長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済

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安江仙弘大佐
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樋口季一郎中将の再評価と顕彰

 このところ、樋口季一郎中将の業績を再評価する動きが高まっている。令和2年(2020年)9月には北海道の石狩市に「樋口季一郎記念館」が石造倉庫を改造して開設され、孫の樋口隆一氏が『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓~ ユダヤ難民と北海道を救った将軍』(勉誠出版)を同年4月に出版している。さらに、今年になって有志により「樋口季一郎中将顕彰会」が設立され、淡路島と北海道に銅像を建立するため募金活動が始まった。

 樋口季一郎中将といえば、ハルビン特務機関長時代の昭和13年(1938年)3月にユダヤ人難民を救済したオトポール事件、北方軍司令官時代の昭和18年(1943年)7月の奇跡のキスカ島撤退作戦、第5方面軍司令官時代の昭和20年(1945年)8月の占守島の戦いなどで知られる名将である。

 筆者は3年前に『知られざるシベリア抑留の悲劇~占守島の戦士たちはどこへ連れて行かれたのか』(芙蓉書房出版)で、占守島の戦いにおいて最前線で戦った戦士4000人が最北のマガダン収容所へ抑留された運命を描いた。ソ連軍が終戦後の8月17日深夜に占守島に侵攻してきたとき、樋口季一郎中将は第5方面軍司令官として「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命じたことで、日本軍は勇猛果敢に反撃し実質的には優位に戦いを進めた。樋口中将が命じた占守島の戦いがなければ、スターリンの野望である北海道の北半分占領も実行されたに違いない。

 ところで、ユダヤ人難民救済ということでは忘れてならない重要な人物がもう一人いる。シベリア抑留中に非業の死を遂げた安江仙弘(のりひろ)大佐である。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済

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評価の高まる樋口季一郎中将
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樋口中将は安江大佐に後事を託した

 樋口季一郎と安江仙弘は陸軍士官学校第21期の同期生だった。同期生には石原莞爾もいた。樋口と石原は陸軍大学に進んだが、安江は陸大ではなく東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科に編入した。当時の軍隊は硬直した学歴階級社会で、天保銭組(陸軍大学校の課程を修了した将校のこと)の樋口と石原は中将になったが、安江は大佐止まりだった。

 少将であった樋口がハルビン特務機関長として赴任したのは昭和12年(1937年)8月である。翌年(1938年)3月、満洲との国境の街、オトポール(現ザバイカリスク)にナチスドイツの迫害を逃れてきた多数のユダヤ人難民が足止めされていた。満洲国外交部が入国を拒否したからだ。樋口少将は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ドイツはユダヤ人救済に抗議したが、樋口少将の上司だった東条英機関東軍参謀長は「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴したという。

 樋口少将はオトポール事件後の8月には参謀本部第2部長に転任して現場から離れるが、満州にはユダヤ人問題専門家の安江仙弘中佐が大連特務機関長として同年1月には赴任していた。樋口自身は『アッツキスカ軍司令官の回想録』でこう述べている。

 《この事[オトポール事件]があって以後、ユダヤ人に関する問題が逐次重大性を帯びて来た。そこで、私の同期であり、古くからのユダヤ問題研究家でありパレスタイン※にもいたことのある安江仙弘中佐を大連特務機関長として、その仕事に従わせるよう上司に進言した》
※パレスチナの英語名

 樋口は、自分が手掛けたユダヤ人救済は盟友の安江大佐に後事を託したのだ。

 安江仙弘はシベリア出兵を契機にユダヤ人問題を研究し、『シオン賢者の議定書』を翻訳したり、『猶太の人々』を執筆するなど、陸軍きってのユダヤ通だった。

 吉田俊雄によれば、出兵中はロシア語ができることから白系ロシア軍との連絡将校を勤め、アタマン・セミョーノフについて戦場を疾駆して肝胆相照らすまでになった(吉田俊雄「ユダヤ人と特務機関長」文芸春秋昭和38年12月号)。安江が抑留中にモスクワでのセミョーノフの裁判に証人として出廷したのはそういう関係だったからだろう。

