日本国〝玉砕〟憲法

 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 日本国憲法前文の理想を実現するには、中国人民解放軍を殲滅し、中国共産党を打倒しなくてはならない。東シナ海・南シナ海で地域の平和を乱し、チベットやウイグルで横暴の限りを尽くしているからだ。さらに私たちは、明日にでも中東やアフリカの紛争地域に赴く必要がある。市民は貧困にあえぎ、故郷を追われて難民となった人たちもいるからだ。

 他方で、9条には戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が明記されている。

 前文と9条を合わせて読めば、丸腰で人民解放軍の戦車に対峙し、紛争地域でひたすら愛と平和を唱えることが日本国民の義務になってしまう。しかし、そんなことをすれば確実に殺される。つまり、日本国憲法は「玉砕憲法」なのだ。

 前文には、こうも書かれている。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

 国際社会においても人間社会においても、相手への絶対的な信頼などあり得ない。中国共産党の公正と信義に信頼した結果、どうなったか。チベットやウイグルでは民族浄化が行われている。香港では一国二制度が反故にされ、民主主義の灯が消えかかっている。依然として、多くの日本人が中国で拘束されたままだ。

戦後日本の選択

「身に寸鉄を帯びず、誠心をもって永久平和のために働くべきだ」
「武器を一切持たず、人類のために全力で働くべきだ」
 満洲事変と満洲国建設を指揮した陸軍参謀・石原莞爾は、日本国憲法ができる前から〝絶対平和〟を全国行脚して国民に説いて回った。各地で多くの聴衆を集めたが、やがてマッカーサーに講演を禁止されてしまう。

 第1次大戦前から、石原は「世界最終戦論」を唱えていた。1発で都市を壊滅させることのできる核兵器と、それを地球のどこにでも運べる長距離ミサイル──新兵器の開発によって戦争が〝進化〟すれば、人類滅亡を避けるために、やがて各国は武装解除に向かうと予想していたのだ。しかし、核ミサイルや原子力潜水艦の登場から半世紀が経った現在、世界各地で武力紛争が絶える気配はない。

 「玉砕憲法」を忠実に解釈し、「日本国民が世界人類のために全力で活動して死滅する」道を選ぶ〝真の護憲派〟は絶滅危惧種だ。今の主流は、武力がある国の奴隷に甘んじつつ、柔軟な解釈で現実に対応するという選択。実際に、戦後日本は日米同盟と解釈改憲でやりくりしてきた。

 2015年の平和安全法制で、集団的自衛権が認められた。ならば、核ミサイルで日本を狙う北朝鮮への敵基地攻撃能力も許されるだろう。核保有国に向けて核ミサイルを撃っても、「自衛だから」と言えば合憲と判断されるかもしれない。

 大東亜戦争は、西洋列強の侵略に抗った〝自衛戦争〟だった。石原莞爾は東京裁判で、「ペリーをあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい」と言い放った。もっと言えば、西洋が世界を席巻した大航海時代まで遡らなければ、大東亜戦争の本質は見えない。では、大東亜戦争を解釈改憲で合憲と判断することはできるのか。

 憲法解釈の幅を広げれば広げるほど、立憲主義が犠牲になる。〝真の護憲〟や〝戦後日本の護憲〟などと難しい話をするまでもない。現実に即した憲法をつくり直せば済む話だ。

歴史の「if」を考える

 どのように憲法を改正すればいいか。独力で自国を守るために、核武装、地下要塞、国民皆兵を提案したい。

 決して現実離れしたものではない。西南戦争で熊本城攻防戦を指揮した土佐藩士・谷干城は、スイスの重武装中立を「開化世界の桃源」と称賛した。山に囲まれたスイスと海に囲まれた日本を重ね、スイス型の国防戦略を提唱していたのだ。

 核保有国に囲まれた状況で、核武装と地下要塞については説明不要だろうが、なぜ国民皆兵なのか。国民の防衛意識を高める目的もあるが、専守防衛を貫く以上、敵が上陸した後の地上戦を想定すべきだからだ。

