大高未貴:樺太アイヌ 強制移住のウソ

大高未貴:樺太アイヌ 強制移住のウソ

もう一つの歴史戦

 慰安婦問題の欺瞞(ぎまん)を、1次資料をもとに解説した『赤い水曜日』の著者、韓国の国史教科書研究所所長の金柄憲氏は「慰安婦問題は国際詐欺劇」と断罪している。史実や慰安婦証言の信憑性の検証もおざなりに、日本政府が何度も謝罪を繰り返した結果、現在進行形でドイツなどに慰安婦像が建てられ続けているのだ。

 徴用工問題も、いわゆる“徴用工”と呼ばれる人々は朝鮮半島から志願してやってきたにもかかわらず、“強制連行された”として訴訟が起こされ、9月末には韓国の地裁が、差し押さえられた三菱重工業の資産を売却するよう命じるなど事態は深刻の度を増している。 
 2015年、日本の外務省の佐藤地ユネスコ大使は、ユネスコ世界遺産委員会において「(端島など、一部の産業施設で)過去1940年代に韓国人などが“自分の意思に反して(against their will)”動員され、“強制的に労働(forced to work)”させられたことがあった」と発言し、河野洋平氏同様、韓国や反日活動家たちに言質(げんち)を取られてしまった。

 日本と朝鮮半島・中国における過去の歴史問題において、一番大事な論点が“強制”という文言だ。朝日新聞が“強制性”などといった広義の解釈を入れてから、問題は悪化の一途をたどっている。
 在サハリン韓国人問題、慰安婦問題、徴用工問題に次いで、いわゆる活動家らが用意しているとみられる戦後補償の1つが、“エンチュウ(樺太アイヌ)強制移住問題”だ。

 それまで日本は単一民族国家だったが、2008年、アイヌを先住民と日本政府が認めてしまった結果、アイヌには莫大な予算が拠出されている。
 たとえばアイヌに関しての五輪関連拠出が17億円、白老(しらおい)のアイヌ文化復興の国立施設「ウポポイ」の建設費に約200億円、予定来場者に満たない分は税金で補塡している。
 内閣府のアイヌ施策推進室に問い合わせたところ、北海道国土交通省の対応だった。文科省なども拠出しており、一体トータルでいくら拠出しているのか把握していないという杜撰(ずさん)さだ。あまりにも不可解なバラマキについてたびたび指摘されているので、予算もあえてマスコミにつつかれないように複雑な措置を講じているとしか思えない。

書き換えたのは誰か

 ともあれ、樺太アイヌ強制移住プロパガンダの背景に迫りたい。
 きっかけは北海道元道議会議員の小野寺まさる氏がチャンネル桜北海道で「稚内市樺太記念館」の年表にシールが貼られていたと指摘したことによる。「移住」から「強制移住」と、史実と異なることが上書きされていたのだ。ほかにも「樺太アイヌ強制移住」について朝日新聞が旗振り役を務め報道していることを知り、妙な胸騒ぎを覚え、稚内に飛んだ。

 史実から言えば、明治8年(1875)の樺太・千島交換条約によって、樺太アイヌは日露どちらかへの帰属を自らの意思で決定せねばならなくなり、樺太アイヌは日本国民になるか、ロシア国民になるかを自由意思で選択した結果、樺太アイヌは日本国民になることを望んで宗谷に来たのだ。

 そのことは樺太・千島交換条約第4条にも記されている。
《樺太島及クリル島に在る土人は現に住する所の地に永住し且其儘現領主の臣民たるの権なし故に若し其自己の政府の臣民足らんことを欲すれば其居住の地を去り其領主に属する土地に赴くべし。又其儘在来し地に永住を願はば其の籍を改むべし。各政府は土人去就決心の為め此条約附録を右土人に達する日より三カ年の猶予を与へ置くべし》
 つまり、日本政府が権力を行使して樺太アイヌの人々を無理矢理移住させたわけではなく、ロシア国民になれば、彼らはそのまま樺太の地に残ることができたのだ。

