中国海軍が海洋に進出するには、一定のパターンがあると聞いた。海には沿岸国の大きな排他的経済水域がからむから、相手国の気配をうかがいながら進む。微妙な海域で断固たる反発を受ければ「ほどほどに」に侵入し、さほどでなければ「遠慮なく」、抵抗ナシなら「ずけずけ」と既成事実を積み上げる。
分捕った南シナ海の岩礁を埋め立て、たちまち人工島をつくった。これをサラミ戦術と呼んだインド人評論家もいたが、「ならず者国家」と定義したアメリカ人学者もいた。だが、相手が強く抵抗してくるとみるや、一瞬にして態度を変えるのも中国流だ。
こうした一時回避の後退を「戦術的後退」という。中国当局が拘束していた北海道大学の岩谷將教授が、2カ月ぶりに解放されたのも、日本から反発が出てきたための「戦術的後退」に他ならない。来春には習近平国家主席が国賓として日本に招かれており、傷がついてはいけないからだろう。
岩谷教授は2019年9月に訪中し、国家安全危害罪などの容疑で拘束されたようだ。彼は第1次資料に基づく日中戦争史が研究テーマの研究者であるのに、なぜスパイに仕立てあげられたかの合点がいかない。中国外務省の報道官が「刑法と反スパイ法に違反した疑いで拘束していた男性教授を保釈した」と述べたにとどまる。
岩谷さんを知る研究者仲間の話を総合すると、彼は現資料から南京事件などを解き明かし、結果的に「日本悪玉論」のウソが暴かれるから中国の歴史ストーリーにはまことに都合が悪い。
国家基本問題研究所は2019年10月28日付のホームページ「今週の直言」でこの問題に触れ、「習主席の国賓訪日は再検討を要す」と提起した。岩谷さんには「中国共産党情報組織発展史」など情報組織やメディア戦に関する論文があり、こうした組織に対する研究が中国には「都合が悪かったに違いない」と指摘した。
そのうえで、「日本が来春、習近平国家主席を国賓として迎えれば、正常な国とは思われなくなる。政府は再検討をすべきだ」と翻意を促していた。産経新聞も習主席を国賓で招くことに疑問の声を上げ、日本人の中国研究者47人が連名で批判するなど、次々と対中批判が広がりを見せていた。
自民党の保守派議員でつくる「日本の尊厳と国益を護る会」が2019年11月13日に、習主席の国賓来日に反対する決議を採択したことは、強力な後押しだろう。決議は中国公船による尖閣諸島周辺の領海侵入や香港デモに対する中国の弾圧から「日中関係が『正常な軌道』にあるとはいえない」と批判した。これを与野党が一致して国会決議をすべきだと思うが、野党は口でいうほど人権問題に関心がない。首相官邸の「桜を見る会」の方が一大事とばかりに、重箱の隅をつついている。
ところで、2010年に尖閣諸島周辺で起きた日本の巡視船に対する中国漁船の体当たり事件は、民主党の菅直人政権による無様な対応が際立った。菅首相の判断で釈放してしまうのだが、「日本弱し」と見た中国側の圧力はすごい。相手国がパニック状態に陥ったとみるや、強引に圧力を増してきたのである。
このときの中国を「ならず者国家」と呼んだのは、ノーベル経済学賞学者のクルーグマン教授であって、菅政権や日本の国会ではない。教授がいうには、漁船の船長が尖閣諸島周辺海域で拘束されたというのは、争いにしては「些細な原因」であった。それを中国は意図的に「喜んで引き受けた」と断じていた。報復としてレアアース(希土類)の禁輸から邦人四人の身柄拘束にまでに及んでいる。クルーグマン教授は日本のことながら堪忍袋の緒が切れた。中国は「政治紛争で思い通りにするために、通商法に違反して影響力を行使した」と非難し、ルール無視の「ならず者大国である」とレッテルを張ったのだ。
中国は南シナ海でも、大半を1992年に領海法で線引きすると、武装艦を繰り出して周りの国を脅して歩く。挙句に中国軍幹部は「大国が空母を持つのは当然であり、小国と同じうせず」と豪語した。こうして中国は、南シナ海の人工島に軍用機が離着陸できる滑走路をつくり、ミサイルを配備して「これは中国の海だ」とにらみを利かすようになった。
「ならず者国家」がパワーをもつと横暴な専制君主になり、近隣の諸侯がひざまずかないと腹を立てる。ところが、いまのアメリカは、国力の衰退におびえ、同盟国に距離をおき、そして敵対国をつけあがらせてしまう。日米関係の戦略的根拠が、いつかは崩壊することがあるのを覚悟して、自立と多国間協調の道を探る時代が到来したのかもしれない。
湯浅 博
