北朝鮮・拉致問題 本気で闘ってくれたのは安倍首相

北朝鮮・拉致問題 本気で闘ってくれたのは安倍首相

トランプ大統領からの書簡

 最近、「安倍首相は拉致問題を利用して出世した」という批判を耳にするようになりました。しかし、見当違いもはなはだしい。安倍首相は長年、私たちとともに闘ってきたのです。横田滋さんが逝去され、トランプ大統領は早紀江さんにお悔やみの書簡を送付しました。そこには「めぐみさんを必ずご自宅に連れて帰るという重要な任務を続ける」と書かれていましたが、トランプ大統領を〝闘い〟に加わらせたのも安倍首相の力添えが大きいのです。繰り返し拉致問題の非道ぶりを説明し、私たちも大統領の側近に被害者家族を会わせるなど、努力を重ねた結果でした。

 安倍首相と私たちは、北朝鮮だけでなく、日本国内の〝内なる敵〟とも闘ってきました。いや、いまも闘っています。安倍首相に対する冒頭の批判が、いかに的外れで卑劣なものか。これからお話しする私たちと安倍首相の「闘いの記録」を読めば、その理由をおわかりいただけるでしょう(役職等は当時)。

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 めぐみさんが拉致されたのは、43年前の1977年。その事実が明らかになったのは、20年後の1997年でした。ご両親は20年間、めぐみさんがどこで何をしているかわからなかったのです。

 当時、公安機関などを含む北朝鮮専門家は、「実名公表は避けるべき」との意見が多数を占めていました。実名を出すと北朝鮮が証拠隠滅のため、拉致被害者に危害を加えることを懸念したのです。政府機関がそう言っているのだから──拉致被害者家族は、水面下で交渉が進められ、日本政府が奪還してくれると信じていました。

 1997年、横田家は実名公表を決断されましたが、横田家のなかでも早紀江さん、双子の弟の拓也さん、哲也さんは躊躇していました。20年間、めぐみさんは「お父さん、お母さん、いつ助けに来てくれるの」と思い続けていたに違いない。ようやく北朝鮮にいるとわかったとき、愛娘を危険に晒す行動を取るのは耐えがたいと反対していたのです。

 しかし、滋さんが次のように説得したといいます。
「拉致が起きてから20年間、日本政府は真剣に救出に取り組んで来なかった。このまま〝新潟出身のYさん〟という曖昧な形で報道が続けられても、世論は盛り上がらないだろう。そうなればまた20年、何も起きずに親たちは死んでいき、拉致された子どもたちも、拉致という事実さえ明らかにならないまま死んでいく。一定のリスクはあるが、世論に訴えよう」

 実名公表の6年前である1991年、私は月刊誌『諸君!』(文藝春秋)に日本の学者として初めて、日本人が北朝鮮に拉致されているという論文を寄稿しました。公安関係者などから、「身の危険はないか」と繰り返し尋ねられましたが、社会的には完全に無視されました。拉致問題は、日本人の私が、日本語で論文を書くことさえままならないほどのタブーだったのです。闇の中にあった拉致問題を明るみに出したのが、滋さんの決断でした。

 有本恵子さんのご両親も救出を訴え、孤独に戦っていました。恵子さんの夫の石岡亨さんが実家に送った手紙で、2人が平壌で暮らしていることを知ったご両親は、繰り返し外務省や警察、自民党・社会党の主要議員を訪れ、救出を求め続けていたのです。

 なかでも外務省では、担当課の末端実務者が廊下で話を聞くという冷たい対応をされたといいます。まともに話を聞いてくれたのは安倍首相の父・安倍晋太郎議員だけで、秘書を務めていた安倍首相はこの頃から闘いに加わっていました。

 業を煮やした有本さんや市川修一さん、増元るみ子さん、蓮池薫、奥土(蓮池)祐木子さん、地村保志、濱本(地村)富貴恵さん、原敕晁さんの家族らも実名公表を決断され、1997年に家族会ができました。

 その決断を傍で見ていた私は、「家族がここまで悲壮な決断をして実名公表を行ったのに、世論が盛り上がらなければ日本は国家として終わりだ」と考え、学者という枠を超えて運動の世界に飛び込むことを決意します。こうして少数の専門家と国民有志が、家族会を支援して救出運動に取り組む「救う会」を各地で結成したのです。

北朝鮮の肩を持つマスコミ

 それでも、私たちは内なる敵に囲まれていました。『産経新聞』以外は「拉致疑惑」と書き続け、「拉致はある」という私たちの意見と、「拉致はない」という朝鮮総連の意見を併記していたのです。