 では、本人の意思がいつの間に、それに反して“強制”になったのか。
 結論から述べれば、「本人の意思」で日本を選択し、日本にやってきたのなら何の補償も得られない。ところが、“強制移住”させられたと偽れば、補償金が発生する可能性もある。その証拠に《アイヌ有識者懇 補償・教育 要望相次ぐ》《サハリンから道内に強制的に移住させられた樺太アイヌの子孫の田澤守さん(樺太アイヌ協会会長)は強制移住の謝罪と補償を求めた》(北海道新聞/2008年10月14日付)という記事や、《アイヌ民族の権利保障を市民団体が冊子政策提言へ》と題した記事(朝日新聞/2018年4月21日付)で、田澤氏の「少数者に寄り添った政策を進めて欲しい」というコメントも報じられている。

 では、一体誰が歴史を書き換えたのか。『アイヌ先住民族、その不都合な真実20』(展転社)の著者・的場光昭氏はこう断言する。
「樺太アイヌの強制連行というか強制移住というのを最初に言い出したのは、恵泉女学園大学の教授・上村英明氏です。彼はアイヌと琉球の人々を先住民族だといって国連を舞台にロビー活動している市民外交センター共同代表です。琉球(沖縄)、アイヌモシリ(北海道)の独立、つまり国家分断工作ですよ。先住民として認めさせるために、三つの強制移住をでっち上げました。一つは樺太アイヌの強制移住。それからアイヌの子どもたちの親からの引き離しと東京への強制移住。そしてもうひとつが千島アイヌの色丹島への強制移住。これらはいずれも噓、でっち上げです」

 一方、水面下でアイヌ政策に不都合な真実は、行政が廃棄処分していたことも発覚した。
的場「私は1次資料を古本などで収集しています。たとえば『蝦夷風俗彙纂』前編後編とありますが、実はこれ、北海道虻田町の図書館で廃棄処分されていたものです。本の後ろに廃棄のスタンプが押してありますでしょ?
 この本は今、アイヌの歴史を捏造している連中にとって不都合な真実がたくさん書かれています。要するに、明治15年(1882)にこの開拓使がアイヌに対して、どういう政策が必要かということで、アイヌの実態を知るために江戸期のアイヌ文献をたくさん抜粋しています。こういう貴重なものが破棄処分になっているんですよ」
「稚内市樺太記念館」の年表

「稚内市樺太記念館」の年表

「強制移住」というシールが貼られていることがわかる

樺太記念館の見解

 樺太アイヌ強制移住のでっち上げとは、どういうものだったのか。
「稚内市樺太記念館」の年表記述問題について、担当の稚内市教育委員会教育部長・S氏に記念館で取材に応じていただく予定だったが、口頭だと言葉に間違いがあってもいけないということで、書面にて質問のやりとりをさせていただくことになった。 
 その質問状の一部を紹介しよう。

《【年表の表記について】
〈「一八七五年8月 樺太アイヌ八四一人、宗谷に強制移住となる」
「一八七六年9月 宗谷の樺太アイヌ、小樽を経て江別の対雁に強制移住」
 とありますが、当初、「強制」という文言はなく「移住」でした。
 ①記述がシールで変更されたのはいつ頃ですか? それはどなたの判断で行われたのでしょうか? その際、有識者の意見はヒアリングされたのでしょうか?
 ②樺太アイヌが「強制移住」させられたとするのは正しい史実でしょうか? 根拠があれば教えていただけますでしょうか?
 ③移住=「自主的」、強制移住=「本人の意思に反して」→書き換えは百八十度違う意味になります。
 樺太アイヌは強制移住させられたと主張されるのであれば、北海道に住んでいた先人が樺太アイヌの方々を差別し、非人道的な対応をしたという話になりますが、市が運営する施設として、それを是とするのでしょうか?
 ④古い文献には樺太アイヌの意思で北海道にわたってきたという記述も散見されます。大事な一次資料の記述を反転させた記述となりますが、稚内市は今後も〝強制移住〟の記述のままにしておくのでしょうか? それとも一次資料に基づいて、以前の記述に戻す予定はあるでしょうか?》