1948年東京生まれ。産経新聞東京特派員。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。
分捕った南シナ海の岩礁を埋め立て、たちまち人工島をつくった。これをサラミ戦術と呼んだインド人評論家もいたが、「ならず者国家」と定義したアメリカ人学者もいた。だが、相手が強く抵抗してくるとみるや、一瞬にして態度を変えるのも中国流だ。
こうした一時回避の後退を「戦術的後退」という。中国当局が拘束していた北海道大学の岩谷將教授が、2カ月ぶりに解放されたのも、日本から反発が出てきたための「戦術的後退」に他ならない。来春には習近平国家主席が国賓として日本に招かれており、傷がついてはいけないからだろう。
岩谷教授は2019年9月に訪中し、国家安全危害罪などの容疑で拘束されたようだ。彼は第1次資料に基づく日中戦争史が研究テーマの研究者であるのに、なぜスパイに仕立てあげられたかの合点がいかない。中国外務省の報道官が「刑法と反スパイ法に違反した疑いで拘束していた男性教授を保釈した」と述べたにとどまる。
岩谷さんを知る研究者仲間の話を総合すると、彼は現資料から南京事件などを解き明かし、結果的に「日本悪玉論」のウソが暴かれるから中国の歴史ストーリーにはまことに都合が悪い。
国家基本問題研究所は2019年10月28日付のホームページ「今週の直言」でこの問題に触れ、「習主席の国賓訪日は再検討を要す」と提起した。岩谷さんには「中国共産党情報組織発展史」など情報組織やメディア戦に関する論文があり、こうした組織に対する研究が中国には「都合が悪かったに違いない」と指摘した。
そのうえで、「日本が来春、習近平国家主席を国賓として迎えれば、正常な国とは思われなくなる。政府は再検討をすべきだ」と翻意を促していた。産経新聞も習主席を国賓で招くことに疑問の声を上げ、日本人の中国研究者47人が連名で批判するなど、次々と対中批判が広がりを見せていた。
自民党の保守派議員でつくる「日本の尊厳と国益を護る会」が2019年11月13日に、習主席の国賓来日に反対する決議を採択したことは、強力な後押しだろう。決議は中国公船による尖閣諸島周辺の領海侵入や香港デモに対する中国の弾圧から「日中関係が『正常な軌道』にあるとはいえない」と批判した。これを与野党が一致して国会決議をすべきだと思うが、野党は口でいうほど人権問題に関心がない。首相官邸の「桜を見る会」の方が一大事とばかりに、重箱の隅をつついている。
ところで、2010年に尖閣諸島周辺で起きた日本の巡視船に対する中国漁船の体当たり事件は、民主党の菅直人政権による無様な対応が際立った。菅首相の判断で釈放してしまうのだが、「日本弱し」と見た中国側の圧力はすごい。相手国がパニック状態に陥ったとみるや、強引に圧力を増してきたのである。
このときの中国を「ならず者国家」と呼んだのは、ノーベル経済学賞学者のクルーグマン教授であって、菅政権や日本の国会ではない。教授がいうには、漁船の船長が尖閣諸島周辺海域で拘束されたというのは、争いにしては「些細な原因」であった。それを中国は意図的に「喜んで引き受けた」と断じていた。報復としてレアアース(希土類)の禁輸から邦人四人の身柄拘束にまでに及んでいる。クルーグマン教授は日本のことながら堪忍袋の緒が切れた。中国は「政治紛争で思い通りにするために、通商法に違反して影響力を行使した」と非難し、ルール無視の「ならず者大国である」とレッテルを張ったのだ。
中国は南シナ海でも、大半を1992年に領海法で線引きすると、武装艦を繰り出して周りの国を脅して歩く。挙句に中国軍幹部は「大国が空母を持つのは当然であり、小国と同じうせず」と豪語した。こうして中国は、南シナ海の人工島に軍用機が離着陸できる滑走路をつくり、ミサイルを配備して「これは中国の海だ」とにらみを利かすようになった。
「ならず者国家」がパワーをもつと横暴な専制君主になり、近隣の諸侯がひざまずかないと腹を立てる。ところが、いまのアメリカは、国力の衰退におびえ、同盟国に距離をおき、そして敵対国をつけあがらせてしまう。日米関係の戦略的根拠が、いつかは崩壊することがあるのを覚悟して、自立と多国間協調の道を探る時代が到来したのかもしれない。
湯浅 博
1948年東京生まれ。産経新聞東京特派員。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。