 オトポール事件のあともユダヤ人難民が満洲に押し寄せたが、安江大佐はビザを発給させ天津や上海へ通過させた。ユダヤ人を他の外国人と同様に扱う「ユダヤ人対策要領」を板垣征四郎陸相に進言したのも安江だった。

 樋口と安江が協働した人道的な尽力で約2万人のユダヤ人難民が救出されたとされる。「ヒグチ・ルート」が開設された昭和13年3月から独ソ戦が勃発した昭和16年(1941年)6月までの3年余りの間にである。ただ2万人説について、早坂隆は仔細に検討したうえで確かな論拠はないとしている(早坂隆『指揮官の決断』)。

 多数のユダヤ人難民を救った樋口季一郎と安江仙弘はユダヤ社会における最高の栄誉とされる「ゴールデンブック」に記されている。ゴールデンブックとはエルサレムの丘に建つ黄金の碑のことである。早坂隆が現地で確認したところ、確かに2人の名前が刻まれていた。日付は1941年7月14日で、満州におけるユダヤ人救済が停止した直後に当たる。ゴールデンブックはユダヤ民族基金(JNF)が献金を募り、その献金者の栄誉を称えるために記帳した「献金記帳簿」だとされる。JNFの職員によれば、極東ユダヤ人協会がユダヤ人の救出や保護に功労のあった2人の名前で献金したのだろうという(早坂隆、前掲書)。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済

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樋口中将と安江大佐の名前が記載されているという「ゴールデンブック」

終戦時の樋口中将と安江大佐

 昭和15年(1940年)9月27日、日独伊三国同盟が締結された。その翌日、安江大佐は大連特務機関長を解任され、予備役に編入された。三国同盟の時代、軍部にとって親ユダヤの安江は邪魔だということだろう。民間人となった安江は満鉄から活動費を提供されて私設安江機関を設立し活動した。

 そして終戦の8月末、安江仙弘は進駐したソ連軍に拘束され、「戦犯」容疑者としてシベリアへ送られ、約5年抑留されて昭和25年(1950年)7月に獄死する。民間人であっても元特務機関長だったら「戦犯」として断罪するのがソ連である。

 一方、樋口季一郎は前述したように、終戦時、占守島の戦いを指令して北海道を護ったが、ソ連は樋口を東京裁判で「戦犯」として裁こうとした。しかし、マッカーサーはそれを拒否した。ユダヤ人が立ち上がり世界ユダヤ協会が反対したからだとも、英軍高官が反対したからだともいわれている。

 重要なことはソ連という共産主義国家が、ユダヤ人難民を救った日本軍人を2人とも「戦犯」として裁こうとした事実である。

安江大佐のシベリア抑留

 安江仙弘は抑留地ハバロフスクで病死したので、当然ながら抑留体験について記録を残していない。そのためどのような抑留生活を送ったのか、知られていない。

 本稿では安江の身近にいた抑留者の貴重な手記をもとに安江の抑留地を追い、抑留体験を再現してみたい。

 安江仙弘の長男、弘夫は著書『大連特務機関と幻のユダヤ国家』で終戦後の安江の消息について書き残している。大連にいた安江は終戦の日、弘夫に「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ。俺はその責任を取る。ソ連軍が入って来たら拘束されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」と語った。その後の自身の運命を予期した覚悟の言葉だ。

 ソ連軍が大連に進駐してきた8月23日の数日後、安江はソ連軍に拘束された。おそらく悪名高いスメルシュ(防諜特別管理局)が拘束したのだろう。安江は奉天で取調べを受けていた。安江自身は25年の刑だといっていたというが、昭和20年10月という早い時期に判決が出ていたとは考えにくい。それはともかく、安江は昭和20年11月15日に奉天を出発してハルビン、チタ、カザルマンカ、カメノゴルフスク、チヤマ、ハバロフスク(表記はいずれも原文のママ)と移動したとされる。

