伊是名氏の抗議はとても「平和的」であった?
元を正せば彼女が事前連絡なくJRへと「ムチャ振り」をした上、JR側はできる限りの対応をしてくれたように思えるのに、「乗車拒否にあった」などとマスコミに訴えたというその経緯に、多くの人が疑問を感じた、ということであったかと思います。
ぼくもこれに関連して、彼女の先輩格とも言える安積遊歩氏について述べさせていただきました。伊是名氏には安積氏と、そして場合によっては乙武洋匡氏とも共通点があることを指摘し、それを「障害は個性」主義といった言葉で表してきました。
しかし今回、みなさんに朗報(!)をお届けすることができそうです。
というのは、実のところ伊是名氏の行動は、大変に「平和的な抗議デモ」であった、と判明したのです。
1977年「川崎バス闘争」
≪伊是名さんがとった行動は、障害者運動の歴史を見ても、実にオーソドックスな手法なので、批判すべき点は感じていません。≫
と述べましたが、今回、それを裏書きするような事実が発見されました。
「川崎バス闘争」をご存じでしょうか。1977年4月13日付の『毎日新聞』の記事を見てみましょう。
≪「車イスのまま一般人と同じように路線バスに乗せよ」と日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会(横塚晃一会長・会員約3万人)の会員約100人(うち車イス約30台)が12日午後1時過ぎ、国鉄川崎駅前のバスターミナルに停車中の川崎市営バスなど公市営バス4社、28台の路線バスに一斉に車イスごと乗り込み、「運転しろ」と要求した。このため運転手は「介護者がいないままでは安全確保はできない」と運行を中止。同会員らは約6時間半、一部は10時間にわたってバスを“占拠”したかたちになり通勤通学客などバス利用者約15万人が影響を受け、同駅周辺の路線バスは一時混乱状態となった。市交通局は、説得を続けたが、同会員らは道路に寝ころぶなどして深夜まで抵抗を続けた。≫
背景にはバス会社側が車椅子の乗車拒否をしたことがあるのですが、それも運転手が車椅子を運ばされて腰を痛めたといった経緯があるらしく(真偽不明ですが、会側の人間の談話としてそう語られており)、無理のない話。またバス会社側は付添人をつけ、車椅子を折り畳むことで乗車すればよいと提案しているのですが、会側はとにもかくにも「健常者と同じ扱いにせよ」と言い続けているという点も、伊是名氏の件と全く同じです。
同会は「運転手や他の乗客が手を貸すべき」とも主張しており、15万人の乗客の足を奪っておきながらそこまで主張できる感性が、ぼくにはさっぱり理解できません。
同日の『朝日』と『読売』の記事では乗りあわせた中年男性の声を載せています。まず同一人物と考えて間違いないと思われるのでまとめて紹介しますが、この男性は腎不全を患っており、会社で多忙なところを無理に時間を作り、人工透析を受けるためバスに乗ったところ、足止めを食らったのです。切羽詰まった状況だったはずですが、それでも彼は支援の若者(会のボランティア、との意味でしょう)に「気持ちはよくわかるが、手段が乱暴すぎる(大意)」と説いていたといいます。
人に迷惑をかける「幼稚な政治活動家」
あるのは不満を幼稚なやり方で爆発させ、他人に迷惑をかける政治活動家の姿です。
同会は類似の騒動を以前から起こしており、朝日の見出しは「車イス乗車 また大もめ」というもの。逆に言えば幾度騒いでも要求が通らなかった焦りがこのような強硬手段を取らせたとも言えますが、同時に「大衆の車椅子ユーザーへの理解があまりにも乏しく、耳目を集めるための苦肉の策だ」といった言い訳は通用しないのではないでしょうか。
『読売』ではこの前後の日付で(本件とは全く無関係に)車椅子ユーザーに向けた介護タクシー、バス、鉄道などの話題を好ましいこととして報じています。お断りしておきますが、これはあくまで縮刷版の77年4月分を見ていてたまたま発見したものにすぎません。つまり、この種の話題は当時、ごく普通になされていて、大衆の関心も高かったはずなのです。完璧とは言えないまでも、社会がバリアフリーに向けて動いていたという状況は、実のところ現在と変わらなかったのです。
或いは、40年以上前のできごとであり、今の感覚でだけ裁くのはどうかとの反論が考えられるかもしれません。
確かに、敢えて擁護するのであれば、当時はこうした「運動」が許容される傾向にあったかもしれません。何しろちょっと前まで学生運動が盛んだった頃です。この種の騒動に人々が慣れっこになっていた側面はありましょう。しかし本件について、やはり大衆の声は批判的だったようです。
まだバス闘争が必要⁉
彼女が福岡で行った講演会記録があったのですが、そこで彼女もまた、暴れ回っていたことを自慢げに語っておりました(ただし、上にも書いたように同会はこの種の騒動を繰り返しており、彼女が参加したのは本件とは別かもしれません)。
≪その2年後、川崎で彼らが行ったバス闘争がありました。私は骨が弱く最前線には立ちませんでしたが参加しました。バスの前に寝転がり、私たち障がい者を乗せないバスを止めて抗議したのです。乗せてほしい、乗せるべきだ、と訴えました。(中略)福岡では低床式バスがまだまだ少ないと聞き、バス闘争が必要だねと先ほど話していたところです。≫
