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中国のスパイ気球に対して、多くのアメリカ人がライフルで狙ったという(画像はイメージ)

超大国の虎の尾は踏むな

 これを西部魂とか、ヤンキー魂というのだろうか。モンタナ、ミズーリなどアメリカ中西部の各州で、多くの人々が空を見上げ、ライフル銃で中国のスパイ気球を狙っていた。さすがのバイデン米政権も、アメリカの領空をゆるりと横断していく中国のスパイ気球を、どこかで撃墜しなければならなかった。

 もちろん、気球の位置は民間航空機が飛行する空域より高く、弾丸が到達する高度をはるかに超えている。それでも、荒野で自前のライフル銃を構えて、いつでも発射できる姿勢をとる人々がいる。これらの写真が、SNSに多数アップされて拡散した。日本では決して見ることのない光景だ。

 モンタナ州選出のライアン・ジンケ下院議員は、「銃撃の場面を撮影しよう」と呼びかけ、「私たちは撃ち落とす」と書き込んだ。オハイオ州選出のJ・D・バンス上院議員はライフルを構えて空を見上げるポーズの写真をツイートした。
 独立心の強い超保守派は、アメリカ本土に踏み込んできた敵を自分たちの手でねじ伏せようと訴えた。さすがに、若者文化を伝える「ローリング・ストーン」誌は、気球を自分で撃とうとすれば、どんなに危険なことになるかと警鐘を鳴らしていた。

「銃を空中に向けて発射すると、弾丸が(最大1.6キロメートル)移動し、重力によって引き戻される。降下する弾丸は、誰かを殺傷しかねず、高角度で撃っている場合には自分自身に命中する」

 バイデン政権の国家安全保障チームは、気球の撃墜を含む選択肢を緊急に協議していた。ペンタゴンはバス3台分のがれきが落下するため、平時にあっては内陸部での撃墜を避けるよう進言していたと報道官はいう。
 中国が気づかれずにスパイ気球をアメリカ上空に飛ばすつもりなら、これほどの大失態はないと自由社会は考える。
 ところが、習近平国家主席が敬う毛沢東の世界観には、「戦時」はあっても「平時」はない。彼らにとって「政治は流血を伴わない戦争」だから、平素から敵を知ろうと汚い手を使う。偵察衛星、偵察気球、妨害電波、女スパイなど、なんでも送り込む「超限戦」である。
 ただし、超大国の虎の尾は踏まない方がよい。
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9.11は多くのアメリカ人に傷を与えた
 本土を蹂躙(じゅうりん)されたアメリカ人の屈辱感は極めて大きい。これまで、中国共産党がいかにウイグル人を抑圧し、香港から自由を奪い、定期的にサイバー攻撃をしていても、一般のアメリカ人の目に触れるものではないし、彼らへの直接的な脅威ではなかった。

 だが、米中枢同時多発テロ「9.11」がそうだったように、2つの大洋に囲まれているアメリカ人にとって、本土への物理的な侵害には極めて敏感だ。空に向かって発砲するなど、自分たちの手で解決したいとの熱狂をかき立てる。北京からの「民間の気象観測気球が偏西風に流された」といった弱々しい釈明など耳に入るはずもない。
 ワシントンの中枢部では、中国共産党が自由な国際秩序を覆す能力と意思をもった唯一の競争相手としてとらえても、一般のアメリカ人との認識の差は埋められていなかった。しかし、アメリカ領空へのスパイ気球の出現は、自宅に接近してきた敵対者に思えるから、護身用の銃に手をかけざるを得ない心理になっていく。

 それが、全米にみなぎる軍事専制に対する反発と重なって、中国に対する強硬な空気が醸成されてくる。こうなると、アメリカ本土に近づく気球は、大小を問わず何度でも撃ち落とす。
 危機に直面したときのアメリカ人の反発力は、現代にも脈々と流れるDNAのようなものだろう。日本軍による真珠湾攻撃を受けた直後の巻き返し、ソ連が人工衛星打ち上げに成功したスプートニク・ショックに対抗したアポロ計画の倍返しもそうだ。

 近年でも、中東の湾岸戦争や米中枢同時テロ「9.11」後のアフガニスタン攻撃が続く。勢いあまってイラクまで制圧してしまったのではないか。ついさっきまで、個人主義でバラバラに見えたアメリカ人が、許されざる敵に遭遇すると、隠れていたパワーが一気に爆発する。

 中国が仮に「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」と自前の論理で気球による情報収集を試みたり、試験気球としてアメリカ政府と国民の反応を試したりすることが、文字通り過剰反応を招きかねない。遠く東アジアにあったはずの中国の脅威が、一般のアメリカ人を覚醒させてしまったではないか。
ゆあさ ひろし
1948年、東京生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、産経新聞特別記者。著書に『アフターコロナ 日本の宿命 世界を危機に陥れる習近平中国』(ワック)、『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。

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