 引揚者が伝えたところでは、安江はハバロフスク収容所で昭和25年の夏に脳溢血で亡くなった。抑留当初で57歳だから、当時の感覚ではすでに老人である。ソ連は、佐官であり高齢だった安江に強制労働は課さなかったはずだが、それでも57歳の老人にとって5年の抑留生活は苛酷なものだったろう。遺族は死亡日時が定かでないため8月15日を命日と定めたという。実は村山常雄が作成したシベリア抑留死亡者名簿には昭和25年7月13日に死亡と記録されているから、正しい命日は7月13日である。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済

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安江大佐の墓
※安江弘夫氏『大連特務機関と幻のユダヤ国家』より抜粋
via 著者提供

過酷な収容所移動

 奉天には安江ら「戦犯」容疑者だけが集められた集団500人(以下、「奉天組」)がいた。ソ連が「戦犯」容疑者とみなしたのは、将官・将校、憲兵、特務機関員、警察官、司法関係者、行政幹部、満洲国協和会関係者、民間会社の役員などの「前職者」である。安江は大連特務機関長だったから第一級の「戦犯」容疑者だ。

 第44軍参謀の梅里助就(すけなり)中佐も奉天組の一人で、陸士、陸大卒である。梅里は、安江がハバロフスクで死亡する5ヵ月前までほぼ同じ抑留経路をたどって貴重な体験記『ソ連抑留回想~両脚を砕かれて十一年』を残した人物である。梅里によると、11月に奉天を発って中継地チタで10日ほど過ごしたあと、カレリノ駅で下車し最初の抑留地コソルマンカ(日本人の通称、カサルマンカ)に着いたのは12月26日だった。

 コソルマンカはロシア中部ウラル地方の中心都市、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルグ)の北210キロに位置する小集落である。スヴェルドロフスクはハバロフスクから4,800キロも離れており、むしろモスクワまで1,400キロと欧露に近く、皇帝ニコライ2世一家が惨殺された場所としても知られる。

 一方、新京で編成された別の「戦犯」容疑者集団500人(以下、「新京組」)もチタに移送されている。満洲国協和会職員だった香川文雄もスメルシュに逮捕されスパイ容疑をかけられた一人だった(香川文雄『北槎記略』)。この新京組も同じ時期にチタを経由してコソルマンカに到着した。奉天組と合わせて1,000人の特異な「戦犯」容疑者集団がこのあとヴェルホトゥーリエ、ウスチ・カメノゴルスクへと移動する。実はこのコソルマンカとヴェルホトゥーリエはともにソ連の捕虜収容所リストにも入っていない収容所で、従って収容地区番号も付されていない、いわば番外の収容所とみられる。

 梅里ら奉天組はコソルマンカで荒れ果てたバラックに入れられた。食事は黒パン350グラムと粟の粥(カーシャ)一杯で、作業は収容所の整備だった。

 年が明けて昭和21年1月18日、コソルマンカの北東20キロにある古い都市、ヴェルホトゥーリエへ移動した。約300人の白系ロシア人が先着していたが、彼らが収容所では主導権を握った。同じロシア人であることとロシア語ができることで当局に取り入ったわけだが、所詮彼らも祖国の裏切り者としてのちに断罪される運命だった。

 作業は貨車の積み下ろし、薪割り、道路・線路の除雪などだった。厳冬期だったからマイナス50度での作業もあった。かつて体験したことのない寒さである。

 同年3月28日、梅里ら奉天組は白系ロシア人と別れて貨車で東南に向かい、約10日後にカザフ共和国(現カザフスタン共和国)のウスチ・カメノゴルスクに着いた。新京組の500人が先着していた。ここはスヴェルドロフスクから東南に直線で1,600キロ以上離れていた。
 ウスチ・カメノゴルスク(現オスケメン)はイルティシュ川の右岸にある。イルティシュ川はモンゴル・アルタイ山脈に発し、大河オビ河に合流する支流だが、支流ながらオビ河よりも長い河川だった。水陸の交通の要衝であり、巨大な水力発電所がある。中央アジアながら北緯45度と高緯度なので極寒地帯である。

