でも、それを言い出したのは多分おばさんだと思うから。
妬みも嫉みもなく本心から発した言葉じゃきっとない。
だから真に受けちゃダメです。
若い女性を罠にはめるために編み出された呪文です。
久能君は田村由美先生の女性向け漫画『ミステリと言う勿れ』の主人公。菅田将暉氏主演でドラマ放映も開始されている人気作です。
しかし、作中に出てくる久能君のあまりにも偏向したフェミニズム的な「お説教」にネットなどでは苦言も見られ、彼は「ポリコレアフロ」とのニックネームを頂戴しています。
実は本作の第三巻「Episode4-4 鬼の集」では、久能君が誤ったデータを引きあいに出して「お説教」をしてしまい、批判されました。
"子育ては仕事より辛い"論を強調
関係者の女性が外で働きたいにもかかわらず、幼い娘の面倒を見るため家庭に引っ込んでいる(周囲はそれが女の幸せじゃないかと理解を示さない)、という状況を目にして、久能君が言い出すのです。
≪父親を被験者にした、とある実験が行われた。簡単なペーパー問題を解くというだけの課題を提示されたが、やたらと実験者に話しかけられ、電話がかかってくる。とうとう父親たちは「集中できない、やっていられない」と怒り出した。
しかしこれこそが、子育てをする母親の毎日なのだ。≫(筆者による大意)
――言いたいことはいろいろありますが、それは置いて、まずご説明しましょう。
これは水木ナオ氏という小説家がツイッター上で発表した「創作」なのです。同氏のツイートで同主旨のものがあり、田村氏が実話と早合点して自作に引用してしまったのです。
しかし当該ツイートには「#twnovel」というタグがつけられており、これは「ついのべ」という一種の小説。タグそのものを知らなかったとしても「novel」と書かれているわけだから、それを実話と思い込むのは、いささか軽率に過ぎるでしょう。
<田村由美先生より>
『ミステリと言う勿れ』第3巻episode4-4の実験のエピソードは、水木ナオ様がTwitter上で発表した著作を、実際に行われた実験であると誤認したまま描いたものです。この実験により救われている人が多いのではと感じ、ぜひ作中で紹介したいと思ってしまいました。事実かどうかの確認を怠ったのは本当に迂闊だったと猛省しています。
水木ナオ様に深くお詫び致します。また、素晴らしいお話を引き続き使用させていただくことをご快諾くださったことに心より感謝致します。
編集部も重版時及び電子版に水木氏の著作を参考にしたことを明示する旨を述べていて、非常に誠実で的確な対応だったと思います。
漫画はこの後、久能君が「家事や子育てがもし簡単で楽なことなら、男性がやりたがるはずだ、しかしそうならないのは(この実験でわかる通り)それが大変なことだからだ」と説くという展開になります。
支離滅裂もいいところではないでしょうか。
上のエピソードが創作であった以上、まず前提が成立していませんが、そこを置くとしても、そもそもよほどエラい人――例えばベテランの漫画家先生など――でない限り、一般的な会社勤めの人間にとって業務を度々邪魔されることなど、普通でしょう。言っては何ですが、(サラリーマンである)編集者も大御所の先生の玉稿を拝受して、いろいろと思うところがあったのではないでしょうか。
その後、久能君はその(子育てを強いられているらしき)女性に語ります。
“女の幸せ”とかにもだまされちゃダメです
それを言い出したのは多分おじさんだと思うから
女の人から出た言葉じゃきっとない
だから真に受けちゃダメです
女性をある型にはめるために編み出された呪文です
(中略)
世の中に残ってる言葉はおじさんが言ったものがほとんどで
そこには趣味と都合が隠されてる
えぇと、何かそういうエビデンスとかあるんですかね。
「バージンロード」が"悪い"言葉に
そりゃ、この言葉自体は和製英語であり、ウィキにも日本の結婚式場業界の作った言葉だとあります。その意味で「おじさん」が作ったという想像は恐らくは、正しい。
しかしこの言葉に憧れを持つ女性も多いのではないでしょうか。1997年にはこのタイトルを冠したドラマも放映されています。
以上のように、久能君の言葉の多くは彼の、否、田村氏の非現実的な思い込みが根本にあり、事実の反映にそれほど頓着している様子はありません。久能君は蘊蓄を語る時、「好きな説」、「面白い説」と称するのですが、彼の中ではそうした価値観が「確からしさ」を上回っているのでしょう。
その意味で久能君、否、田村氏にとって先の事例についても事実か否かについては、それほど重大なことではなかったのではないでしょうか(実のところ、漫画では久能君がこの事例を挙げる前口上として、「前にネットでちらっと見た記事で だから詳細はわからないんですが」と予防線を張っているのです)。
だからこそ、田村氏はこの「創作」を「素晴らしいお話」と絶賛し、「引き続き使用させていただく」と述べている。それは、「嘘だけど、耳に快い話なので問題ない」と言っているも同然ではないでしょうか。
更に上記のセリフの後に、久能君は「女(母親)が自分の中から出てきた言葉を使った方が、子供も絶対に嬉しい」と断言します。つまり母親が“女の幸せ”などという虚構に囚われず社会に出て働く方が、子供にとってもよいのだと決めつけているのです。
父親が家庭を顧みないことには苛烈に憤っておきながら、です。
ちなみにAmazonレビューでも近い感想が見られました。主婦業を「(子供の邪魔のせいで)達成感を感じられない苦しい作業である」と、その女性の子供の目の前で言ってみせるのはどうなのかと。ぼくも、その意見に賛成です。
