自分のことを棚に上げる人々
子供時代、障害を持った同級生に苛烈ないじめを繰り返していた小山田氏ですが、彼を見ていて感じるのは、「いじめられた恨みを、自分よりも目下の者へとぶつけていた」のではないか、ということです。
いえ、彼がいじめられっ子であったかはわかりません。『クイック・ジャパン』1995年9月号の記事においても、いじめられたことはなかったと述懐していますが、同時に友人が少なかったとも述べられており、『月刊カドカワ』1991年9月号、『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号などでも目立つ子ではなく、おもちゃのコレクションなどで級友たちの気を引いていたことが繰り返されています。
彼はそうした不遇感をさらに下の人間にぶつけていたのではないか…そしてそれはまた、サブカル全体が持つ傾向であると同時に、左派やフェミニストたちがその実は弱者に対して残忍極まりない振る舞いをする理由とも同じなのではないか、といったことも語らせていただきました。
つまり、彼ら彼女らは「私こそが被害者だ」との自意識を持つからこそ、平然と他者を踏みつけにすることができるのではないか、ということです。
その観点から考えますと、サブカルに限らず、WiLL読者にはおなじみの「左派・リベラル」の面々にも数々の「自分のことを棚に上げてそれを言うか!?」的な言動が多く見られます(きっと読者の皆様の脳裏にも様々な人の顔が浮かんだことかと思います)。
そこで今回の記事では、小山田氏を「擁護」している当時の関係者の言を題材として、常識からは??と思えるようなサブカル≒左派勢の「自己正当化」の論理についてみていきたいと思います。
当時の編集者の釈明にみる「自己正当化」
ここで語られる凄惨ないじめの話は前回記事を参照していただきたいのですが、そこに笑顔で参加していた一人に、同誌の編集者、北尾修一氏がいます。
彼は今回の炎上騒ぎを受け、自身が経営する百万年書房のサイトで釈明めいた記事を書いているのですが、これが何というか、非道いもの。
※実のところこの記事は、2021年7月いっぱいで公開を終了する旨が明記されており、どうかと思ったのですが、いずれにせよ本人が一度公に発表したものである以上、評論に関わる抜粋は差し支えないだろうと判断し、ここでご紹介させていただくことにします。
正当化手法その1=自分もかつて被害者であった論
さらにここでは村上氏が「壮絶ないじめサバイバー(生還者)」であると説明されます。このフレーズは以降も繰り返し繰り返し出てくるのですが、その事実が彼の仕事を正当化するとは、ぼくには思えません。
正当化手法その2=他のメディア・論評を批判することによる正当化
ここでの紹介のされ方を見ると、「いじめ紀行」は「いじめ自慢」、「いじめを推奨する記事」にしか思えないが、北尾氏にはそんな記事だった記憶がない。
≪「この問題、鬼畜的要素の固有名詞をカットアップして短文化し、あたかも鬼畜に仕立てあげ脚色されたもの。作ったやつは誰か? これは調べあげた方がいい。」≫
つまり「孤立無援のブログ」は「元記事の文脈を恣意的に歪めている」のだ、というのが北尾氏の主張です。
もちろん、引用が引用である限りそこに恣意性が生じることは免れないし、本文から「特に印象的な、悪質な部分」を抜き出し、採り上げるのも当たり前のことでしょう(この点は当記事においても変わるところはありません)。
その上でも、「孤立無援のブログ」は明らかに文意を捻じ曲げているといえるのでしょうか。
北尾氏の指摘を見ていくと、カットされた部分というのは
・小山田氏がインタビュー前は腰が引けていた、とする記述(そんなこと言ったって、いざインタビューに入ると(笑)を連発していじめの思い出を語っているんですが)。
・小山田氏の「沢田君とは仲がよかった」という発言(前回にも述べたように、「仲がよかった」というのは「おもちゃにしていた」という意味です)。
・沢田君にティッシュボックスを買ってあげたというエピソード(やはりぼくが前回記事で採り上げたもので、確かにこれ自体は悪いエピソードではありませんが、その事実がいじめを免責するものではありません)。
(ただし、いじめのいくつかは小山田氏自身の犯行ではなく、彼自身はただ笑って、場合によっては退き気味に見ていただけ、と語られており、「孤立無援のブログ」ではそれがカットされている、あたかも小山田氏自身の犯行であるかのように編集されている、との指摘もなされています。しかし『ロッキング・オン・ジャパン』においては小山田氏自身が「実行犯」でなく「いじめのアイデアを立案する側だった」と言っていて、彼は単に直接手を下していなかっただけではないかとの疑問が残ります。)
正当化手法その3=「ヤバい部分」は見ないふりをする
