エレベーターに割り込んで乗るのが「カッコいい」?
彼女は社民党の常任幹事であり、社民はYouTubeで「【緊急配信】誰もが行きたい時に行きたい場所へ~声をあげることの大切さ~」を配信。そこで安積遊歩氏やフェミニストの石川優実氏などと共に自己の正当性を訴えました。
配信内容については松田隆氏が記事『伊是名氏ニッコリ 社民党が援護「暇な人たち」』で述べられている意見がほとんどを言い尽くしており、ぼくからつけ加えることは何もないのですが、ただ、中でも安積氏の発言は強烈でした。
彼女は伊是名氏同様に骨形成不全症の車椅子ユーザーなのですが、その主張は「駅に供えられたエレベーターに長い列ができている時には、割り込んで乗る、自分たちが運動で備えつけさせたものなのだから、当然だ(大意)」というもので、(松田氏も指摘する通り)それはどうなんだと思わざるを得ません。「急いでいるので譲っていただけませんか」と頼めば快く優先させてもらえると思うのですが、(配信で言っていたわけではないのですが、著作を見ると)どうも相手へと頭を下げることに、彼女は強い抵抗を持っているようなのです。
そんな彼女は終始、配信の参加者たちから「格好いい、格好いい」と持ち上げられ、(年長者であり、そうした運動の先輩だからでしょうが)ボスのように振る舞っていました。
障害を「美談」に仕立て上げる構図
『「弱者」とはだれか』(小浜逸郎著:PHP新書)という本があります。1999年に出された、差別問題について考察したものなのですが、ここに安積氏の名前が出てくるのです。
彼女は41歳の時、長女の宇宙(うみ)さんを出産しました。自分と同じ障害を受け継ぐと知った上でです。それについて書かれた新聞や週刊誌記事を上の本から孫引きしてみましょう。
宇宙ちゃんは妊娠中に骨折したらしい跡があった。歩行は難しいかも知れない。「最初から車いすかな。それが彼女の歩き方なんだ」。石丸さん(引用者註・配偶者)はこともなげに言う。
(『朝日新聞』97年5月26日付)
「この子が10代になったころ“なんで私を生んだの?”と思う時期がきっとくるでしょう。そのとき、このひどい世界を変えるために生まれてきたんだよ、といいます。一緒にこの世界を変えてほしい、お母さんを手伝ってほしい、だからあなたが生まれてきてすごくうれしいよ、あなたは勇気ある子なんだよ、と」
(『週刊女性』96年7月30日号)
これら記事について、著者の小浜逸郎氏は「しかし、本人たちだって、こんなに単純な心情に落着したはずはないよ、というのが、私の直感的な印象である。(62p)」と鋭く突っ込み、ここから美談を仕立て上げようとする意志やイデオロギーの匂いを読み取ります。
さらに、同書には他にも近い事例が挙げられています。98年、まさに一世を風靡した乙武洋匡氏の『五体不満足』において書かれた、乙武さんの母親が四肢を欠落させて生まれてきた息子の姿を(その事情を告げられることもないままに初めて)一見して、ただ「可愛い」とだけ口にした、というエピソードです。これについても小浜氏は「同時に悲しみや不安なども感じたであろうに、障害者を同情視してはならないとのイデオロギーを強調するため、そこを切り捨てたとしか思えない(大意・76p)と分析します。
伊是名氏と安積氏は身上のみならず、その思想も近しいことが想像できますが、今回、安積氏の著書をいくつか読み、彼女の思想が乙武氏の書とも極めて近しいことがわかってきました。
先の『朝日新聞』の記事でも安積氏が「障害は個性」というアメリカの運動を知った、という下りがあるのですが、これはまさに乙武氏の言を先取りしています。
つまり、今回の伊是名氏の炎上はそうした90年代に入ってきた価値観を再検証するきっかけとなるのでは、と思えるのです。
小浜氏は『五体不満足』について、共感する点も多々あるものの、障害者問題について「「明るく語る」という戦略に振り回されている(75p)」と指摘しているのですが、これが安積氏にも見事に当てはまっていることが、ここまで見て行くとおわかりになるのではないでしょうか。
「歩く」「歩かない」は大差がない?
