兵頭新児:「オープンレター」問題とは何だったのか~フェ...

兵頭新児:「オープンレター」問題とは何だったのか~フェミニズム=「強権体質」の象徴的事象か

「キャンセル」される批判

 ロシアのウクライナ侵攻、安倍首相の暗殺……世界を揺るがす規模の事件が続いており、世間の「LGBT熱」も少々冷めている今日この頃と感ぜられますが、いえ、決してそんなことはありません。

《フェミな人たち》の地道な啓蒙活動(?)は変わらず活発に続いており、それがまた「キャンセルカルチャー」と結びついて無視できない事態になっている、という話を今回はお伝えさせていただきます。

 本年の春先、歴史家の呉座勇一氏を批判する色彩の濃い「オープンレター 女性差別的な文化を脱するために」の管理のあまりの杜撰(ずさん)さ、また呉座氏の発言が社会的地位を失わねばならぬほどにけしからぬものとは考えにくいことなどについて、お伝えしてきました。
※呉座氏の件についての詳細は上記記事2点をご確認ください。

 つい先日(9月19日)も日本の歴史科学協議会の会誌『歴史評論』において、本件について呉座氏を批判する論文が掲載されました。ところが呉座氏は本件における日文研の措置を不服として提起中であるにもかかわらず、先の論文にはそれについての記述がなかったと言います。

 呉座氏はこれを懲戒処分が確定したかのように記した、誤解を招来かねない記述だとして目下、公開質問状をアップしています

 フェミニストたちの呉座氏への攻撃は、現在も続いているのです。

 しかし、いま振り返ってみて何より不気味であるのは、呉座氏が批判の対象としていたイギリス文学者・北村紗衣氏に批判的な言説が次々にキャンセルされている点です。

 本件は元はといえば、ツイッター上での呉座氏の発言が原因です。しかし呉座氏の発言を採り挙げたものを初めとするtogetterのまとめは、なぜか次々と非公開にされているのです。

【呉座勇一・北村紗衣両氏関連のtogetterが最近、多数非公開になった】という事実のみの記録まとめ集」にある、消されたまとめ一覧を引用してみましょう(ただし、併記されているURLはカットしております)

《現在分かっている、非公開まとめ一覧》

★呉座勇一先生による「女性」や「他者」への発言・批判集
★呉座勇一先生、長きにわたる北村紗衣先生への陰口が続々発掘され、謝罪
★呉座勇一氏や北村紗衣氏などに関するまとめが一斉に削除される

「自分の「男性皆殺し協会」記事が掘り返され、反転キャンセルされることを感じ取ったのか、武蔵大男子学生のインタビュー記事も削除させましたからね。」

「男性皆殺し協会」について再度議論される~一方で関連のHPやまとめ、次々閲覧不可能に。


 後半にある「男性皆殺し協会」の詳細については 以前の記事をご覧いただきたいのですが、一言でいうとアメリカの過激なフェミニストが設立しようとした団体です。北村氏はそのマニフェストの翻訳をブログに載せ、ツイッターでも「男性が見たらビビるだろう、楽しいな」などとはしゃいでいらっしゃいました。「MGTOWニュース」などでもこの件が採り挙げられていたのですが、ほどなくしてこの記事のみならず、サイトそのものが消滅してしまったのです(※)。

 呉座氏自身のブログも目下、記事の多くが閲覧不可となっており、様々な事実関係が確認しづらい状況になっております。


※) 記事そのものは今も魚拓で見ることができます。
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あいも変わらず「LGBT勢に不都合な言論」のシャットアウトは続く―

「オープン」に語らせない

 また、呉座氏がネット番組「ゲンロンカフェ」に出演した際に述べていたのは、出演に先駆け北村氏側の弁護士から番組内で北村氏を「直接的・間接的に誹謗中傷を行うことのないよう(暗喩的に誹謗中傷することも含みます)」にしてくれとの圧力があったという点です。番組は「歴史修正と実証主義」というタイトルで、北村氏と関連性があるとは思えないのですが、與那覇潤氏、辻田真佐憲氏といった本件で呉座氏に共感的だった人たちが共演者だったため、警戒されたのでしょう。しかし「暗喩的に」と言われては、あまりにも解釈の幅が広がりすぎますし、弁護士を介するというのは穏やかではありません。