 奉天組と新京組を合わせて1000人の「戦犯」容疑者集団は一般捕虜とは区別され、ロシア語ではスペツ・コンチンゲント(特殊人員)と呼ばれた。ここには第45収容地区があり、「戦犯」1,000人は第4支部に収容された。第4支部にはドイツ人捕虜も400人いて別の大隊を組織しており国際収容所だった。住居は半地下小屋(ゼムリャンカ)だった。

 香川によると、主な作業は「第10亜鉛工場」建設工事で、そのほか住宅建設や農場などの作業に駆り出された。ここは周辺の鉱山で採掘された亜鉛の精錬・加工の中心地だった。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済

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抑留生活は悲惨なものであった―
※写真はシベリアからの帰還兵
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悲惨な抑留生活

 梅里は6月になって木材の揚陸作業に出るが、そこで材木が落下して両股を骨折する事故に遭う。命に別状はなかったが両大腿の骨折である。町の病院に運ばれ美人の若い外科医の診断を受けたが、ちょっと触ってみるだけでレントゲンすら撮らなかった。しかも治療は、両足を牽引しただけでそのままギプスで脚、腰、腹を固定するものだった。

 帰国したあと知ったのだが、大腿骨折の場合、折れた骨の両部分をかすがいで固定するか、キュンチャーといわれる髄内釘を骨髄内に通して固定しないと骨折部分から曲ってしまい骨折面の癒合もしないのである。ソ連の女医にはその程度の医療知識さえなかったのだ。

 お粗末な「治療」の結果は梅里に苛酷な運命を強いるものだった。

 《約五年間はベッドの上で仰臥のまま他人に両便の始末を御願いし乍ら、而も其の間にソ連の一方的裁判によって、戦犯として二十年の刑に処せられ(実際は二十年は居なかったが)、あとの5年間は辛うじて松葉杖にすがり、骨折したままの両脚を引きずり乍ら、ただでさえ不自由かつ困難な監獄或いは囚人ラーゲルを転々として、言語に絶する苦難に耐えぬかなければならない事になった》

 シベリアでも最も苛酷で屈辱的な抑留生活といえよう。
 梅里ら病弱者のみ500人は同年9月8日、ウズベク共和国(現ウズベキスタン共和国)のアンディジャン第26収容地区へ送られた。この病弱者に安江仙弘も含まれたから、すでにこのころから安江は病人か衰弱者だったのだろう。香川によると、残留した500人は翌昭和22年8月、カラガンダ第99収容地区へ転送され苛酷な炭鉱労働に従事するとともに「戦犯」として厳しい取調べを受けることになる。

 アンディジャンはウスチ・カメノゴルスクの南西1,300キロに位置する。北緯40度と南なので気候は温暖で冬夏の寒暖差も小さい。アンディジャンから北東約30キロのところにチュアマ保養収容所があった。ロシア文学者昇曙夢(のぼる しょむ)の『留守家族』に収められた子息、隆一の手記によれば、昭和21年8月末に着いたときチュアマにはドイツ人と日本人の捕虜がそれぞれ300人いた。昇隆一らの一行90人はヴォロシーロフ監獄から移送されてきた「戦犯」容疑者で、捕虜とは隔離されて収容されたから、チュアマは保養収容所であると同時に「戦犯」収容所でもあったわけである。

 昇隆一によると、梅里のような重病人を除いて、作業は軽作業で炊事、靴編み(ビニールのような食物繊維を使用)、棉つみ、農耕、灌漑修理などだった。
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当時の収容所の再現模型
※舞鶴引揚記念館 所蔵
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 梅里らは昭和22年5月12日、ウズベク共和国のフェルガナ第387収容地区へ移動した。フェルガナはアンディジャンの南西64キロにある肥沃なオアシス農耕地帯である。1939~40年にシルダリア川の南をほぼ並行して流れるフェルガナ大運河(全長350キロ)が建設されたことで綿花や果物(ブドウ、スイカなど)や絹が増産された。

