの文章の書かれた項には「貧困でも路上に出るに出られない女性」とのタイトル(見出し)がついています。

 えぇと……「本当は女性だって男性のように路上に出たいのに、女性であるがゆえに(この社会の女性差別構造のために)出られない」のでしょうか……?

 正直、文章そのものが曖昧で、言わんとするところがよくわからないのですが、少なくともこれを読む限り、「女性には性産業に身を寄せる選択がある。しかしそれはホームレスよりも辛いことであり、本当ならば路上生活の方がマシ」、というのがビッグイシューの主張であるとしか、考えようがありません。
「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

確かに路上はリスクが高いだろうが…
 しかし、一般論として路上生活の方が辛いのではないでしょうか。

 性産業などには悪徳業者もいるでしょうが、そうした職業を選ぶ女性もいる以上、ブラックな業者ばかりとも思えません。考えようによっては業界を侮辱した物言いです。

 また「路上に出た場合のリスクがとても高い」とあるのが具体的に何を指すのか明確ではありませんが、恐らく「女性は男性に比べ性犯罪の危険性がつきまとうのだ」ということなのでしょう。
前々回も述べた通り、殺人事件における女性被害者の率は30~40%といったところで、暴力事件については男性の被害者が多いのです)

 しかしもし性犯罪の危険がないと仮定すれば、女性は性産業などよりもホームレス生活を選ぶのでしょうか。餓死の可能性、冬は凍死する可能性、健康を害して死亡する可能性は大変高いと思われますが、その方がマシなのでしょうか。ホームレス狩りなどの暴力被害にも遭う可能性もあります。それでもそちらの方がマシ、なのでしょうか。

 正直、これではビッグイシュー自身が「路上生活など大したことではない」と考えているように思え、彼らの活動への賛同者が減ってしまうのではないかと心配です。

男性の窮状は無視するのか

 記事のタイトルには「ウィズセンター」とありますが、これは男女共同参画推進センターのことで、記事はそこでの講義を元にしたものなのです。しかし正直、ビッグイシューがそんな場で講義をする理由も、またそれを元にした記事をやたら推す理由も、さっぱりわかりません。

 本当に「男女共同参画」を目指すのであれば男性の窮状をこそ訴えるべきでしょうに、言っては何ですが、「フェミニスト向け」のリップサービスをしているように読めてしまいます。
 ぼくはこの主題について、ネット上で幾度かフェミニストと話したことがあります。しかし彼女らの言い分も、一様に上と全く同じものでした。男性の方が生命の危険に晒されているのだ、との「事実」をどうしても受け容れられないのです。

 彼女らの中にあるのはホームレスになることに対する、根本的なリアリティの希薄さであり、そして「性をひさがされる悲劇的女性」というイメージの聖性、「性被害に遭う被害者としての女性」の絶対性を手放したくないという情念のようでもありました。

 男性は安全どころか、むしろ被害に遭う率が高いのです。しかし彼女らはそれを、どうしても認められない。

 立場の弱い男性に対しては専ら「男が男性性の鎧を脱がないのが悪い」との「自己責任論」をぶつばかりです。

 レイプなどが許されないのは論を待ちませんが、それでも「殺される方がマシ」などとは安易に言ってはならないはずです。

 彼女らの論理を正当化するには、どうしても一つの仮定を導入する必要があります。それは、「女の生命は男のそれよりも価値が上だ」というものです。
「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

異論は受け付けません!

メディアも「女性弱者」ばかり注目

 そして、これは実のところ、世間全体のコンセンサスでもあります。

 1月22日、『朝日新聞DIGITAL』に「コロナ禍、女性の窮状続く 21年自殺者数は高止まり」という記事が載りました。「コロナ禍で女性の自殺者数が高水準で推移している」というのです。絶対数そのものは去年に比べ11人減なのですが、一方男性は240人減という数字であり、女性の方が大変だ、というわけです。

 もっとも、自殺者は基本、男性の方が多いことが知られており、ここまで男性の自殺者が減った去年も、絶対数では女性の2倍以上もあるのです。

 去年の12月25日の同じく『朝日新聞DIGITAL』では、「若者や女性の自殺増、国が対策を 高橋まつりさん母が命日に手記」との記事が載りました。電通社員であった女性の過労自殺を採り挙げ、「働く女性」の危機を訴えています。「和民」の従業員の女性が過労のため自殺した時にも大きく採り挙げられましたが、しかし、これも前回お伝えしたように、過労死で亡くなる男性の数は女性の20倍から30倍ありながら、ここまで大きく話題にはなりません。