 しかしこの件についても、書かれた記事は削除されてしまいました。やはりtogetterで呉座氏の記事について反応したツイートのまとめが作られているがため、そのことが窺い知れるだけです。

 圧力はこれに留まらず、弁護士の高橋雄一郎氏にも北村氏側の弁護士からオープンレターに言及しないでくれとの旨の書面が送られてきています。高橋氏はかねてよりオープンレターに批判的な発言を繰り返していたので、それを止めさせたかったのでしょうが、だからといって氏の発言に制限をかけることに法的根拠があるとはとても思えず、またそれを(素人相手にただ恫喝を意図するならともかく、法知識に長けているはずの)同じ弁護士に要求するというのがどうにもよくわかりません。

 さらには、大学講師の雁琳(がんりん)氏にも同様に弁護士から北村氏への批判を止めろという旨の内容証明郵便を、何と勤務先に届けられたといいます(これは弁護士がやったら懲戒になりかねない、非常識な振る舞いだそうです)。

 左派の人たちは「裁判」が好きだという印象がありますが、それにしてもこうして弁護士の名を振りかざして相手を黙らせようとする様には、まさに「言論封殺」というような恐怖を感じます。

 ぼくも以前、近しい経験をしたことがあります。「お前の発言はフェミニストの○○氏を貶めている、削除しろ、さもなくば訴える」と弁護士さんから内容証明を頂戴したことがありました。どう考えてもこちらは事実を述べただけなので、スルーしたらそれきりでしたが……。

 いずれにせよ、こうした振る舞いが繰り返されるに及び、「オープンレター」については、その名とは全く逆に「オープン」に語ってはならぬとはどういうことか、といった批判がなされることになったのです。
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兵頭新児:「オープンレター」問題とは何だったのか~フェミニズム=「強権体質」の象徴的事象か

「オープン」を名乗るなら、反論も「オープン」であるべきであろう―

本質は"言論統制"

 以前の記事でもご紹介しましたが、同オープンレターの声明文には「中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます」、「中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうる」といった文言が並んでいます。

 ここに至ってはもう、同オープンレターの本質が呉座氏本人のキャンセルのみならず、「言論統制」そのものであることは論を待たないでしょう。

 しかしジェンダーフリーなどを考えればわかるように、そもそもフェミニズム自体が「人間の内心への統制」そのものでしか、最初からなかったのです。

 本件において実に幾度も繰り返された、「ミソジニー」(女性に対する嫌悪や蔑視の事を指す用語)というワードにしてもそうです。15年ほど前でしょうか、この言葉が人口に膾炙し始めた頃、ぼくは心底呆れました。

 先の記事でも書いたように、「女性差別」は撤廃すべきであっても、個人の「女嫌い」にまで立ち入るのは行き過ぎです。「ヘイト」という言葉もそうですが、人間の感情に立ち入ることは誰にもできないし、またすべきではないのですから。

セクハラは「性差別」

 ところが「フェミニズム」という名の「真理」に照らすと、「それは矯正すべきだ」となるのです。大阪大学大学院教授であり、NPO法人ウィメンズアクションネットワークの元・理事長のフェミニスト、牟田和恵氏の著作、『実践するフェミニズム』にはこんな下りがあります。

それは公道における痴漢や性暴力も同じで、例えば警察や行政機関は、明るい街灯をつけて予防する責務があるとは言えても、県道で起こったレイプや痴漢の責任が県にあるとはとても言えない。(31p)》

 どういうことか、おわかりでしょうか。街頭で性犯罪が起こっても、(現状は)行政機関に責を負わせることができない(からおかしい)と言っているのです。そんな当たり前としか思えないことが、牟田氏にかかっては「一刻も早く改善すべき、あまりにも不当な現状」となってしまいます。