『癒しのセクシー・トリップ わたしは車イスの私が好き』によると、彼女は少なくとも小学生時代は、「長くは歩けない(29p)」だけで多少は歩行できたようなのです。彼女は小学校の頃通っていた「施設」――これはどうやら、養護学校のようなところのようです――の痛烈な批判を繰り返します。
ところが安積氏は、本書の副題が何とも象徴的なように、とにもかくにも車椅子を肯定したい、という情念に突き動かされているように思われます。
先にも述べたように彼女は宇宙さんを、先天的な障害を持つことを承知で出産しているのですが、『車イスからの宣戦布告』には何と、宇宙さんに「歩けるようになるかもしれない」手術を受けさせないと主張する下りがあります。
私から見れば、自分の足で「歩く」か「歩かない」かのちがいは、赤い靴を選ぶか青い靴を選ぶかの違いと大差ない。(68p)
というのだから驚きます。この時、宇宙さんは生後3ヶ月だったようで、安積氏は成長した娘さんから「どうして手術してくれなかったの」と言われる可能性を、考えなかったのでしょうか。
或いは、JRを奴隷のように使役する権力を持っている者にとっては、「歩く」「歩かない」は大した差ではないのかもしれません。しかし残念ながら障害者のほとんどは、そうした「姫」のような立場にはいないはずです。
障害をもっているということは、たんに障害のない人とは違うからだをもっているということなのだ。その違いを違いとして認めず、“克服”することばかりが強制される。それも、障害をもつ側にのみ一方的にだ。これは、黒人が白人の肌を範とさせられてきたのとおなじ構造だ。(70p)
とするのですが、それは全然違うのではないでしょうか。
例えば『五体不満足』において乙武氏が「自分の障害は特徴ではなく特長、即ち長所である(大意)」と主張している点について、小浜氏は「それは欺瞞であり、障害はあくまで障害だ(大意)」と批判しているように、本件についても全く同じことが言えましょう。
しかし先の『セクシートリップ』に戻ると、安積氏は父親が娘の障害を自分への「天罰」と捉えたことに対し、以下のように言うのです。
障害は、けっして親にたいするこらしめや天罰なんかじゃない。その子の豊かな個性の発露の一表現であり、親にとっても子にとっても、人生へのただただ心おどるチャレンジなのだ。自分の人生にどれほどチャレンジを与えてくれ、新しい地平を切り拓いてくれることか――もしも父が、わたしの生をそう受けとめてくれていれば、これほどまでの苦しみはなかったかも、と思うことがある。(57-58p)
「障害は個性」という理念
しかし、考えれば今回の伊是名氏の「炎上」もまた、この「障害は個性」式の発想に根拠づけられているのではないでしょうか。
障害はただの個性であり、普通のこと。
仮に健常者の男性がふらりと入った喫茶店に女性用トイレしか設置されていなかったとしたら、腹を立てるであろうことと全く同様に、障害者も何ら事前準備なく、健常者と全く同様に駅を利用できてしかるべきである。何となれば障害は普通のことなのだから、その「普通」の存在が平等に扱われるために、社会は万全の態勢を整えているべきなのだ。
今回の伊是名氏の振る舞いから読み取れる思想はこのようなものです。安積氏も伊是名氏もともかく「当然の権利なのだから、ふんぞり返って行使すべきだ」との理念が先行して、いささか度を越した言動を取ってしまっているのではないでしょうか。
障害者に支持されない「障害は個性」論
そうした理念、さしづめ「障害は個性」主義とでも呼べばいいでしょうか(或いは「ノーマライゼーション」といった表現でいいのかもしれませんが、ぼくには不勉強で判断がつき兼ねるので、ここでは取り敢えずそのように表現します)。
こうした理念の根底を支えているのは、自分が他の人たちと同じ、普通の存在であると信じたいという、身を焦がすような情念でしょう。そんなにも普通が好きなのであれば障害を取り除くことで普通に近づけばいいのに…と思うのですが、それが必ずしも適う者ばかりではない。そうした時、「いや、しかし私はこの障害を抱えたままでも普通の人間として扱われるべきなのだ」との心理が暴走してしまい、非現実的な主張につながってしまうのではないでしょうか。
しかし社民党はJRに謝罪を要求する声明を出すなど、あくまで伊是名氏全面擁護の構えです(JR東日本側も公式でないとはいえ、ネットニュースの取材に答え、謝罪してしまいました……)。
つまり、「障害は個性」主義は必ずしも、障害者一般の支持を受けているわけではないのです。これはBLMが黒人運動ではなくただの左派によるテロであること、フェミニズムが女性のための思想ではなく左派の利権と化しつつあることと「完全に一致」しているのではないでしょうか。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。