「ノンバイナリー」とは?
何でもインスタグラムのライブ配信で部屋の背景に映るクマのぬいぐるみを指し、「私の親友を紹介します。名前はクマちゃん、彼は男の子でゲイなんです」という言葉に続け、「私はノンバイナリー。ハッピープライドマンス!」と語ったということです。要するに当月がLGBTの「プライド月間」だったことをきっかけにした発言だったようです。
はて、しかし「ノンバイナリー」とは何でしょう。
大慌てでググってみると、フリーライター、鎌田和歌氏の記事に行き当たりました。『DIAMOND online』の『宇多田ヒカルの「ノンバイナリー」告白って何?今さら聞けない新語の正体』がそれです。
おぉ、冒頭から鎌田氏自身が率直に自分の恥を語ってくださるとは心強い。
先を続けましょう。
≪性自認や性指向といった言葉の意味は理解していても、具体的な事実や当事者の視点にまったく無知だったことにそのとき思い当たったのだ。
当事者にとっては毎日の現実なので向き合わざるを得ないが、当事者でない者にとっては興味、関心を持たなくても生きていけてしまう。無知なままで困ることがない。それがマジョリティーということなのだろう。≫
≪筆者の世界の捉え方が以前と変わったように、この10年でセクシャリティーに関する知識が増えたという人は多くいるだろう。価値観が変わることを面倒だと思わずに、知っていかなければならないと考えている。≫
「恥ずかしい話の告白」といった言葉に油断して読んでみれば、この記事には全体的に「私は今までマジョリティーとしての傲岸不遜な無神経さの中にあったが、当事者に触れ、真実を知ることができました」といった懺悔でもしているような感覚が横溢しています。そもそもが、表題に掲げられた「今さら聞けない」がそんな感じです。読んでいるだけで、何だかこちらが悪いことをしたような気分になってしまいます。
≪性自認が男性でも女性でもなく、どちらかの枠組みに自分を当てはめないことを意味する≫
のだそうです。
LGBTQ●●●●…増殖する"属性"
となると「ノンバイナリ―」は「Q」と同じようにも思えるのですが、この種の用語は近年増える一方で、きっと細かい差異があるのでしょう。
実際、「LGBTQ+」との表記が普及する前は「LGBTTQQIAAP」とか「LGBTTQQFAGPBDSM」とか言われていた時期もあり、もう何が何だかわかりません。ともあれ「私はマイノリティーだ」と称する人々が我先に名乗りを上げ、「さあ、私を理解しろ、理解しろ」と口々に叫び、こちらへと迫っているかのようです。
ここしばらく何度か、ある種の障害者運動に潜む問題点について述べさせていただきました。伊是名夏子さんやその関係者たちの運動や言動からは、「お前たちマジョリティーはマイノリティーを差別し続けてきたのだ、それを自覚すると共に、こちらへと奉仕する義務があることを知れ」とでも言わんばかりのマイノリティーの傲慢さが垣間見えるということもお伝えしております。
自分の「性」を否定したくなるワケ
第一に、オタク女子についての「あるある」でよく言われる、彼女らが「バイセクシャル」や「トランス」を自称したがる傾向です。
例えば、中高生など若い腐女子のツイッターアカウントのプロフィールを見てみると、しばしば「生物学的には女性」とか「心にペニスがある」などと書かれている。しかし、いざツイートなり描かれた漫画なりを見ると、いかにも女性らしい、といったものです。
もちろん、腐女子のプロフィールが必ずこうだというわけではないのですが、やはり(男性オタクがある程度そうであるように)女性オタクには自分自身の女らしさに屈折、こじらせを持った人も多い。そうしたことから、彼女らは自身の女性性から逃避するためにBL、即ち美少年同士が恋愛する漫画などに没頭するのだし、ことに若い人はそうした悩みを抱えがちであるがため、「精神的には男なのだ」などといった自己イメージで自分を守ろうとする人も多い、ということです。
世間でいう「モテる」タイプではなく、いわゆる「女子力」に欠ける女子が学級内でのある種のサバイバル術として、自分には「霊感」があるのだと自称する。
伊集院光さんの深夜ラジオではよくこのネタが話題に上ります。実際に子供の頃、上級生に「霊感がある」おだてられて真に受け、「霊感少女」としてみんなの耳目を集めるようになったという経験談の投書も読まれたことがあります。
と言っても、その「霊感」が本物なのかどうかは、本人以外にはわかりません。自己申告がそのまま通ってしまうのです。
