アイリッシュ・タイムズに掲載された中国礼賛広告

 7月23日の東京オリンピック開会式の場でアイルランド代表チームは、開催国日本へお礼として「お辞儀」をしました。

 私もアイルランド人としてこの光景を見てとても誇りに思うとともに、実は深い歴史のあるアイルランドと日本(愛日)の関係をより広く日本の皆さんに知ってほしい、という思いに駆られています。例えば、1872年に焼失した銀座に「銀座煉瓦街」を建設して再建したのはトーマス・ジェームズ・ウォーターズというアイルランド人で、『君が代』(初代)を作曲したのはジョン・ウィリアム・フェントンというアイルランド人の軍楽隊長なのです。

 なので、アイルランドと日本がとても近しく、いい関係だ―という明るい記事をお届けしたいのですが、今回は「似たくないけど似ている」部分に焦点を当てたいと思います。すなわち、「中国」に対する対応です。
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ダニエル・マニング:アイリッシュ・タイムズに見る世界の「口だけ中国非難」

 中国共産党創立100周年の7月1日に合わせて、アイルランドの有力紙であるアイリッシュ・タイムズに、中国共産党が全面広告を掲載しました。その内容は共産党が中国の発展や国民の生活水準にもたらした目覚ましい影響を褒めるもので、駐在中国大使である何向東が34,000EUR (日本円で約4,431,940円) の広告料を出したといいます。広告の中には中国共産党を称える言葉に加えて、アイルランドへの支援に感謝を述べて、両国間の絆を更に深まって行こうという呼びかけもありました。

 ただ、アイリッシュ・タイムズは「中国とベタベタ新聞」というわけではなく、近年ではウイグル民族の弾圧などにについて報道を行っています。なので、私は何故今回はこのような中国共産党の純粋な宣言を掲載されたのか不思議に思ったのです。

 そして思い当ったのが、現在のアイルランドの共産主義に対する「薄い」危機感です。すなわち、一部の読者からの反発があっても、アイリッシュ・タイムズはそこまで国民の反感を招かずにすむだろうという確信を持っていたよのではないでしょうか。その根拠は以下の通りです。

共産主義への「薄い」危機感

 そもそも、共産主義と社会主義の思想は、アイルランドの20世紀における独立運動に根深く関わっていました。1916年に起きたイースター蜂起の指導者の一人、ジェームズ・コノリーはマルクス主義から大きな影響を受けた人物で、ダブリン・コノリー駅やコノリーアベニューという彼の名から付けられた場所が首都のダブリンにはあります。また、アイルランド労働連盟という共産主義の連盟を創設したジム・ラーキンという独立運動家の像もダブリンに建っています。そして、20世紀後半のオフィシャルIRAというアイルランド共和軍の一派は極左の政治思想を持つ団体でした。

 そして、先の広告のなかでは、中国がアイルランドの1920年代の独立運動について言及し、当時結成されたばかりの中国共産党の奮闘に比較してます。つまり、中国はアイルランドの歴史をよく把握し、利用しようとしているのは間違いありません。
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ダニエル・マニング:アイリッシュ・タイムズに見る世界の「口だけ中国非難」

ジェームズ・コノリーにちなんで名づけられた、ダブリン・コノリー駅
via wikipedia
 こういった歴史的な背景が今のアイルランド社会に働いています。さらに言えば、ほとんどの大学には共産主義クラブがあり、マルクス主義のBLM運動に参加をし、抗議を行ったりする若者が増加しつつあります。つい最近までは、毛沢東の写真を内部を飾っていた「MAO」という人気レストランチェーンまでありました。7月14日にはキューバの共産主義政権の支持者がキューバ大使館の前で同情ストを行ったりもしています。アイルランド国民も、「ファシズムクラブ」や「ヒトラー」というレストランを開くことは有り得ないと考えるでしょうが、共産主義に対しては非常に「甘い」姿勢をもっているのです。
 アイルランドは信心深い国家であるがゆえに共産主義が結局定着しなかったとみなされていますが、近年では教会の影響力が衰え、若い世代がますます宗教から疎遠になり、逆にカトリックの信仰への反感が高まっています。

 いいときも悪いときも、何百年にわたってアイルランド人のアイデンティティはカトリックの信仰が中心でしたが、この衰えに伴ってアイデンティティ的な空白が発生し、アイルランド人はこれから根っこのない人々に成りかねません。果たしてそのような場合、何が宗教の代わりに国民の新しい求心力になるでしょうか。先に見たアイルランド人の薄い危機意識からすれば、LGBT、ANTIFA、BLM等の運動とその勢いに便乗し利用する共産主義ではないかと私は懸念しております。

 アイルランドに限らず、歴史を振り返るとその国の文化やアイデンティティが崩れてなくなったとき、またその危機を迎えたときに共産主義が台頭した実例が数えきれないほどあるのです。例えば日本においても、共産党が女系天皇の実現を唱えるのは万世一系の廃棄を通じて日本国の崩壊を狙っているからと考えられます。

