兵頭新児:「共同教育」理念に見える左派&リベラルの病根

兵頭新児:「共同教育」理念に見える左派&リベラルの病根

 小山田圭吾氏の問題について、『クイック・ジャパン』1995年9月号の記事「いじめ紀行」を中心に、二回に分けて(※)語らせていただきました。
  ※8/1日配信 小山田氏「いじめ問題」はオタクを下に見る「男性フェミ」と同じ構図
  ※8/8日配信 小山田圭吾氏問題にみる、リベラル・文化人の無茶な「自己正当化」論


 ごく簡単にまとめれば、小山田氏の件と当時の「サブカル」が悪趣味文化、言い換えれば「厨二」的感性を節度なく振り回し続けたことは相似形ではないか、といったお話です。

 町山智浩氏が「自分たちのやっていたサブカルは、あくまでモテる者へのカウンターであって、小山田とは違う(大意)」と語った件についても、ご紹介しました。確かに小山田氏は「持てる者」であり「モテる者」というイメージがあり、町山氏の言い分も心情としてはわかります。しかし小山田氏も子供時代はあまり友人がいなかったことが同誌や『月刊カドカワ』1991年9月号、『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号のインタビューで明かされており、町山氏同様にルサンチマンを抱えた存在であったと想像できます。

 しかし往々にしてそうした情念は容易に「上への媚び」や「上に行けたが故の下への攻撃」に転化し得る。そしてそれを、「裕福そうなポップスを演っていた(ぼくは彼について全く知識がありませんが、「いじめ紀行」にこう表現されていました)」小田山氏が体現した。本件はそうしたことではなかったでしょうか。

「共同教育」とは?

 小山田氏が障害のある子をいじめていたのも、サブカルが「自分たちよりさらに下の者」としてオタクを攻撃していたのも、みなそうした「カウンター」の根っこにあるルサンチマンが原因でした。

 しかし元々、サブカル勢とそのサブカル勢に多い左派&リベラルの行動原理の根っこにはルサンチマンがあり、そうなるとこれらはそういった人々が元から内包する問題ともいえるのではないでしょうか。

 そこで興味深いのが、今回の小山田氏の出身校として話題になった和光学園の「共同教育」です。実は同校は共産党と関係が深く、左派的な学園であることも知られております。とすれば「共同教育」の中身を検討することが、サブカル勢のみならず左派&リベラルの行動原理を読み解くヒントになると思われます。

 まず、「共同教育」とは何でしょう。「共同」も「教育」も耳慣れた言葉で、かつその包含する意味は広いので、字面からはイマイチわかりません。
 『日刊ゲンダイ』の「小山田圭吾“陰湿いじめの舞台“となった和光学園の「共同教育」とは…担当者に聞いた」を見ると、「障がい児も健常児とともに教育を受けさせる」教育方針とあり、

 ≪文献(京都女子大学発達教育学部紀要20年第16号『和光学園における「共同教育」の提唱と盲児の統合教育』)によると、和光学園では、1970年代からこの共同教育を取り入れ、多様な障がい児を幼稚園・小学校・中学校で受け入れてきた歴史を持つ。≫

 といったことが紹介されています。つまり、小山田氏が障害を持った子供と同じ学校に通っていたのには、和光学園の理念が関係していたわけです。
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理想は素晴らしいかもしれないが-
 この共同教育、全てがダメというわけではないのでしょうが、ある種の理想論であり、簡単に実現できるものではないことは、容易に想像できます。

 例えばですが障害の重度によって身動きそのものに大幅な制限のある人もいるわけで、そういった人をも通常学校に通わせよ、というのはさすがに無茶でしょう。「誰もが同じ場で」という発想自体が空理空論という他ないわけです。

 いえ、何よりもそもそも、前提となる理念がそれほど正しいものなのでしょうか。先ほどの身体面のみならず、知的な面で問題のある子を健常者と共に学ばせることにも限界があるし、無理に「同じ場で」学ばせることに意味があるのか、ぼくには疑問です。

「いじめが多い」との告発

 いずれにせよ、この一連いじめ問題で一番悪いのは小田山氏ですが、「形ばかりの共生を謳って、健常者と障害者を同じ場所へと放り込み、はい、おしまい」―というやり方では、いじめが起こってしまうのも必然です。