 制空権と制海権の確保は重要で、自衛隊も国境防衛に力を入れていることは言うまでもない。しかし、現代においても地上戦で勝負が決する。ベトナム戦争では制空権を握った米軍がゲリラに手を焼き、撤退に追い込まれた。日本軍は硫黄島やペリリュー島を要塞化し、米軍を苦しめた。米軍は当初、硫黄島は5日で攻略できると思っていた。ところが、地下坑道が張り巡らされた硫黄島での戦いは1カ月以上にも及んだ。

 敗戦から75年、日本人の8割は戦争を知らない。戦争の勘が鈍っているから、北朝鮮がミサイルを撃っても黙って眺めているだけだ。大多数の日本国民は米兵と刃を交わすことなく、空から降ってくる焼夷弾から逃げ続けた。台風や地震といった天災と同じような体験として、戦争を記憶してしまったのだ。

 日本はポツダム宣言を受け入れ、8月15日に降伏した。しかし、陸軍は徹底抗戦、すなわち本土決戦に備えていた。長野県の松代大本営まで下がり、狭山丘陵を拠点に戦ったうえで講和に持ち込んでいたら、戦後の平和ボケも少しはマシだったかもしれない。

 歴史に「if」はないと言われるが、「if」を考えることは決して無駄ではない。繰り返される歴史の中で起こり得た状況と、その場合に考え得る選択肢を吟味しておけば、将来の戦略を練るうえで役立つ。しかし、暗記重視の歴史教育によって、自らの頭で思考する機会が奪われてしまった。自らが指導者だったら、あの時どんな決断を下したか──個々のケースを題材に考えさせる教育も必要ではないだろうか。

戦争が生んだ民主主義

 フランス革命以降の世界史、明治維新以降の日本史を「戦争」を軸に捉え直す必要がある。最近になって、第2次大戦におけるコミンテルンの陰謀が暴かれ、大東亜戦争における海軍善玉論・陸軍悪玉論への疑問も耳にするようになった。マニュアル化する教育、凝り固まった歴史観を見直すうえで良い傾向といえる。 

 例えば学校では、戦前は民主主義がなかったと教わる。だが、これは真っ赤なウソだ。

 大日本帝国憲法と日本国憲法を比べると、明らかに後者の方が総理大臣に大きな権限を与えている。戦争に負けた原因の1つは、権力が分散されていたからだ。天皇も総理大臣も、陸軍参謀総長も海軍軍令部総長も、国家の針路を決断する力がなかった。他方で、世論は戦争を望んでいたし、部数を伸ばしたい朝日新聞は国民を煽って開戦に誘導していた。

 絶対王政の時代、他国と戦ったのは国王の私設軍隊だった。だがフランス革命以降、国民国家において民主主義は戦争勝利のために利用されることになる。劣勢に立たされたナポレオンは、民衆に武器を持たせて戦わせようと考えた。動機づけと士気高揚のため、「アメ」として配られたのが選挙権にほかならない。兵役という義務を果たすことで市民は権利を得たのだ。

 明治政府は、西洋による植民地化を阻止するために富国強兵を目指した。それには、民主主義と国民国家形成をセットで推し進める必要があった。戦争の産物である民主主義は平和と相性が悪く、自由民権運動でも強硬に大陸進出が訴えられていた。そんななか、日清戦争で国民国家の強さが証明されることになる。国民意識と戦術で勝る日本軍が、装備で優れた「眠れる獅子」清国軍を破ったのだ。

 戦争が社会システムの根本を変えた歴史を、学校で教わることはない。

 戦後、共産主義思想に洗脳された教師たちによって偏向した歴史教育が施されてきた。大学教授をはじめとするインテリは、ソ連や中国に有利なウソを吹聴して回った。ソ連に疑問を抱くものは徹底的に批判され、小学生ですら共産主義の矛盾を指摘すると怒られた。いまだに多くの日本人が近代史を苦手にしている原因の1つは、すでに滅んでしまったソ連の洗脳を基につくられた教科書にある。

 将来のために、先入観を取り払って歴史を語らなければならない。
江川 達也(えがわ たつや)
1961年、愛知県生まれ。愛知教育大学数学科卒業後、中学の数学教師となる。本宮プロダクションでアシスタントを経て、1984年に『BE FREE!』で漫画家デビュー。以降、『まじかる☆タルるートくん』『東京大学物語』『日露戦争物語』など多数のヒット作を生み出す。論客として討論番組にも多数出演。

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