"真実"と思わせるフィクションの危険性
しかし漫画の場合は(映画や小説もそうとはいえ、ことに)話はそう簡単ではないのです。
『逆境ナイン』などの熱血漫画で有名な島本和彦氏は、漫画家自身を熱血的に描いた快作『吼えろペン』の中で、「人は漫画を読む時、そのフィクションレベルを脳内で調節しつつ読む」と語っています。絵のタッチや世界観の描写で、人はその漫画がどれだけリアリティを持っているかという「フィクションレベル」を無意識裡に判断しているのだ、ということです。
本作では様々な蘊蓄が盛んに語られている以上、それを基本的には‟本当のこと”ないし、‟事実に近いこと”として認識するのが普通のはずです。ドラえもんのひみつ道具が実在すると考える人は例外的でしょうが、仮に事情を知らない人が本作を読んだとしたら、先の実験は本当にあったと考えるのがまず、普通ではないでしょうか。司馬遼太郎氏の歴史小説が‟歴史的事実”であると捉えられがちなことに似ているかもしれません。
ましてやそれは久能君の「お説教」の根拠として使われているのですから、その真偽は決定的な意味を持ちます。
しかるに作者は「耳に快い言葉であれば素晴らしいのだ」と考えている節があり、それは果たして創作者の態度として、どうかとしか思えません。
それは前回お伝えした、「故意に痴漢冤罪を仕掛けた女が突き落とされ、怪我を負った」という事件について、久能君が「女性の方が痴漢冤罪を許せなく思っているはず、だから犯人は女性ではないか」と想像した件と、全く同じです。
実はこのエピソードのラストで、「犯人は本当に女性だった」と判明するのですが、そのこと自体は「創作なのだから、文句を言っても仕方がない」でしょう。しかしその推理に至るまで久能君の主張の根拠が事実に即していなかったこと(作者もまた、その点について不誠実であったこと)には、批判がなされるのが当然です。
何の注釈もなく"マス"で発信されることの危険性
確かにそれはそうです。ただ、例えばですが『ルパン三世』は盗賊を主人公としたピカレスクであり、言ってみれば反社会的な作品。しかし同時に(ハードでシリアスな初期作品に至るまで)殺し屋に狙われて返り討ちで殺すといった話はあれど、罪もない弱者を殺すなどの描写はなされません。仮にそんな話が作られたら、さすがにファンからブーイングを浴びてしまうでしょう。
さらにフェミニストであれば「ポルノはどうなるのだ、反社会的な描写が肯定されるではないか」との反論があるかも知れません。
これも確かにそうで、男性向けポルノには罪もない女性をただひたすらレイプして大喜び、といった作品がいくらでもあります。
しかしポルノというものは基本、18歳未満は観ることを禁じられ、書店などにおいても「ゾーニング」がされていることが普通です。そんな作品の価値観は、比喩的な言い方をすれば、「ゾーニング」によって「メタ的に否定」されているのです。だから基本、ポルノはこそこそと、隠れて読むものとされているのです。
今まで述べてきたように、久能君は平然と男性全般に濡れ衣を着せ、それを大したことではないと考えている、極めて問題のある人物です。しかも、読者はそれを「正論」だと思って享受する可能性が高い。そこにこそ問題があるのです。
先に「バージンロード」という言葉は、かつて女性に肯定的に受け入れられていたはずだ、と述べました。
ぼくは田村氏が独身か否かを存じ上げませんし、久能君の言葉に快哉を叫んだ女性も必ずしも高齢独身とは限らないでしょう。しかしこうした漫画が流行することと非婚化という時代背景は、決して無関係ではないはずです。
ところが久能君の手にかかれば、おじさんの作った言葉だとの仮説(というか、思い込み)を前提に、「この言葉自体が家父長制の顕れ(と明言はしませんが、バージンロードを父と共に歩むことがおかしいのだ、と語っています)」となってしまうのです。
女性ジェンダーとは受動性そのものです。これは手柄を男に取られてしまう、男が利を得ることにつながるというネガティビティもありますが、同時に全てを男にやらせておいて、その責を負わせ、後から文句の百万ダラを並べる権利を得ることのできるメリットがある、ということでもあります。
女性たちも当初は喜んで受け入れていたはずですが、しかし、例えばですが婚期を逃すなどしてこの言葉が呪わしいものとなった瞬間、それは「おじさんの作り出した悪しき言葉」に後からなってしまう。
それはまるで、恋人と別れたとたん、「実は好きではなかったのだ、性関係があったが、それは実はレイプだったのだ」と態度を翻す、悪質な女性のように。
女性はその受動性ゆえ、直接的な加害行為に及びにくいと一般的に思われている。それが女性向けコンテンツの中でも反社会的なものが「ゾーニング」されにくい一因でもあります(先に述べた男性向けの反社会的なポルノ、実のところレディースコミックでも似たようなものは無限にあるのですが、ゾーニングはされにくい。女性が模倣犯となるとは考えにくいからでしょう)。
しかし(いずれにせよゾーニングの対象になるようなものとは違いますが)本作のような主張は、もう少しアングラな場でなされるべきなのではないか……とぼくは思います。久能君の主張は、エロ漫画の主人公が「女はみんな黙って俺に股開いてればいいんだよ!」とわめいているのと大差ない、と思えるからです。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。