白川司:石原慎太郎はなぜあれほど強かったのか

白川司:石原慎太郎はなぜあれほど強かったのか

石原慎太郎の「敵」

 2022年2月1日、石原慎太郎氏が東京都大田区の自宅で亡くなった。享年89歳。死因は明らかにされていないが、膵臓(すいぞう)がんが2021年10月頃に再発していたという。

 石原慎太郎は特異な政治家だった。現代の政治は「いかに弱者を救済するか」が最重要課題となっており、特に日本においては強さを表に出すとマスコミから徹底して叩かれてしまう。

 そのような時代にあって、石原は「強くなければ国家は生き残れない」という信念のもと、「強さ」を表に出して、政治の舞台で戦い続けていた。

 若手作家として一世を風靡(ふうび)した石原が政治の世界に入ったのは1968年。自民党の公認を受け参議院全国区で立候補し、史上最高の301万票を獲得して当選した。

 石原の政治活動は田中角栄の金権政治批判に始まる。今太閤と呼ばれ、権力の絶頂を極めた田中角栄を、その力の源泉である「金権」で徹底的に批判したのである。金権だけでなく、台湾を切り、中国との国交を結んだ田中は、石原にとって許しがたい存在だったに違いない。

 石原には硬直した社会に殴り込みをかけて、新しい秩序をつくる革命家のようなところがあった。彼の小説はその反倫理性で社会に衝撃を与えて、社会に新たな風を吹き込んできた。その石原が政治で同じことをやろうとしたとき、田中角栄というアイコンは仮想敵として願ってもない存在だったのだ。
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石原氏が最初は批判し、最後は「天才」と評した田中角栄

「田中角栄」の再評価

 ところが、石原は2016年に発表した伝記的小説『天才』で、田中角栄の業績をその人柄とともに描き尽くした。この小説は田中が「俺」という1人称で語る政治的な私小説であるが、その人物像は魅力と哀愁にあふれていた。

 田中は、新潟県の寒村で生まれ、小学校しか出ていないにもかかわらず、日本の最高権力者まで登りつめた人物である。かたや、石原は家柄も学歴も申し分なく、しかも作家として大成功を収め、弟は国民的スターという、あまりにも恵まれた環境にあった。

 田中が数多くの恵まれない環境から出発していることを、石原は病気で身体の自由がいくぶん奪われてから、やっと思い及んだのではないだろうか。

 日本は純然たる学歴社会であったが、田中はそれを経済の力で乗り越えてきた人物であった。まさに天才だった。石原が晩年になって、自分が持っておらず、田中が持っていていたものが、その政治的な業績において大きな差を生んだことを理解したのだろう。

 田中にあって石原になかったものとは、政治における最も大きな力である「数」だった。田中は政治においては数がいかに重要かを熟知しており、そのために自分の能力を注ぎ込み、多くの難局を乗り切った。それは幼い頃からの苦労から獲得した経験の力だったのだろう。

 石原は政治で大きなことを成し遂げるには、環境においても能力においてもあまりにも恵まれすぎていた。恵まれていたからこそ当初は田中の真の大きさがわからず、孤高の政治家としてその独自性のみが光る特異な政治家として活動し続けなければならなかった。

石原慎太郎の「強さ」とは?

 石原がその高い能力を表現することができたのは、むしろ1999年の東京都知事就任以降だろう。国政が内閣制であるのに対して、都知事の都庁における権力は大きく、国で言えば大統領制に近いものである。だからこそ、国会議員時代は「孤高」であった石原も本来の力が発揮できたのではないか。

 石原を石原にしたもの、それは言葉の力だ。

 例えば、当時のソニー会長であった盛田昭夫との共著『NOと言える日本』(1989年)。本書の正式な翻訳は出なかったと記憶しているが、本はすぐに非公式に翻訳され、日本に石原慎太郎という独立論者がいることが知れわたり(「独立論者」が適切かどうかはともかく)、石原はその名前をアメリカ政界にとどろかせた。

 その裏には、アメリカの政治家が「石原」の名字に反応したことがある。そう、「石原莞爾(かんじ)」が生きていたのではないかという錯覚を与えたのである。

日本語には“NO”に当たる言葉がないが、英語の“NO”はすべてをゼロにする強力な否定語である。
 たとえば、You are no gentleman.は「あなたは紳士ではない」ではなく「あなたは紳士どころではない」→「おまえは粗野だ」といった意味にまで発展する。no gentlemanは「紳士らしさのかけらもない」という強力な意味になり得るのだ。

 頼まれごとに対して“NO”と言えば、明らかな拒絶である。だが、“NO”と言うこと自体は失礼でもなんでもない。英語では拒絶することが日常的に許容される。

 だが、日本では頼まれごとを拒絶する言葉がない。相手の気分を害さないように理由をつけ、できるだけ婉曲(えんきょく)に伝えようとするか、相手と仲違いすることを覚悟して「いやだ、やりたくない」と言うかである。

 だから、上記の本も「いいえと言える日本」では締まらず、「NOと言える」と英語を使わざるを得ないのである(「否」は近いが、漢文の援用であり日常語ではない)。

 日本語ではきっぱりと否定することは摩擦を生み出す。だが、石原は摩擦を顧みず、あえて強い言葉を使い続けた。
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政治家としての本領は、東京都知事就任後に発揮されたのでは――

やせ我慢の美学

 多くの「良心派」は石原を思いやりのない強者と批判したが、果たして、そうだったのだろうか。日本語の世界で強い言葉を編み続けることがいかに大変かと考えれば、「強者の言葉」ではなく「覚悟の言葉」というのが適切だろう。

 そんなしんどさを好んで引き受ける物好きがいるはずはないだろう。石原には摩擦を生み出し、その反動を引き受ける覚悟があったのである。

 かなり昔のことで細かい部分が曖昧だが、石原の都知事時代にテレビで、こんなシーンを見た記憶がある。

 東京に住み、母親が苦労している家庭をあるテレビ番組が追っていた。そこに制度的な不備があると番組側は考え、都庁の会見で番組ディレクターがその家庭の苦境をぶつけた。石原はそのディレクターの話に聞き入った。そして、番組のナレーションで、都がその数日後に制度の見直しに着手したことを告げたのである。

 石原は本当に「弱者のことを考えない人」だったのだろうか。私はそうは思わない。日本を強くするために、自分を振い立たせて強さを演じてきたのではないか。

 現代は「弱さ」が強者になるための最大の武器になる時代だ。普段は強がっていても、弱さを見せることで、有利になろうとする者がどれだけ多いかを見れば、石原の態度がいかにしんどいものだったかがわかるはずだ。

 それは“やせ我慢”の美徳と言うべきものかもしれない。石原を「強さ」「弱者嫌い」だけで見るのは間違っている。それは石原の一面に過ぎない。

 そんな石原だからこそ、真の意味で強い人間だったと言うべきなのかもしれない。ご冥福をお祈りする。
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ご冥福をお祈りいたします
白川 司(しらかわ つかさ)
評論家・翻訳家。幅広いフィールドで活躍し、海外メディアや論文などの情報を駆使した国際情勢の分析に定評がある。また、foomii配信のメルマガ「マスコミに騙されないための国際政治入門」が好評を博している。

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