大物俳優の移民

 数々の香港映画で刑事役などを演じてきた著名な俳優、アンソニー・ウォン(黄秋生)氏が5月12日、自らのフェイスブックで「今は台湾にいる。移民手続きの準備をしている」と書き込んだことが大きな波紋を広げている。インターネットには「ウォン氏はとうとう香港を捨てたのか」といった反応が見られたほか、「台湾の映画に出演してほしい」という書き込みも多く寄せられた。13日付の台湾の大手紙『自由時報』は一面トップで「ウォン氏、台湾に移民へ」とのニュースを大きく伝えた。

 1961年、英国人の父親と中国人の母親のもとに生まれたウォン氏は、24歳の時に映画デビューし、『ビースト・コップ 野獣刑警』などで香港のアカデミー賞とよばれる映画金像賞の最優秀主演男優賞を3度も受賞した。世界的な大ヒットとなった名作シリーズ『インファナル・アフェア』の中で、冷静沈着な中年刑事を演じたことで、香港警察のイメージキャラクターにも選ばれた。ウォン氏は2014年、「雨傘運動」と呼ばれた香港の反政府運動で、デモ側の大学生らへの支持を表明し、市民に暴力を振るう警察について「ヤクザになった」と痛烈に批判したことで話題を集め、以降、中国と香港の芸能界から締め出されていた。

 ウォン氏のように、香港から台湾へ移民する人は近年増加する傾向にあり、台湾側のデータによれば、2014年は697人だったのに対し、18年は1267人とほぼ倍増。昨年の反中デモでさらに増え、20年1月から4月まで、移民を申請する人はすでに2000人を超えたという。中国共産党体制などを批判する書籍を販売し、閉店に追い込まれた香港の「銅鑼湾書店」の店長だった林栄基氏も昨年から台湾に移住し、4月25日に台北市内で、自由と民主主義をテーマとする書籍を中心に取り扱う「銅鑼湾書店」を再開させた。オープンの日、台湾の蔡英文総統が花を送った。

 銅鑼湾書店とほぼ同じ時期に、香港の人権派弁護士、黄国桐氏が台北市で「保護傘」という名のレストランをオープンし、台湾に亡命した香港の大学生らの生活を支援することが目的だ。香港に戻れば逮捕される恐れのあるデモ隊のリーダーらが店員として雇われている。「銅鑼湾書店」も「保護傘レストラン」も、店内には「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、革命の時代だ)」という香港デモのスローガンが大きく掲げられている。保護傘の店員の1人は「香港に残っている仲間が心配だ。いつか戻りたい」と小さな声でつぶやいた。2月になってから、新型コロナウイルスのまん延で、香港から台湾への渡航が難しくなり、来る予定だった多くの仲間が香港に残ってしまったという。

 一方、中国と香港の治安当局は、新型コロナ対策に世界の目が向いているのを奇貨として、民主化デモの完全鎮圧にカジを切り、4月中旬、かつて民主化運動を率いた重鎮で元民主党主席の李柱銘氏や、中国批判の論陣を張る香港紙・リンゴ日報の創業者である黎智英氏ら、民主派リーダーら15人を一斉逮捕した。香港では9月に立法会議員選挙が予定されている。

 昨年秋の区議選では、反中デモの影響で民主派が8割超の議席数を獲得し、親中派が惨敗したことを受け、中国当局は9月の立法会選挙を念頭に、民主化勢力を一掃したいとしている。逮捕された李氏や黎氏らの容疑は昨年8月に非許可のデモに参加したことだった。今の香港の法律で裁かれた場合、微罪に過ぎない。罰金刑など軽い刑罰で終われば、当局が彼らを逮捕した意味がない。中国国内法の重罪である「国家転覆罪」が適用されるのではないかと警戒する声もある。5月7日、デモで警察隊と衝突した大学生ら37人に対する公判が行われ、「暴動罪」が適用された。

 台湾では1979年に民主化運動が弾圧された美麗島事件があった。雑誌『美麗島』の編集部が主催したデモ活動が警察隊と衝突し、同雑誌の関係者が投獄された事件だが、のちの台湾の民主化運動に大きな影響を与えた。軍事法廷で審議された被告と、その家族、弁護士らがその後、民主進歩党を結成した。やがて国民党の一党独裁政権を終結させ、美麗島事件の弁護士だった陳水扁氏はのちに総統になった。

 台湾に亡命した香港人たちはいま、李氏らが逮捕されたことについて「香港版美麗島事件」と表現している。これから始まる彼らの法廷での戦いを全力で応援する構えをみせている。ある香港人大学生は「私たちは逃げたわけではなく戦うために来ている。これから台湾を拠点にして香港で起きていることを世界に発信していきたい」と話している。
矢板 明夫(やいた あきお)
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児二世として日本に引き揚げ、1997年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から2016年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』(文春文庫)などがある。

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