 事実、本件の炎上に伴い、「同学園では障害者へのいじめが多い」との告発が目につくようになりました。

 ネットを調べると、「なまじ先生がその子の障害について説明したため、生徒たちがその障害名を呼んで囃し立てるいじめを始めた(逆に言えば障害の説明だけで、その後のフォローが欠けていた)」、「障害児へのいじめが3年間に渡って放置されていた」といった卒業生たちからの告発を見ることができます。

 これでは空理空論を弄び、それに子供をつきあわせているだけだと批判されても仕方がないのではないでしょうか。
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「共同教育」ではいじめが多い?
 この「共同教育」は恐らく「統合教育」、「インクルーシブ教育」(参考:文科省ウェブサイト)に近いものかと思われます。これらもやはり、「健常者と障害者を共生させよう」という考えであり、後者は前者の言わばブラッシュアップ版として、近年盛んに唱えられるようになってきたもの。つまり、小山田氏が学校に通っていた頃は「統合教育」の方が一般的だったわけです。

 『障害のある子どもへのサポートナビ 特別支援教育の理解と方法』(2019年/松浦 俊弥、角田 哲哉 著/北樹出版)によれば、統合教育とは「障害のある子どもが、障害のない子どもと共に教育されることが保障されなければならない(68p)」という考え方であると説明されています。

実にヘンな「現実を理想にあわせよ」論

 では、インクルーシブ教育の方はどんなものか…と思いつつ、同書を読み進めると、「今から30年以上前」(本書は2019年刊ですから、1980年代の話でしょうか)の印象的なエピソードが語られます。

 著者の勤務する盲学校に「まったく口をきかず表情のない小3の全盲の女子が転向して」きた。

 ≪統合教育が叫ばれる中、周囲の勧めで通常学校に入学したものの、教員や他の児童との関りがほとんどなく、1日中誰とも会話をしない日もあったといいます。盲学校へ来て少人数の中で仲間と関わるうちに少しずつ言葉をしゃべるようになり、合唱部で友だちと指を絡めた合図で指揮を感じ取り、歌を練習する中で、すっかり元の明るさを取り戻すことができたのです。(68p)≫

 つまり、盲目の少女が統合教育を実践しようと通常学校へと通ったがうまく行かず、盲学校で仲間を得たというエピソードです。
 なるほど、「障害児と健常児の共生」というのは言葉としては美しいが、現実にはなかなかうまく行かないものなのだなあ、ともあれ少女に友だちができてよかったな…と思って読み進めると愕然とします。

 ≪インクルーシブ教育がその理念と目的を遂行するためには、地域の通常の学校を、障害を含むすべての子どもが学べるような包含的な学校に変えていく必要があります。(68~69p)≫

  少女が盲学校に行って幸福になったのならそれでいいと思うのですが、それではダメだと、この著者は言っているのです。何しろ、「通常学校」に通うことこそが望ましいのですから。

 この箇所はあくまで「統合教育」の理念がブラッシュアップされ、「インクルーシブ教育」という新たな考え方が提唱されるようになった経緯を説明する部分です。

 「ただ通常学校へ転入しても不都合が多いので、お膳立てを整えよ」と言っているのですが、ぼくには「盲学校に通うのはダメだ」と言っているように読めてしまいました。
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理想論だけでは如何ともしがたいこともあるのでは―
 つまり(現実に不幸せな事例があっても)「障害者と健常者の共生」という「理念」は絶対に正しいので、それが通用しない「現実」の方を、コストを投じて改変せよ、というのがここでの主張なのです。

 上の全盲の少女はごく一例にすぎないとはいえ、ある意味では統合教育の限界が見えたので、さらに先進的(と言えば聞こえはいいですが、考えようによっては強引)なインクルーシブ教育が唱えられるようになった、というのが経緯なのです。

 こうなると後者は前者に比べ、障害児と健常児との区別そのものをなくそうという情念に支えられているように思われます。

自分勝手な「正しさ」

 何度か(※)、伊是名夏子氏の問題に絡めて、彼女と関わりの深い安積遊歩氏について書かせていただきました。そこでは、彼女らが何が何でも自分たちを健常者と同じに扱えと、無理な注文を続けてきた姿を紹介いたしました。
 ※「障害は個性」を利用する左派の欺瞞
 ※続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞


 70年代に起こった「バス闘争」でも、安積氏の所属していた「青い芝の会」はバス会社側の「介護者を連れに、車椅子を折り畳んで乗ってほしい」という折衷案を一蹴しています。