 これに対して、どのような経緯で誰が書き換えを命じたのか、などといった質問に対する回答はなかった。ただ、独自調査によれば約2年前にシールが貼られたという。
 先方からの回答で肝心な部分を挙げるとすれば、
「『千島・樺太交換条約締結により、アイヌの人々のあずかり得ないところで移住を余儀なくされた』故に『本人の意に反したもの』」
 つまり、“強制移住”だったというわけだ。

 これに関して私は、10月2日に再質問状を送った。その要点を記したい。
 樺太記念館は「強制移住」について、「(樺太アイヌは)本人の意思に反して、あずかり得ないところで移住を余儀なくされた」からと強弁しているが、この論旨で言えば、ロシアを選択した樺太アイヌも“ロシアに強制移住”ということになるが、果たしてロシア政府がそれを公式に認めるだろうか。

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あずかり得ないところ

 また、いくつかの古い文献にあった記述も、S教育部長に紹介した。
 その一つが、昭和11年(1936)に発刊された北海道庁編纂『新撰北海道史』である。
《明治八年、樺太、千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み、開拓使は之を石狩川沿岸の対雁に置いて、農業教授所、漁場等を与え篤く之を保護することとした》
 とある。

 ほかには、西鶴定嘉氏の『樺太アイヌ』(1974年)で、
《復帰土人とは、明治八年九月千島・樺太交換後、我が統治を希望する土人八百四人を(札幌郡)対雁に移したのだが、樺太南方が復び邦領に回復せらるるに及んで故郷に復帰した土人をいう
 という一文を紹介した。

 皮肉なことに西鶴氏の本は「稚内市樺太記念館」の資料室に置かれていたものだ。さらに、日本政府が樺太アイヌを保護し、優遇をはかっていた事例も出し、
《日本政府にとって樺太アイヌの受け入れは、財政的負担が大きく、日本政府が強制的に樺太アイヌに日本移住を選択させる合理的な理由が見当たりません。それでも樺太記念館側が〝強制移住だった〟と判断されるならば、納得し得る根拠をお示しください》
 と問いかけた。さらに昨今の歴史戦についても触れ、トータルな回答を切望した。

 ところが、残念なことにS教育部長からの2回目の回答も「あずかり得ないところ」を繰り返しただけの、初回とは変わらない趣旨だった。
 まともにとり合ってもらえないことが伝わってきて、サジを投げたくもなったが、この問題は私的なものではなく、日本の未来を担う子供たちにかかわる問題である。
 この先どう教育すべきか、政治的な利害関係を含む大人の都合で改竄(かいざん)された北海道の歴史を、子供たちに伝えていくことが許されるのか。教育委員会も真摯に考え、答えを出してほしいと切に願い、3度目の質問状を送った。

2冊の本

 S教育部長の2回目の回答において、気になる点があった。
“強制移住”の論拠として、『稚内百年史』(1978年発行)と『対雁(ついしかり)の碑(いしぶみ)』(樺太アイヌ史研究会編/1992年発行)の2冊を挙げていたのだ。そこで早速、目を通したのだが、啞然とした。これらの本は「強制移住」が虚偽だということを間接的に証明するものだったからだ。

 まず『稚内百年史』だが、
《一八七五年、樺太・千島交換条約にもとづいて、日本移住を求める樺太アイヌ八百四十一人が北海道に移住することになって》
 とあった。
 確かに宗谷から対雁には「強制移住」と表記されているが、この件については、的場氏が“強制移住ではない”と一次資料をもとに丁寧な分析に基づいて断言しているので、誌面の都合上、詳しい説明は省略する。

 次に『対雁の碑』だ。執筆者は石井清治氏、田崎勇氏、豊川重雄氏。1971年、北海道ウタリ協会石狩支部結成大会で議長を務めたのが豊川氏。その後、クリスチャンセンターで再開された大会の議長が石井氏だとある。この本の正直な感想を述べれば、学術研究の成果物というより、いわゆる活動家の主張が綴られたものと言っても過言ではなかろう。にもかかわらず、教育委員会がこのような記述内容に問題のある書籍を、年表記述の書き換えの根拠にしていることに驚きを禁じ得ない。

