そこで、昨今、何かと議論となる同性婚の是非について保守主義の立場から論考を加えてみたく思う。
婚姻が禁止される5つの事例
第1に、近親婚の禁止(民法第734条第1項)、第2に直系姻族結婚の禁止(民法第735条前段。一度でも結婚した相手方の父母とは離婚しても一生涯結婚できない)、第3に養親子関係結婚の禁止(民法第736条。一度でも養子縁組をした相手方とは、離縁後も一生涯結婚できない)、第4に児童結婚の禁止(民法第731条)、第5に重婚の禁止(民法第732条)である。
そこで、冒頭の下級審判決が同性婚を認めない民法の規定について「性的指向が人の意思によって,選択・ 変更し得るものではない」との事由から、同性婚を認めないことは法の下の平等に反する旨を主張していることの是非について検討を加えたく思う。
確かに結婚を原因にして生じた姻族関係や養子縁組を理由にして発生した結婚禁止条項は一応「人の意思による行為」であるため、除外されるといえよう。また、児童結婚の禁止も、意思能力は満15歳で完成する一方、満18歳まで婚姻が認められないことは、意思を否定したものであるといえるが、3年まてば婚姻が認められることから否定の度合いは低いと評価できるであろう。重婚の禁止も、人の意思を否定したものであるが、未婚の相手方を選択する余地が残されているといえよう。
「人の意思で選択変更できない」近親婚の事案と問題点
例えば、東京高裁平成17年5月31日判決遺族厚生年金不支給処分取消請求控訴事件について述べたく思う。
事案は、共に成人である叔父と姪の戸籍関係にあった当事者が、夫婦同然の生活を長期間にわたって送り続け、厚生年金受給資格を得た職場においても、周囲から夫婦として認識され、一般の夫婦と何ら変わることなく支え合って人生の大半を共に生活していた後、叔父の死亡後に姪が遺族厚生年金の支給を請求したところ、本来ならば内縁関係であっても受給権があるが、近親関係を理由に棄却したものである。
控訴審は、次の理由を以て近親婚ないし近親的内縁関係を否定している。
「公的保護の対象にふさわしい内縁関係にある者であるかどうかという観点からの判断が求められ,その判断において優生学的な配慮及び社会倫理的な配慮という公益的要請を無視することはできないというべきである」
同じ理由は、同性婚ないし同性パートナーシップについてもあてはまる。
同性婚「だけ」が優越的地位に置かれる論理破綻
仮に、すべての婚姻規制を廃止すべきであるとの主張があり、一夫多妻制から近親婚、児童結婚であっても、当事者の愛を制限してはならないものであるとの論旨から同性婚も認めるべきであるとの主張が為されていたならば、一応の論理性は担保されているものと思料されるが、実際にはそのようなことはなく、「同性婚のみ」特権を与えろの一点張りである。これこそ、法の下の平等に反する差別政策ではないのか。
つまるところ、冒頭で紹介した札幌地裁の判事は、複数ある結婚禁止に我慢している多くの人々がいる中、同性愛者のみが差別の被害者であり、愛の形が一般と異なることから社会に潜在するほかの多くの結婚を我慢している人々の権利は保護に値しないとする「差別主義思想」を公権力である判決という手段を利用して、濫用したものであるとの評価を免れない。
だからあらゆる婚姻禁止を廃止すべきと言っているのではない。本論筆者は、婚姻秩序に反する如何なる結婚にも反対する立場をとる。
その理由は、一部を認めたならば、際限が無いからである。特に近頃は自己認識決定の尊重という考えがあり、自認で性別や種族さえ超越する例が諸外国ではすでにみられる。その中で、前掲した民法上の婚姻禁止条項のほか、法人との婚姻、死体との婚姻、動物との婚姻など、ダムが決壊するがごとく様々な形のものがあふれ出て公秩序に多大なる影響を与える蓋然性を否定できない恐怖がある。だからこそ、社会的に承認される婚姻を限定することに合理的理由があるのだ。
特に、前掲の近親婚の事例は、訴訟記録を読む限りではただ戸籍上の叔父と姪の身分関係であったという点のみを除けば、当事者に深い愛情があったことに疑いを容れる余地は無く、また何ら反社会的活動をすることなく真面目に働いて共に半生を過ごしていただけであり、ただ本人の意思によらない「出自(戸籍関係)」を理由に婚姻が認められないどころか、遺族であることさえ認定されなかったのである。このように我慢している人々がいる中で、何故、同性愛者のみ特権を与えなければならないのだろうか。
「諸外国で認められている」論の愚
法律上の一夫多妻制が合法の国から来た人々が、配偶者控除を全員に認めろと主張した場合や、そもそも日本人が多妻制を教義とする宗教に改宗した後、一夫多妻の禁止は憲法上の信教の自由に反していると違憲訴訟をするなど、今後様々なケースが想定され得る中、「法律婚の定義」を限定することによって公秩序を守る意義は重要である。
我が国には、多くの先進国が採用していたように同性愛者を処刑しまたは刑務所に入れた歴史はない。それで十分ではないのか。我が国では、情交関係にある養子縁組契約をただちに否定することはないという寛容性を持つ。(最判昭和46年10月22日)
愛の形は養子縁組であっても、相続権の付与など「通常の家族」と同じ権利が発生するという「ほかの手段」がある中、あえて婚姻の文言に固執する理由は何か。
法務省は、同性愛パートナーシップが存在することを理由に外国人へ在留許可をすでに出している。異性婚に比して同性婚の婚姻実態は外部的に把握する手段が困難である実情に付け込み、あの手この手で私たちの日本に潜り込み、文化と伝統および法秩序を破壊する故意が果たして本当に不存在であるのか、本論は断言できない。
以上から、同性婚の承認こそ差別的であり、認められる理由はないものと結論付ける。