この講演会は2007年のもの。反省の弁どころか、彼女は現代においてもそのような運動をすべきだと思っているのです。
彼女の著作『多様性のレッスン』を見ると、バスに乗ろうとしたところ、運転手に「リフトがついていないので乗せられない」と拒まれたという、上のケースとも、また伊是名氏のケースとも近しい話が出てきます。
≪でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。あなたがいったような言葉に私たちが諦めていたら、今、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、訴えていました。
(中略)
それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という運転手の言葉にさらに発奮して、その差別性を問いただしました。
(206p)≫
社民のyoutube配信で、エレベータに割り込むことを誇っていた時もそうですが、ともかく彼女にとって先の行いは「手柄」としてのみ認識されているようです。
これはやまゆり園事件直後のことだったそうで、つまり2016年のことと思しい。つまり青い芝の会の理念は現代に至るまで変わらず、伊是名氏にまで全くそのまま、受け継がれているのです。
先日、『東京新聞』に掲載された伊是名氏を擁護する記事、また3年ほど前のcakesにおける連載、「「青い芝」の戦い」においてもこの「川崎バス闘争」は言及されていますが、基本みな肯定的なのだから、これは安積氏、伊是名氏だけの問題ではなく、ある種の社会運動が共通に抱えているものなのでしょう。
批判対象であっても「利用」する身勝手
確かに、消されたブログでは当人が「ヘルパー無しでも生活できる」と書いており、また、著書である『ママは身長100cm』においても大学時代に一人暮らしをしていた時はヘルパー制度を使っていなかった旨を書いている(119p)にもかかわらず、現時点では10人のヘルパーがいるというとなると、(小さなお子さんが二人いるからではあれ、それにしても)疑問は沸きます。
伊是名氏自身、同書で
≪だから次第に、自分でヘルパーさんを探してお願いするようになりました。(中略)そして「やってみたい!」という人が見つかったら、研修を事務所で受けてもらい、資格を取ってもらいます。
(126p)≫
と書いています。これ自体は「自薦ヘルパー制度」と呼ばれ、正当なものなのですが、またこうした制度を使う理由として、伊是名氏自身はヘルパーと個人同士の信頼を築きたいからと説明していて、その気持ちも充分にわかるのですが、同時にあまりにも悪用がしやすい、問題のある制度であることも事実なのです。
もちろん、疑惑はあくまで疑惑の域を出ませんが、いずれにせよ制度がかなりザルであり、悪意を持った者がいれば不正が容易であることは確かなようです。
まず、彼女が車椅子を入手した経緯から引用してみましょう。
≪1980年ころ、郡山市に越してからのことだが、市役所では、私の障害の程度では電動車椅子は支給できないと言う。
(83p)≫
そこで、日本テレビの『愛は地球を救う』のキャンペーンに申し込み、見事電動車椅子をゲット。
≪その後、この電動車椅子が壊れそうになったので市役所に行ったら、十年一日のごとく「診断書を書いてきてください」。それで、このときに私は、「一種一級」といういちばん重い等級に変更してもらった。まったく、本人の意見より医者が書く診断書のほうがはばを利かせるという、この診断書信仰はいつまでつづくのか。うんざりする。
(84p)≫
つまり、おそらくは現状では車椅子の修理費が援助されないことが理由で、虚偽の診断書による申請をしたらしいのです。唯一、彼女の障害が進行したがため等級を変更したという場合は正当性があるでしょうが、前後を見てもとてもそうとは思えません。
成長しない「自分勝手な正義」の姿
お二人とも、自分たちは常に他者からゲインを得る権利がある、そのためには一般的にはアンフェアと思われるような方法を用いても構わない(その前提として、差別という不当を味わっている)、とでもいった確信めいた感覚をお持ちなのではないでしょうか。
彼女らは「健常者」という名の「他者」はみな権力側の存在であり、無尽蔵な力を持っており、自分たちに全てを与える義務があるのだとでも認識しているかのようです。
しかしそんな「弱者」たちの「強者」への闘争は、先の「川崎バス闘争」では腎不全に苦しむ男性を踏みつけにする行いでした。自分たちこそが「弱者」を苦しめる側に回ってしまっていたのです。
にもかかわらずそれについての内省はなく、いまだ彼女らは英雄気取りで正義の刃を振るい続けています。
このような「自分勝手の正義」こそ、フェミニズムにも、LGBTの運動にも、BLMにも共通して見られるモチーフではないでしょうか。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。