 2000年には、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』が私に出演依頼をしておきながら、「今回は朝鮮総連をどうしても出演させたい。彼らが西岡との同席を拒んでいる」という理由で出演依頼を取り消されたこともありました。担当者からは、「この出演依頼の取り消しは、司会の田原総一朗氏も了解している」という趣旨の説明を受け、同胞を見捨てるテレビ朝日の姿勢に、強く憤ったことを覚えています。

 さらに1999年、『朝日新聞』は「日朝国交交渉を進めるべき」という内容の社説で、拉致問題を「国交正常化の障害」と書きました。滋さんは親の代から朝日の読者でしたが、この社説を読み、購読紙を産経に変えています。

 自民党の部会では、外務省の槙田邦彦アジア大洋州局長が、「たった10人の(拉致被害者)ために北朝鮮との国交正常化が止まっていいのか」と言い放ったこともありました。多くの人たちから、拉致問題は〝邪魔者〟扱いされていたのです。

 それでも愚直に「拉致はある」と訴え続け、2002年9月17日の小泉訪朝で世論は一変します。拉致を命じた金正日が、小泉首相に拉致の事実を認めて謝罪したのです。10月15日には、地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、曽我ひとみさんの5人が帰国が実現しました。

 実名公表から小泉訪朝までの5年間は、拉致問題を否定する人たちとの闘いでした。そして私たちの隣にいたのはほかでもない、安倍晋三という政治家だったのです。ところが内なる敵は、小泉訪朝をめぐっても、官房副長官だった安倍首相に嫌がらせを行います。訪朝の日程がギリギリまで伝えられなかったのです。

 日朝首脳会談では、田中均アジア大洋州局長に北朝鮮側からペーパーが渡されました。そこには「8人死亡、5人生存」(北朝鮮が主張する拉致被害者全員)という情報や、死亡したとされる8人の死亡日が記されていました。ところが、外務省が現地で翻訳した死亡日が書かれたペーパーは安倍副長官に配られませんでした。

 当時、拉致被害者家族と私は東京の記者会見場で待機していました。平壌からの報を受けた福田康夫官房長官は私たちに、記者の前から離れて外務省の施設に呼び出し、「慎重に確認作業をしている」と告げます。その後、横田さん夫妻が呼ばれ、植竹繁雄外務副大臣が涙を流し、「娘さんは亡くなっています」と断定形で伝えたのです。もちろん、私たちは政府が北朝鮮から伝えられた情報を鵜呑みにし、事実を確認せずに伝えるとは思っていません。実名公表後、証拠隠滅のために殺害されていたら……恐れていた最悪のケースが脳裏をかすめ、その日は眠ることができませんでした。

西岡力さんインタビュー

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被害者を返そうとした日本政府

 ところが翌朝、帰国した安倍副長官が官邸への出勤前、私たちが宿泊しているホテルにやって来ました。私たちは死因や死亡日時を尋ねます。「わからない」と繰り返す安倍副長官に、私が「確認作業はしたんですか」と大きな声で聞くと、「していない」と教えてくれたのです。

 その日の朝刊では、横田家ら「死亡」と伝えられた拉致被害者家族のことが、「遺族」と書かれていました。私たちも、これで救出運動は終わりだと思い死亡日や死因について様々なことを考えていましたが、日本政府として確認作業をしていないとなれば話は別です。

 私たちは安倍副長官が「確認作業をしていない」という事実をいち早く伝えてくれたからこそ、すぐ開いた記者会見で「『死亡した拉致被害者』と言わず『死亡とされた拉致被害者』、そして『遺族』ではなく、『死亡と言われた被害者の家族』」という言い方をしてくださいと伝え、持ち堪えることができました。安倍副長官がいなければ拉致問題は解決されたことになり、国交正常化へと進んでいたことでしょう。

 5人が帰国したあとも、私たちと安倍副長官の闘いは続きます。日本政府・外務省に「日本人を守る」という姿勢がなかったのです。日本に帰って3日目の10月17日、5人はそれぞれの故郷に帰り、私は地村保志さん宅にマスコミ担当として宿泊しました。地村さんは隣の部屋でお兄さんと酒を飲んでいましたが、夜中3時頃、お兄さんが私の部屋のドアを叩き、「先生、弟が『日本政府が守ってくれるなら日本に残りたい』と言っている」と伝えに来たのです。

 私は安倍副長官と拉致問題を担当する中山恭子内閣官房参与に、その旨を内密に伝えました。帰国は、北朝鮮に子どもを残し、また戻ってくるという条件で認められたもので、「日本に残りたい」という意思が北朝鮮へ伝わると、子どもに危害が加えられる恐れがあったのです。