≪※本原稿は、小山田圭吾氏が過去に行ったとされるいじめ暴力行為を擁護するものではありません。≫
と記されているのですが、全編を読んでみても擁護としか感じられませんでした。
北尾氏は小山田氏が沢田君をいじめ倒していたという記述から全力で目を反らし、数少ない「これにはさすがに退いた」といった記述を丹念に丹念に拾い上げているだけなのです。
「いじめ紀行」の最後に掲げられた年賀状を、北尾氏は「二人の友情の証」であるかのように語ります。
≪ここで、本文でずっと匂わされていた「実は小山田さんと沢田君は仲良しだったんじゃないのか?」ということの、物的証拠が初めて示されます。つまり、読者はこう発見するのです。
「小山田さんも、沢田君に手紙を書いていたんだ…(やっぱりふたりは仲が良かったんだ…)」≫
ぼくは「サブカルはオタクを攻撃してくる」と再三書いていますが、ハタと考えれば彼らはどうもこちらに対して「仲よくしてやっている」と思い込んでいる節があり、これも同じ心理なのでしょう。
北尾氏は「孤立無援のブログ」を
≪たとえるなら、「ビジネス書はたくさん読むけど、小説や詩は生まれてから一度も読んだことがない人が作るまとめ記事」みたいなものです。≫
と評し、まるで「いじめ紀行」が何らかの文学性を持ったものででもあるかのように読者をミスリードしていますが、恐らく文学性というものに対しての感覚が貧しいのは氏のほうではないでしょうか。
正当化手法その4=無理に「美談」や「ワケ」を見出そうとする
第3回であり、最終回の「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」において、北尾氏の筆致はさらなる一大飛躍を果たします。
第2回目では小山田氏と沢田君との「友情」が捏造されましたが、ここでは小山田氏の村上氏への「温情」が妄想されるのです。
考えてみれば「いじめの話を聞かせてくれ」などというオファーをOKするとは思えない、また事実、小山田氏は当初、渋っていた。しかし新人ライターである、貴重な連載のチャンスを掴んだ村上清氏の情熱に打たれ、協力したのだ、と言うのです!
≪「目の前に現れたM氏の力になりたい」と小山田さんが思った。特に実際に会って《打ち合わせ》をした後で、そう思うようになった。そうとしか考えられません。≫
いや、100%北尾氏の想像なのですが。
その時の小山田氏と村上氏のBL、もとい二人の間にあったであろう交感の妄想話を、彼は極めて文学的な筆致でしたためます(笑)。
≪だってさあ、何なんだよ、この『デビルマン』みたいな今の状況。こんなものを一刻も早く終わらせたくて、私はこの原稿を発表しています。だから、小山田さんの人格を全否定する乱暴な言葉には抗います。≫
≪今ごろやっと気づいたんだけど、良かったね、M氏というか村上くん。村上くんが気合いを入れて書いていた企画依頼レターと、あのとき全力で小山田さんに伝えた気持ちは、ちゃんと伝わっていたんだね(26年後に再読してやっと気付いた笑)。≫
≪だって、今この瞬間も、ふたりは別々の場所で泣いているかもしれないのですから。≫
「別々の場所で泣いているかもしれない」ふたりとは当然、小山田様と村上様のことであり、彼らに人生を破壊された沢田君、村田君たちのことを意味してはおりません。後者二人は見事に、惚れ惚れするほどに、一顧だにされていません。
何しろ北尾氏は「いじめ紀行」を「宝石のような何か」とまで呼んでいるのですから。
仲間にはどこまでも甘ったるい情念を全開にして擁護する一方で、利害の及ばない者に対しては悪魔のように冷たい党派性。これこそが、左派イデオロギーを強く宿したサブカルの本質なのではないでしょうか。「それは左派ばかりの問題ではない」という反論もあるかもしれませんが、これはある種のルサンチマンとマイノリティ意識を根拠にしてきた左派こそが、陥りがちな罠だとぼくには思われます。
それが違うというのであれば左派の人々も、彼らだけは許してはなりません。
以前にもご紹介したことがありますが、著者たちの思い込みだけでオタクがあらゆるマイノリティーを差別しているのだと決めつけ、ただひたすらにオタクやオタクコンテンツへの罵倒を繰り返すという、まともな神経を持っていたら(おそらくオタクでなくとも)読めない本です。
なるほど、「いじめ紀行」を「宝石」とまで称賛する感性の主であれば、ああした強い差別性、敵に対する果てしない憎悪、デタラメを平然と垂れ流す不誠実さの塊のような劣悪な書籍を出してしまえるのも納得です。
ちなみにこの「いじめ紀行」、全文を採録したサイトがあります。
果たして北尾氏とぼくとどちらの発言に理があるかお疑いの向きはチェックしてみていただければ幸いです。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。