 女性が亡くなることはやはり、男性が亡くなることよりもショッキングであり、重大事と考えられる。しかし(あるいは女性の中にはこれを自明で正当なことと考える方もいらっしゃるかもしれませんが)、男性の危機については何も語らず、女性についてばかり採りあげるのでは、「男は死んでもいい」と言っているのと、さほど代わりがありません。

「男性ゆえ」救われないつらさ

 今、「女の生命は男のそれよりも価値が上だ」という価値観を、「フェミのみならず世間全体のコンセンサス」と表現しました。

 しかしそれは取りも直さず、「女性ばかりか男性も少なからず、そう考えている」ということでもあります。

 ネットを中心に社会問題についての言論活動を行っている御田寺(みたてら)圭氏という方がいます。その御田寺氏が著した『矛盾社会序説』に、ホームレスのおじさんの印象的なエピソードがあります。そのおじさんは自分を「いるだけでも迷惑な存在」と規定し、今の境遇を自分の責としてただ受け止め、行政に支援してもらっては今度こそ世間様に顔向けができなくなると、生活保護などを頑なに拒むのです。

 さらに同書を読み進めると、「大きな黒い犬」「かわいそうランキング」といたキーワードが登場します。保健所でも「小さな白い犬」に比べ大きくなってしまった黒い犬、つまり可愛さに欠ける犬は引き取り手が少なく、殺される運命を迎えることが多い。また、御田寺氏はツイッターなどで「キモくて金のないおっさん」というワードを定着させたことでも知られており、これもまた「大きな黒い犬」と同主旨のキーワードであることは、言うまでもありません。「かわいそうランキング」が支配する社会では「大きな黒い犬=キモくて金のないオッサン」はケアを受けられずに死んでいく可能性が高い、ということなのです。
(この話題を引っ張り出す度に書きますが、ぼくも彼より先に「愛され格差」という言葉を提唱していたのですが……)

 つまり、ホームレスのおじさんも今まで生きてきて、自分が「男性故に」救われない存在であることを痛感したからこそ諦念に至っていると考えられるのではないでしょうか。
 冒頭のホームレスの話に戻りますと、女性のホームレスが少ないのは故郷に帰るなどして、地域社会に守ってもらいやすいからだそうで、ここには男女のジェンダー差がはっきりと現れています。女性の方が救済されやすい傾向があることは事実なのです。
「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

「女性の方が常に危険」というフェミのヘンな前提

フェミニストたちも、男性が苦しめられている事象を素直に受け入れればよいのでは?

「男性の不幸は自己責任」という身勝手さ

 恐らくですが、こうした主張はバブルの頃であれば顧みられることは少なかったはずです。ホームレスは今より少なかったでしょうし、それは男性という「何かをなす性」がある程度リスクを冒してもそれに見あうゲイン(収入)を得られる可能性が高かったからです。もちろん、当時も上のような不幸なおじさんはいたはずですが、そうした少数派を見ぬふりをできる人が相対的に多かったと想像できるわけです。

 しかしこうも不況が続くと男性の不利さが際立ってくる、しかし人々はいまだ意識のアップデートが追いつかず、旧態依然としたフェミニズムを正しいものだと思い込んでしまっている……そういうことなのではないかと思います。
 以上の問題は、突き詰めれば「世間は男性より女性に注目する」「男性は自らを蔑(ないがし)ろにするが、女性はケアされることに積極的」といった「ジェンダー規範」、つまりぼくたちの生来の気質を原因とする、救いがたい問題に帰結するかもしれません。

 しかし、人の生命に関わる以上、そうとばかりも言ってはおれません。

 目下「ジェンダー問題の研究家」の椅子に座っている者たちがフェミニストばかりであれば、「女性は男性より危険にさらされている」「男性の不幸は自己責任」という前提が解消に向かうことは難しいでしょう。であれば、そういった「研究家」の矛盾や思い込みを指摘し続けるしかありません。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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