それは「トランス」もそうだし、「ノンバイナリー」となるといよいよ曖昧になるのではないでしょうか(女らしく振舞おうが男らしく振舞おうが、「今日はそういう気分だから」で通ってしまうのですから)。
突然フェミニストに転向する女性たち
例えば石川優実さんは元モデル、小島慶子さんは女子アナですが、今はフェミニストに転向し、著作などもある人物です。アニソン歌手の橋本潮さんもそうで、『ドラゴンボール』のエンディングなどを歌っていた方なのですが、今やツイッターでは男性に暴言を吐くようになり、個人的にも寂しい思いをしています(ちょっとツイッターアカウントを覗いたら、ブロックされておりました。この方とかかわった記憶が全くないのですが…)。
彼女らには多かれ少なかれ、その「女性面」を効果的に使い、現在の立場にのし上がってきたという面が確実にあります(当たり前ですが、それ自体は全く正当なことです)。にもかかわらず、いざある程度の年齢を過ぎるとフェミニストになってしまった。それはいささかずるいのではないか、との印象を持ちます。
石川さんは、肉体を誇示するセクシーグラビアなどを主な活動の場所にしていました。となると、加齢と共に価値はどうしても下がってしまう。そこへ「そうした仕事は女性に対する性的搾取」などといった論法を持ち出されると、ついすがりたくなってしまうのでしょう。
おそらく、本人の主観では、周囲からちやほやされた若い頃と扱いが違ってきたこと自体が、「差別」であると感じられているのではないでしょうか。
女性を混乱させるフェミのヘンな理屈
しかし、先にも述べたように宇多田さんは一児の母で、アラフォー。一昔前ならばとっくに落ち着いて、「母」としての役割を引き受けている年齢です。
ところがフェミニズム後の世界では、「母」、特に「主婦」となることは、それが本人の希望であっても、社会構造上の女性差別だ、と主張されるようになり、同時に女性を「美」で評価すること(様々なミスコンなど)も差別だとして叩いています。ところがその一方で、女性誌などのマスコミは「美魔女」などのワードを作ったり、女性がいつまでも若い女性のままでいるべきかのように煽り続けているのです。これでは自らの「女性性」に混乱を来すのも、無理のない話なのではないでしょうか。
宇多田さんの場合もまた、それなのではないか…という気がしないでもありません。ぬいぐるみのクマさんがゲイだとか、また「“ミス”“ミセス”“ミズ”」といった敬称を嫌い、自分のことを「Mys.Utada(“Mystery”Utada)」と呼んで欲しいと言っていたとも伝えられていて、忌憚のない感想を言わせていただければ、いわゆる「中二病」的なのではとの印象を持ちました。
性自認がもたらす危険
しかし、こうした「あり方」を、冒頭でご紹介したライターさんのように「何やら新しく、素晴らしいもの」であるかのように語るのは、いかがなものでしょうか。
だって宇多田さんは自分が女か男かわからないのですから、この夏より、市民プールを利用する時は(…あ、セレブだから市民プールなんか行かないんでしょうか)女子更衣室の利用ができなくなるんじゃないでしょうか。もちろん、公衆の女子トイレについても同じです。
しかし、それが許されるというのであれば、むさ苦しいおっさんが「精神的には女性なのだから」と女性用施設を使用することを無制限に許容すべきです。少なくとも「トランス女性」は一定して女性であるはずなのだから、むしろそちらの方が女性用を利用する「権利」を有しているでしょう。
もちろん、「だから宇多田さんもまた、ウソをついているのだ」とは言いません(また、上記の「変質者」もまた、「トランスを詐称した」のか、「トランスの変質者だった」のかは、最終的には当人にしかわからないことでしょう)。
しかしいずれにせよ自己申告がそのまま通るということは、やはり「偽者が紛れ込む」可能性という問題を抱えていることは、認めざるを得ません。
また、仮に偽物と本物を精度高く判別する方法が確立したとしても、上に挙げたようなむさ苦しいおっさんが「トランス女性」と診断された時、世の女性はそのおっさんを女子更衣室に、女子トイレに迎え入れる気持ちになれるでしょうか。
世界を挙げて議論を巻き起こしているこの「性別」問題、次回は上のニュースを中心に、もう少々考えてみたいと思います。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。