 また、安積氏がかなり強引な手段を使って電動車椅子やその修理費を得ていたエピソードについてもお伝えしました

 これらから伝わってくるのは「自分も健常者同様、自分の意志で、一人でどこへでも行ける存在になりたい」という血を吐くような思いです(自走する車椅子はまさに健常者同様、一人で街を出歩くことができるようになる魔法のアイテムであり、彼女らの執着も道理ではあります)。
 そしてこれは、「インクルーシブ教育」と同じ構造を持っているように思います。

 先の著者の考えで行けば、上の全盲の少女は盲学校で友だちと仲よくやっているのに、「健常者との共生」が正しいので友だちから引き離し、通常学校へと編入させるためにいかなるコストをも投じよ、となる。

 障害者が通常学校に通いたい(或いはその親が、通わせたいと)思う気持ちは、上の「バス闘争」同様、「普通の人と同じに扱われたい」という情念に支えられているのだと思います。

 それは本当に、心を焦がすような逼迫した感情でしょうが、しかし「健常者と障害者は全く同じ」ではない以上、やはりどこかに欺瞞があるのではないでしょうか。

 安積氏の『車イスからの宣戦布告』(1999年/太郎次郎社)では自分が常に健常者を恋人に選んでいることに対し、自分の中にある差別意識がそうさせていると極めて鋭く自己省察している個所があります(もっともすぐ、「社会が悪いのだ」と居直ってしまうのですが…)。
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自分勝手な正義を押し付けられてはたまらない―
 「インクルーシブ教育」にもそうした側面がないとは、言えないのではないでしょうか。

 そしてそれは、「ある種の欺瞞で、自らのプライドを保とうとする」という点で小山田氏と、どこか似ているように思います。

 もちろん、では障害を持つ者は通常学校に行くべきではないのかと言われると、そんなことを主張したいわけではありません。ただ、「インクルーシブ教育」というものが、「障害者が通常学校に通う」ことを目的化してしまっては、そこには一万分の一でも、小山田氏が犯した過ちと同種の危険性が含まれるのではないか、ということを指摘したいのです。

 もし、めでたく通常学校へと通うようになった障害者のA君がいるとしましょう。或いはその学校のHPの「わが校の理念」のページに載せるために、このA君と他の生徒が仲よくしている写真が撮影されるかもしれません。

 事実、「インクルーシブ教育」で画像検索すると、その種の「車椅子の子と普通の子が共に学んでいる」といったイラストや写真が出てきます。よく見る、一見差別や偏見のない好ましい構図ですが、しかし…障害にも軽重がある以上、その写真やイラストからも排除されている者は必ずいる。それは一体、誰なのでしょうか。

「見栄」が生む悲劇

 冒頭にサブカル勢や左派の行動原理の根っこにはルサンチマンがある、と述べましたが、そのルサンチマンが高じて、「他者志向的」なる傾向が強いのではないでしょうか。つまり、彼らはぼくから見ると、「女にモテるか」「社会的に見て格好いいか」を常に気にしているように感じられます。

 もちろん、誰しも人の目は気になるものだけれども、それが過度になると、ヒエラルキーにこだわり、ついにはいじめを引き起こしてしまう。自分より下の者を作ることで、人に認めてもらおうとするようになってしまうのです。それはすなわち過度な「見栄」が引き起こす弊害ともいえます。

 本稿で取り上げた「インクルーシブ教育」そのものも、うまく行っている分にはいいのですが、「多様性の尊重」「共生」という理念が先行した、どこか「見栄っ張り」の匂いがします。

 だとすれば、小山田氏の一件をきっかけとして「いじめが頻発している」との告発が続いた和光学園も、「インクルーシブな校風」という理想論=「見栄」を掲げ、結果的に問題を引き起こしてしまったのではないでしょうか。また、このような視点から考えれば、同校に左派が多い…という点も納得できます(どちらがニワトリでどちらがタマゴかはわかりませんが)。

  小山田氏のいじめ問題をきっかけとして3回にわたり話が広がりましたが、インクルーシブ教育を行う学校があり、そこは「左」の傾向が強く、小山田氏の事件をきっかけにいじめが多いことも告発されるようになった…というこの一連の流れが、常々お伝えしているLGBT問題や左派&リベラル勢の欺瞞の同根となっていると感じ、筆をとらせていただきました。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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