 5人を北朝鮮へ返そうとする政府内で安倍副長官と中山参与が抵抗し、最終的に政府は「本人の意思に問わず、政府の責任で5人を残す」と発表します。「家族がいないところで本人の意思確認はできない」という理屈でした。

 ところが驚くべきことに、朝日は日本政府の姿勢を「逆拉致」と書いたのです。本人が北朝鮮に戻りたいと言っているのに、日本政府が返さない、と。蓮池薫さんは、記者会見をして「自分の意思で残る」と主張することを望みましたが、安倍副長官と中山参与が「私たちを悪者にしていればいい」と説得し、会見が行われることはありませんでした。

 そもそも、国家として〝犯罪者〟に被害者を返すことなどあり得ないでしょう。しかし、福田官房長官や田中局長は北朝鮮に返そうとしたのです。もし安倍副長官や中山参与の存在がなければ、5人は2度と祖国の地を踏むことができなかったかもしれません。

信念を貫いた安倍晋三

 内なる敵との闘いは、いまも続いています。わずか2年前の2018年6月、第1次米朝首脳会談が開かれるや、「国交正常化を優先すべき」だとするマスコミや政治家が出てきました。10年余り活動していなかった日朝国交正常化推進議員連盟が、議員会館で40人あまりの与野党議員出席の下で総会を開き、朝鮮総連の機関紙『朝鮮日報』の平壌支局長や田中元局長が講演を行ったのです。

 平壌支局長は堂々と「拉致は解決済み」という北朝鮮の公式立場を強調し、田中氏は拉致問題の棚上げにつながる日朝合同調査委員会と、東京・平壌連絡事務所設置を提案しました。その直後に行われた自民党総裁選では、石破茂氏が田中氏の講演内容を公約にして、安倍首相と激しい論戦を交わしています。

 ここまでお読みいただいた方なら、「私たちのそばに長いこといて支援してくださった安倍総理とともにこの問題解決を図っていきたい」(滋さんご逝去後の記者会見)という拓也さんの発言の真意もおわかりいただけるでしょう。

 安倍首相は、「拉致問題を利用して出世した」わけではありません。実体は正反対で、拉致問題に取り組んでいたからこそ、出世できなかったのです。安倍氏は首相になるまで、主要閣僚を官房長官しか務めていません。父が安倍晋太郎という政界のサラブレッドでありながら、野中広務氏ら旧金丸派をはじめとする親朝派が強かった自民党内で「拉致問題はある」と言い続けたため、同期のなかで最も出世が遅かったくらいです。

 しかし党内で冷ややかな目で見られても、たとえ出世が遅れようとも、「自国民を助けることは政治家の使命だ」との信念を貫きました。だからこそ、拉致の事実が判明し、日の目を浴びることになったのです。むしろ安倍晋三という政治家がいなければ、小泉訪朝後、自民党も国民から大バッシングを浴びたでしょう。自民党を救ったのは安倍首相と言ってもいい。

 哲也さんは「40年間何もしてこなかった人たちに何も言われたくない」と語りました。拉致問題に限らず、「事件」は発生直後が最も解決しやすい。しかし30年間、政府は熱心に取り組んで来ませんでした。2006年に第1次安倍政権が発足してようやく、拉致問題担当大臣、その下の事務局が新設されたのです。さらに北朝鮮人権法が成立し、政府と地方公共団体に拉致問題の啓発事業を行うことが義務づけられました。

 このように、安倍首相によってやっと拉致が発生してから「40年」のなかで、直近の「10年余り」で政府に全員救出の体制ができたのです。「拉致はない」「国交正常化の障害」と言い続けた〝40年間何もしてこなかった人たち〟がいたからこそ、解決は困難を極めているのです。安倍首相は政府が真剣に取り組まなかった30年間の過去のツケを背負って闘っている。拉致問題が解決しない元凶を決して見誤ってはなりません。

 私はこれからも安倍首相とともに、滋さんに誓った「全被害者の即時一括帰国」を実現するため、闘い続けたいと思います。

*本稿は弊誌のYouTubeチャンネル「WiLL増刊号」より、「拉致を黙殺した反日メディアと戦った安倍晋三」を再構成したものです。
西岡 力(にしおか つとむ)
1956年、東京生まれ。国際基督教大学卒業、筑波大学大学院地域研究科修了。延世大学留学。外務省専門調査員、月刊『現代コリア』編集長を歴任。2016年、髙橋史朗氏とともに「歴史認識問題研究会」を発足。正論大賞受賞。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」会長。朝鮮問題、慰安婦問題に関する著書多数。

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