 梅里と同じく、ウスチ・カメノゴルスクとチュアマを経てフェルガナに来た薬袋(みない)宗直は「アルコール工場」で働いたと記している(薬袋宗直「私の西遊記」朔北会『朔北の道草』)。アルコールとは特産の綿の実から抽出した綿実油(めんじつゆ)のこと。一期工場は稼働中で、日本人は二期工場の建設をやらされた。

 梅里は骨折の手術のため一時、さらに73キロ西にあるコーカンド第3670特別病院に移されたものの手術は行われずにまたフェルガナへ戻され、「戦犯」容疑者一行は昭和23年10月にハバロフスクへ移送される。

最期:そしてハバロフスクへ―

 ハバロフスクはシベリア抑留の中心的な都市である。シベリア「民主運動」を領導した宣伝紙「日本新聞」を発行した日本新聞社があった。「戦犯」収容所があり、731部隊を裁いたハバロフスク裁判の開催地だった。

 梅里は昭和23年10月、フェルガナ第387収容地区からハバロフスク第16収容地区第7支部へ転送された。ここでは安江老大佐と同じ病室に入れられたと記している。ハバロフスクはシベリア「民主運動」のメッカだったから、「戦犯」容疑者だった2人は早速吊し上げの標的にされた。歩けない梅里とほぼ寝たきりの安江でも容赦なく毎日やって来て悪口雑言を浴びせるのだ。「民主運動」なるものの酷薄さ、非情さを示す例である。

 梅里は安江大佐についてこう記している。

 《私の隣に寝ている安江さんは、ユダヤ問題研究の権威で、終戦前、四王天(しおうでん)延孝中将と共にその双璧と言われた人であった。然し此の二人は全く其の研究の立場を異にし、四王天中将がユダヤ禍と唱えたのに対して、安江さんはユダヤ人救済の立場からの研究であり、又その立場から数々の業績を挙げているのである。その該博な知識と高邁な見識は正に日本の至宝的存在であったし、またユダヤ人のゴールデンブックに日本人としてただ一人(ママ)其の氏名が記載されていると言われる》
 
 梅里は安江仙弘を「ユダヤ問題研究の権威」で「日本の至宝的存在」と称揚している。残念ながら、梅里は「ほぼ寝たきり」と記すのみで安江の具体的な病状について触れていないが、脳溢血で死亡したと伝えられるから、すでに半身不随だったのかもしれない。高齢の受刑者には高血圧で苦しむ人が多かったと伝えられている。

 梅里はこの支部にいたときソ連の良心的な医者に勧められて松葉杖による歩行訓練を始めている。昭和24年2月、梅里は第7支部から第16支部へ移動させられたので安江とは別れ、二度と会う機会はなかった。

 梅里助就は昭和24年9月、刑法第58条第6項(スパイ行為)で不当な20年の判決を受けた。昭和24年は「戦犯」の判決が集中した年なので、おそらく安江もこの時期に有罪宣告されたのではないか。梅里は無実の罪で長い苦難の受刑生活を送ったあと昭和31年8月19日に生還した。

 寝たきりだった安江仙弘は、一般抑留者がすべて帰国したあとの昭和25年7月13日、ハバロフスク第16収容地区第21支部で獄死し、ついに生還は果たせなかった。
 
 多数のユダヤ人難民を救い、評価が高まり始めた樋口季一郎中将。そして、同様の功績を挙げながら過酷な抑留生活を送り、シベリアで非業の死を遂げた安江仙弘大佐。今こそ私たちは安江仙弘大佐の業績を再評価し、顕彰する必要があるのではないだろうか。
※文中敬称略
長勢了治(ながせ りょうじ)
1949年、北海道美瑛町生まれ。北海道大学法学部卒業後、三菱ガス化学入社。退職後、ロシア極東大学函館校でロシア語を学ぶ。以後、シベリア抑留問題を研究。著書に『シベリア抑留全史』(原書房、2013年)、『シベリア抑留』(新潮選書、2015年)、『シベリア抑留関係資料集成』(富田武氏との共編、みすず書房、2017年)など。

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