中国共産党トップの失脚率は7割!
中国共産党は7月に創建100年を迎える。中国の官製メディアは最近になってから、党の歴史を振り返る特集を組むなど、祝賀するムードを全開にしている。しかし、不思議なことに、一連の特集の中に登場する共産党の指導者は、中国の建国の父、毛沢東と現在の総書記、習近平氏の二人に絞られており、ほかの人はほとんど見当たらない。まるでこの二人が中国共産党の百年の歴史をつくったかのように見える。
中国共産党の歴史を振り返ると、1921年に創建して以来、習氏まで計13人がそのトップを務めた。しかし、そのうち、9人が党内の権力闘争に敗れ、「党を裏切った」「誤った路線を歩んだ」などを理由にその地位を追われ、死後も批判され続けている。約7割の失脚率を見れば、党内闘争の激しさが窺える。
100年前、浙江省の湖の船上で開かれた第1回共産党大会で、初代総書記に選出されたのは、北京大学教授などを務めた陳独秀だった。マルクス思想を中国に紹介した学者としても知られる人物である。理想主義者の陳は、党内闘争はあまり得意ではなかった。当時の与党、中国国民党に融和的な路線を取ったため、「右傾日和見主義者」という訳の分からない批判を受け、総書記辞任に追い込まれた。その後、ソ連共産党のスターリンとトロツキーの路線闘争に巻き込まれ、「反党分子」との烙印を押されて党から除名された。晩年は政治から完全に引退し、音韻学の研究に没頭し、中華人民共和国建国前の1942年に死去した。文化大革命中、「人民の敵」として紅衛兵によってその墓が暴かれた。その娘の陳子美氏は婦人科の医師だったが、迫害から逃れるため広東省から香港へ泳いで海を渡り、米国に亡命した。
中国共産党の歴史を振り返ると、1921年に創建して以来、習氏まで計13人がそのトップを務めた。しかし、そのうち、9人が党内の権力闘争に敗れ、「党を裏切った」「誤った路線を歩んだ」などを理由にその地位を追われ、死後も批判され続けている。約7割の失脚率を見れば、党内闘争の激しさが窺える。
100年前、浙江省の湖の船上で開かれた第1回共産党大会で、初代総書記に選出されたのは、北京大学教授などを務めた陳独秀だった。マルクス思想を中国に紹介した学者としても知られる人物である。理想主義者の陳は、党内闘争はあまり得意ではなかった。当時の与党、中国国民党に融和的な路線を取ったため、「右傾日和見主義者」という訳の分からない批判を受け、総書記辞任に追い込まれた。その後、ソ連共産党のスターリンとトロツキーの路線闘争に巻き込まれ、「反党分子」との烙印を押されて党から除名された。晩年は政治から完全に引退し、音韻学の研究に没頭し、中華人民共和国建国前の1942年に死去した。文化大革命中、「人民の敵」として紅衛兵によってその墓が暴かれた。その娘の陳子美氏は婦人科の医師だったが、迫害から逃れるため広東省から香港へ泳いで海を渡り、米国に亡命した。
2代目最高指導者の瞿秋白はロシア語の翻訳家、3代目の向忠発は労働者運動のリーダーだった。二人はいずれも敵対する国民党軍に捕まり、銃殺された。しかしなぜか、共産党内で「裏切り者」という扱いを受け、批判され続けた。瞿秋白は死去してから45年後の1980年にようやく名誉回復されたが、向忠発は「銃殺される前に党の秘密を暴露した」などを理由にいまだ党から敵視されている。
4代目の王明、5代目の博古、6代目の張聞天は、いずれもモスクワから戻ってきた「ソ連留学組」だが、国内で農民革命を指導した毛沢東との主導権争いに敗れた。王明はソ連に逃亡し、博古は飛行機の墜落死を遂げ、張聞天は晩年、「反党集団のリーダー」と罵倒され、激しい迫害を受けたのち、下放された江蘇省で死去した。
4代目の王明、5代目の博古、6代目の張聞天は、いずれもモスクワから戻ってきた「ソ連留学組」だが、国内で農民革命を指導した毛沢東との主導権争いに敗れた。王明はソ連に逃亡し、博古は飛行機の墜落死を遂げ、張聞天は晩年、「反党集団のリーダー」と罵倒され、激しい迫害を受けたのち、下放された江蘇省で死去した。
習近平が「反党分子」にされる可能性
7代目の最高指導者は毛沢東だった。1943年から76年まで、毛のために設けられたポスト、党主席を23年間務めた。晩年は中国を大混乱に陥れた文化大革命を起こすなど、絶大な権勢を振るった。しかし、1976年9月に死去すると、わずか1カ月でクーデターによってその妻と側近が拘束され、毛が主導した文化大革命が全否定された。共産党の公式見解では、毛の人生について「7割正しく、3割は間違っていた」となっている。
毛が自ら選んだ後継者、8代目の華国鋒と、その後の9代目、胡耀邦はいずれも「政治路線を誤った」を理由に批判された。二人とも自らの誤りを認め、身を引いたため、完全失脚にならなかったが、二人の業績は党の歴史からほぼ削除された。
10代目の趙紫陽は民主化運動が弾圧された1989年の天安門事件の際に、武力弾圧に反対したため、「党を分裂させようとした」という理由で罷免された。「党のトップが党を分裂させる動機がない」と弁明したが、聞き入れられなかった。当時、中国の事実上の最高実力者は長老の鄧小平であり、鄧の言うことに逆らった趙は、死ぬまで北京の自宅で軟禁された。
毛が自ら選んだ後継者、8代目の華国鋒と、その後の9代目、胡耀邦はいずれも「政治路線を誤った」を理由に批判された。二人とも自らの誤りを認め、身を引いたため、完全失脚にならなかったが、二人の業績は党の歴史からほぼ削除された。
10代目の趙紫陽は民主化運動が弾圧された1989年の天安門事件の際に、武力弾圧に反対したため、「党を分裂させようとした」という理由で罷免された。「党のトップが党を分裂させる動機がない」と弁明したが、聞き入れられなかった。当時、中国の事実上の最高実力者は長老の鄧小平であり、鄧の言うことに逆らった趙は、死ぬまで北京の自宅で軟禁された。
11代目の江沢民氏と12代目の胡錦濤氏は今も健在だが、習近平氏との折り合いが悪く、二人の多くの側近は「汚職官僚」などを理由に習一派によって粛清された。習氏とその周辺からみれば、二人は潜在的な敵であり、党内の反習勢力はこの二人の周辺に結集しているとの情報もある。中国共産党の100年の歴史の中で、トップを務めた13人のうち、毛沢東、江沢民、胡錦濤、習近平の四人は今のところ、否定されていないが、この状況がいつまで続くかわからない。中国共産党史を研究する台湾人学者は「強引な手段で多くの有力者を粛清させた習氏を引きずり降ろして、完全否定したい人は党内にたくさんいる。来年の党大会に向け、し烈な戦いはすでに始まっており、習氏が敗れれば、『反党分子』にされる可能性もある」と指摘している。
矢板 明夫(やいた あきお)
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児二世として日本に引き揚げ、1997年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から2016年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』(文春文庫)などがある。
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児二世として日本に引き揚げ、1997年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から2016年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』(文春文庫)などがある。