予防や救済という点でも、加害者本人以外に責任主体を設定しうることは大事な鍵になる。(32p)》

 何が何だかさっぱりわかりません。しかし読み進めると、牟田氏はこんなことを言い出すのです。

アメリカの場合とは違って、日本におけるセクハラ裁判は、「性差別」にあたるかどうかが直接に問われてきたのではない。(52p)》
マッキノンが詳述しているように、セクハラを不法行為法で裁くことは、加害者個人の言動にのみ焦点をあてて問題を個人レベルにとどめることになり、事柄の本質が性差別であることを曖昧にする(マッキノン、1999年、266-7頁)。(55-56p)》

 最後の引用の文末の()内は元の本の引用元を示した部分ですが、要するにマッキノンという過激なフェミニストに倣い、セクハラはその行為だけでなく、「性差別であることそのもの」を裁くべきである、と言っているのです。
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兵頭新児:「オープンレター」問題とは何だったのか~フェミニズム=「強権体質」の象徴的事象か

セクハラは「犯罪」であったとしても、果たして「性差別」なのか?

女性差別は男性全員の連帯責任である

 いずれにせよ裁判所は差別について云々する場ではありませんし、警察は差別を取り締まる機関ではないのですから、こんなことを言われても困るでしょうが、こうした考えを前提すると、オープンレターの意図するところもわかりやすくなります。もう一度、呉座氏の件の際にオープンレターが発した声明文を見てみることにしましょう。

呉座氏の発言の中には、単なる「独り言」としてではなく、フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」の中で産出されたものが多くありました。(中略)つまりその「遊び」の文化は、中傷や差別的発言をいわば公衆の面前でおこなわせてしまうものであり、そのことが今回の問題の背景にあると私たちは考えます。》

 本件について、批判者は「大勢で呉座氏を攻撃している」としました。もちろん、その指摘は全く正しいものですが、オープンレター側の人間は「そうではない」と頑として認めませんでした。

 しかし、その言い分もわかるのです。呉座氏への攻撃意図がなかったとは言えないでしょうが、上の文言を見ても、むしろ「男たちがつるんで女性を差別している」という、「ホモソーシャル」な世界観をこそ、彼女らは想定していると思われるのです。

「女性差別」はまず、男性全員の連帯責任である。この国の絶望的なまでの「男性中心主義」こそが悪いのであり、個人の問題ではないのだから、男たちが全員で総力を上げ、この根源的に間違った社会を全てつくり替える義務を一方的に負っている。

 それが、オープンレターの発信したメッセージであったのです。

フェミニズムの目的は「男性皆殺し」

 前述の牟田氏の著書がポルノを全否定していることからも察せられるように、いえ、そもそもジェンダーフリーを考えればわかるように、フェミニズムの目的は男性のメンタリティの根源的、全面的な改造でした(あるいは「男性皆殺し」でしょうか)。

 しかし、そうなると男性が女性の肉体性に惹かれるという性欲の形も全く違ったものに変わるはずだし、人間が築き上げてきた文化は全て根本から失われ、全く別なものになるとしか考えようがありません。フェミニストが具体的な青写真を提示したことが(ぼくの知る限り)ないので、そうした新世界の姿は一体どんなものなのか、見当もつかないのですが。

 呉座氏のブログの(これも)削除された記事の中には、「ジェンダー・フェミニズムに関するカウンセリングを受けて」いると語られています。ぼくも気になって呉座氏にリプライしたのですが、お返事はいただけませんでした。

 この「差別者」にカウンセリングを施すというおぞましい処置は、欧米ではすでになされていることも、以前お伝えしました

 正直このカウンセリングがどのようなものか、ぼくにもわかりませんが、少なくとも現時点では「フェミニズムの授業を受けさせる」といった程度の他愛ないものかと思われます。しかし、現実問題としてフェミニズムは呉座氏の口を封じることに成功した……ということではないでしょうか。

 もっとも冒頭にお伝えしたように、呉座氏は日文研を提訴中であり、その結果次第で逆転もあり得ましょう。

 呉座氏の名誉の回復と共に、同オープンレターの危険性が周知されることを、願ってやみません。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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