 このようなアイデンティティ面での危機に加え、経済的な背景もアイルランドには存在しています。アイルランドの貿易はイギリス相手の比重が大きく、それだけにブレクジット (イギリスのEU離脱) によって経済が非常に不安定な状態に陥っているのです。

 そんなアイルランドの状況を当然ながら、中国共産党は把握していると考えられます。なぜなら、先の広告の中では歴史面だけでなく、一帯一路の「大成功」についても自慢しており、中国がアイルランドの経済的な困難も意識しているのが明白であるからです。

 また、近年中国がイギリスから反感を買っていることに鑑みれば、イギリスの隣国であるアイルランドは中国にとっては味方にすべき価値がある「餌食」ではないかとみるのも当然でしょう。
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アイルランドでは近年教会の影響力が衰えつつある

政経両面でアイルランドを取り込もうとする中国

 この推測を念頭に置いて、中国によるウイグル民族の弾圧に対してのアイリッシュ・タイムズの姿勢を少し考察したいと思います。既に述べたように、アイリッシュ・タイムズはウイグル問題を報じているとはいえ、その報道内容には違和感を覚えます。というのは、どの記事を読んでも中国共産党が実施している民族浄化をはっきりジェノサイドと呼ばないし、問題となっているウイグル人女性の強制結婚についてもほとんど触れず、強制労働のこと以外は詳しくその文化・政治的な迫害に関しては、私の知る限りは報道しておりません。要するに「ソフト取材」なのです。

 アイルランド人はいくら左寄りと言ったって、過去にはイギリスの支配下で自分らの国語が消えた経験をしています。また、フェミニストも多いことから、300万人以上(アイルランド全人口のおよそ60%にあたる) のウイグル人女性の強制堕胎が行われた事実をしっかりと伝えれば、中国に対して憤りを禁じ得ないに違いありません。
 あくまでも私の推測ですが、アイルランドも中国との経済的協力・財政の補助をアテにしての批判を意図的に制限し、最小限にとどめようとしていると思っております。

 日本のメディアでも往々にして見られるように、アイリッシュ・タイムズもとある民主主義国家の政権へ強い批判を行うことが多いわりに、独裁政権である中国に対する批判は非常に中途半端なのです。例えば、先頭を切って中国共産党の悪質な行為に反対したトランプ元大統領政権に対しては、ほぼ一日も欠かすことなく彼を人種差別主義者として描いて容赦もない批判を浴びせました。当然のように、トランプ政権時のウイグル人権政策法(2019年)も無視しました。

 また、直近の話となると、不法移民に反対するハンガリーのオルバーン・ヴィクトル政権への非難も後を絶ちません。オルバーン政権もつい最近アイリッシュ・タイムズでの広告を買おうとしたとところ、彼のLGBT運動への姿勢が「不寛容だ」ということで拒否されたというのです。私もオルバーン政権に全面的に賛成しているわけではありませんが、中国との扱いと比較したら、あまりにも差があっておかしいとしか思えません。
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ダニエル・マニング:アイリッシュ・タイムズに見る世界の「口だけ中国非難」

ハンガリーのヴィクトル首相(写真)には大きな非難を浴びせるアイルランドだが―

「口だけ中国批難」はアイルランドだけではない

 以上、見てきたように、アイルランド人の中国に対する薄い反応と理解不足は、この5年間にわたって中国の人権侵害より、保守派をターゲットとして右翼思想への恐怖感を煽ることを優先してきたアイリッシュ・タイムズの努力の結果であるともいえるでしょう。

 アイルランド政府も2019年にウイグル人の弾圧を非難するという内容の国際連合人権理事会への手紙に署名をしましたが、一方でその当事者である統一アイルランド党首のアラン・デュ―クス氏は中国人民対外友好協会という中国政府のフロント組織に関わっています。また、イギリス政府と異なり、アイルランド政府はファーウェイの影響力の拡大を許しています。

 このように口ではいくら「反対」を叫んでも、実際問題として積極的な態度を取らない限り、中国は一向に平気です。むしろ、政府もアイリッシュ・タイムズも「口だけ非難」を前提として行動をしているのではないかと疑問に思わないではいられません。このような状態を改めずにこのまま無意識のうち中国の罠に導かれてしまったら、アイルランドの将来の見通しは暗いかぎりです。

 今回は自分にとって身近なアイルランドメディアと政府の例を紹介しましたが、世界中で「中国非難」の声が上がっているとはいえ、実際はアイルランドに近い状態の国が多いのではないでしょうか。そのことは、私が今住む日本のメディアと政府の言動や行動を見ても感じざるを得ません。

 本当に中国の人権侵害の脅威に対向するためには、もはや「口だけ」では不可能なのです。
ダニエル・マニング
1990年、アイルランド生まれ。ダブリン大学大学院(文学)卒業。アイルランドで半年間語学学校に勤務したのち、英語を教える外国人講師として栃木県の高校に赴任。現在は英文校閲者として出版社に勤務。日本語能力試験一級。幼い頃から祖父の影響で日本に興味を持ち、来日を夢見ていた。新たな夢は、日本の史実を英語で伝えること。

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