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中国との武力衝突を想定し、一般市民に戦時中の対応などを教える台湾の民間組織の活動が増えている
「目の前に武器が落ちていたら、味方の武器でも敵の武器でも、絶対に拾ってはいけません」

 10月のある日曜日の午前、台北市内中心部のビルの一室で、約50人の若い男女に対し、ホワイトボードの前に立つ中年男性が語気を強める。「私服姿のあなたが武器を手にすると、ゲリラ部隊の戦闘員に見られてしまい、撃たれる可能性があるからです」と男性が続けた。
 中国との武力衝突を想定し、一般市民に戦時中の対応などを教える台湾の民間組織「黒熊学院」の授業風景である。「黒熊学院」の名前は、台湾に生息する「タイワンツキノワグマ」からきている。全身黒い毛に覆われ、首元に白い三日月の模様があるクマで「台湾黒熊」の愛称で親しまれている。近年は台湾を象徴する動物として、たびたびメディアに登場している。2021年、中国発のフェイクニュース(偽情報)や、サイバーテロなどを研究する学者、台北大学の教師、沈伯洋氏が中心となり、「黒熊学院」が設立された。

「戦争になれば、市民たちはまず自分を守る術を知らなければならない。そのうえで、侵略者に屈することなく、ふるさとを守る」と沈氏は学院を設立した動機を語った。原住民の間では「台湾黒熊は故郷の山を守ってくれる神だ」との言い伝えがあり、いざという時、市民の一人ひとりが黒熊のように勇敢に戦うことをイメージして「黒熊」を組織の名前にしたという。
 インターネットを通じて希望者を募り、不定期に講座を開き、台湾海峡をはさむ両岸の地政学と戦略、中国人民解放軍による台湾侵攻のシナリオ、また偽情報の見分け方などを教える。けがした時の応急処置のトレーニングもある。
YouTubeより (12763)

湾の半導体製造大手UMC(聯華電子)の創業者で、著名な企業家、曹興誠(ロバート・ツァオ)氏
via YouTubeより
 同学院は2022年夏まではボランティア団体として細々とやっていたが、9月から大きな変化が起きた。台湾の半導体製造大手UMC(聯華電子)の創業者で、著名な企業家、曹興誠(ロバート・ツァオ)氏が、6億台湾元(約28億円)を同学院に寄付し、3年で300万人の「黒熊戦士」を訓練してほしいと依頼してきたという。同学院は急拡大し、台北、台中、高雄など複数の都市で講座を開くようになり、今は講師の育成に力を入れている。

 大金を寄付した曹氏は1947年、中国・北京に生まれ、2歳時に両親と一緒に台湾に渡ったいわゆる「外省人」の一人だ。大学卒業後、技術者を経て1980年にUMCの創業を主導し、以降、同社の社長、会長を長年務めた。同じ時期に半導体大手、TSMCを創業した張忠謀(モリス・チャン)氏と並び「台湾半導体業界の2大巨頭」と呼ばれた。
 
 曹氏は約10年前までは、中国と台湾の統一を主張し、中国への投資や工場建設などを積極的に推進した。しかし、約束を守らない共産党幹部らと接触しているうちに不信感が募り、中国と距離を置くようになった。特に2年前、香港で平和的な抗議活動などを取り締まる法律、国家安全維持法が成立したことで曹氏は大きなショックを受けた。当局の言うことを聞かない新聞が廃刊に追い込まれ、民主化を求める学生らが多く逮捕されたことを受け、中国共産党に完全に失望した。「台湾を香港にしてはいけない」と中国の侵略から台湾を守る活動を本格的に始めた。
 中国が台湾海峡付近で大規模な軍事演習を実施した直後の9月初め、曹氏は記者会見を開き、「台湾の安全を守るため、私財1億ドル(約134億円)を台湾防衛のために寄付する」と発表した。 

「私は政治や選挙などに興味はない。ただ中国共産党の噓と暴力が嫌いだ。中華圏の人々に浄土と青空を残したいと思っている」と強調した曹氏は、「黒熊学院」に寄付したほか、4億台湾元(約18億円)を拠出し、3年で30万人の「射撃の名人」を育てる計画も発表した。台北市内などで複数の射撃場を整備し、射撃愛好団体に補助金を出すという。

「射撃の名人」を育てる計画に参加している政治評論家の范疇氏は、「最先端のミサイルや戦闘機を買って防衛しても、中国がそれを圧倒する兵力で攻めてくれば、台湾は占領される可能性がある。故郷を守る最後の砦は一人ひとりの人間だ」と話した上で「定期的に射撃訓練に参加する人が増えれば増えるほど、中国の台湾侵攻のリスクは高くなる。大きな抑止力になる」と話している。

 曹氏はこのほか、民間の「ドローン操縦士」を育成することや、インターネットで中国発のフェイクニュースに対抗するチャンネルを立ちあげることを計画している。「私たちは決して圧力に屈しない。自分で故郷を守る勇気と決意があることを中国に知ってもらいたい」と強調している。
矢板 明夫(やいた あきお)
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児2世として日本に引き揚げ、97年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から16年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』(文春文庫)などがある。

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