5月11日の衆議院予算委員会。質問に立った立憲民主党の枝野幸男代表は、安倍首相に対し、検察庁法の改正は疑惑隠しの策謀だと難詰、「国民の皆さん。安倍総理は自民党の総裁で、自民党と公明党が火事場泥棒的な審議の強行をしているんだということをぜひ覚えておいてください」と安手のスタンドプレーに走った。

 「火事場泥棒」とは穏やかならざる言葉である。枝野が、武漢ウイルス禍に紛れて各地で領域侵犯を繰り返す中国共産党政権にも同じ言葉を向けているなら、まんざら内弁慶でもないとなるが、それは聞いたことがない。10倍返しが信条のトランプ米大統領なら、「つまらぬ揚げ足取りしか能のないちっぽけな枝野こそ税金泥棒の負け犬だ」くらいは言い返しただろう。しかし安倍首相はグッとこらえ、不快感を呑み込んだ。

 今年2月の衆院予算委における苦い経験が、首相の頭をよぎったかも知れない。思い出すのも不快だが、読者の記憶を喚起しておこう。2月12日、「タイは頭から腐る。上層部が腐敗すると残りもすべて腐る。総理が桜(を見る会)とか加計とか森友とか疑惑まみれと言われている。官僚がかわいそうだ」と捨て台詞を吐いて「質問」を終えた立民党の辻元清美に対し、安倍首相が「意味のない質問だよ」とごく常識的な感想を投げ掛けた。普通なら、与党席から健全な失笑と野党席から首相へのブーイングが起こり、適当に相殺されて収まる程度の話だが、辻元はいかにも強い衝撃に打たれたかの如く「誰が言ったの? 誰が言った!」と大声で騒ぎ立て、尻を叩かれた格好の野党幹部らが翌日からの審議拒否を決定。結局5日後に安倍首相が、「辻元委員に対し、質疑終了後、不規則な発言をしたことをおわびする。今後、閣僚席からの不規則発言は厳に慎むよう、首相として身を処していく」と謝罪を強いられる展開となった。
 
 ここでもトランプなら、「疑惑まみれは、秘書給与を騙し取って逮捕された反日泣きわめき左翼、辻元の方だ。そもそもあれが議員になる顔か」くらいの逆襲はしたはずだ。もちろん謝罪するなどあり得ない。

 いま架空のトランプ発言を2つ並べたが、いずれも実際の言動に材を取ったもので、単なる想像の産物ではない。トランプが熱心な支持層を有する理由の1つは、まさにそのリベラル・エリートに対する歯に衣着せぬ物言いにある。思わせ振りや言い澱みがなく、ストレートに溜飲が下がるのである。「安倍さんも、たまにはトランプ並みにガツンとやればよいのに」との思いを抱く人は多いだろう。実際、さらに踏み込んだ反論をする余地は充分あると思う。しかし日本の場合、アメリカと違って「トランプ流」を成り立たせない制度的事情がある。

 米議会はあくまで議員同士が論戦を交わす場で、大統領や各省長官に出席義務はない。「政府提出法案」というものもなく、法案も予算もすべて政権と擦り合わせた誰か与党議員が出す形を取る。従って野党側は、大統領の何らかの発言に「反発」して法案審議を拒否するという手法が取れない。また個々の議員の独立性が相対的に強く、日本の政党が慣例とする党議拘束がない。その分、野党執行部の感情を害することをさほど気にしなくて済む。トランプはペロシ下院議長を「クレイジー・ナンシー」、バイデン元副大統領を「眠たいジョー」などよく政敵を侮蔑語付きで呼ぶ。しかしそれで議会審議が止まることはない。

 もし安倍首相が同様に「クレイジー清美」、「眠たい幸男」などとツイートすれば即座に野党が「審議に応じられない」と言い出すだろう。首相の支持基盤からも、自己の感情の満足のために国民生活や経済活動にとって重要な予算の成立を遅らせてよいのかと軽慮を戒める声が起こるはずだ。従って、日本の首相はトランプのように売られた喧嘩を容易には買えない。枝野や辻元の「意味のない質問」にもある程度低姿勢で耐えねばならないのだ。

 かつて安倍首相の口から「最もストレスが溜まるのは国会審議だ。前日から気が重い」と聞いたことがある。米大統領はおよそ気の休まらない激職だが、このストレスだけからは解放されている。日本の首相が置かれた、挑発に乗るわけにいかない「弱い立場」を見越して、品のない言葉を投げ付け、揚げ足を取ろうとする野党議員らの態度は卑怯と形容するしかない。
島田 洋一(しまだ よういち)
1957年、大阪府生まれ。福井県立大学教授(国際政治学)。国家基本問題研究所企画委員、拉致被害者を「救う会」全国協議会副会長。

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