 実は、その点について著者たちも自認しているのだ。
《明治初期に行われた“樺太アイヌ強制移住”という暴挙を、専門家ではない我々が調査を続け、一冊の本にまとめたかった真意はここにある》
 そして、
《近年、日本政府は先の大戦の戦争責任を様々な方面から追及され、その責任を果たさざるを得なくなってきた。中国や樺太残留者の事、朝鮮・韓国から強制連行した人たちの事、従軍慰安婦の事、等々日本政府が果たさなければならない責任は大きい。そういう責任を追及していく中で、領土問題でこれほどまでに翻弄させられた樺太アイヌに対する日本政府の責任は回避できないことである》
 などと、著者らが歴史戦の延長線上に“樺太アイヌ強制移住”という文言を強引に仕込んだことが見て取れなくもない。ちなみに『対雁の碑』が出版された前年の91年には、朝日新聞の慰安婦報道大キャンペーンが始まっている。

資料が示す事実

 ともあれ『対雁の碑』の冒頭から“強制移住”でないことが明白にわかる記述がある。
 1979年(昭和54)11月11日に対雁で行われた第1回樺太移住殉難者慰霊墓前祭の実行委員会の河村三郎代表の挨拶を紹介しているのだが、「明治8年に日ロの間で締結された樺太千島交換条約によって、865名の樺太人がこの対雁の地に移住し開拓にあたりました(略)」とある。
 つまり河村氏は“強制移住”などとは言っていないのだ。

 また同書には、ご丁寧にも“強制移住”でないことが一目瞭然の資料も紹介されている。
 たとえば、1875年の樺太・千島交換条約の際、
《此時政府に於いては樺太土人を伴うべからずと内訓せしも、長谷部・堀両判官は成るべく之を伴はんと欲し、土人中にも是非移住を望むものあり、寄って八百四十一名伴侶来れり》(犀川会資料/332頁)
 とある。
 つまり、樺太人、自ら移住を望んだことが明記されている。

 ところが、史実を歪曲するかのような曖昧模糊(あいまいもこ)とした解釈が続く。
《維新から日も浅く、政府としては多くの国費を要することはなるべく避けたいという気であったろうから、アイヌの移住を好まない事情もあったとは考えられるが、現地にあたっては長い間の両者の関係から、アイヌが移住を望んだのか、あるいは現地の役人が奨めたのか、その間微妙なものがあったと思われる》
 他にもこんな事例が紹介されている。「日本人と一緒に北海道に行きたいと云った(樺太アイヌ)」に対し、時の明治政府、黒田清隆開拓使長官の言葉はこうであった。
《然らば、来ようと思ふものは連れて来よう。イヤだといふものは其儘に置かう》(『あいぬ物語』山辺安之助)
 また、『北海道殖民状況報文』の《従来該当ノ土人ニシテ我皇化ヲ慕ヒ我国管轄ノ民タランコトヲ請ヒ其郷地オ望見シ得ラルベキ地方ヘ移住センコトヲ願フ者ノミ其願ヲ許シ》といった記述も紹介している。
 つまり、当時の政府は、強制移住どころか樺太アイヌの移住を推奨していなかったことが明白である。

 ところが、著者らは《これらの資料・文献で見る限りではピウスツキーや高倉新一郎の『日本人に誘われて』とする以外は、アイヌの希望による移住のように書かれている》などと、“アイヌの希望”をそうでなかったかのように誘導するため“窮迫した移転”だの、憶測を書き連ねているが、いずれも政府による“強制移住”を立証できてはいない。

アイヌ共和国?

 このような文脈で、白を黒に塗り替えるべく捻り出された詭弁(きべん)が、
《樺太アイヌの人たちのまったくあずかり知らぬところでふたつの国家による「国境」画定によって、彼らは永い間住み慣れた故郷を捨て日本へ移住する者、ロシア流刑植民との紛争、流刑囚徒や兵士の暴行迫害にあいながらもなお故郷を捨てがたく樺太に残る者(略)》
 という記述である。
 まさにこの詭弁こそ、S教育部長からの2回に及ぶ回答と同じであったことは失笑せざるを得ない。

 著者は「あずかり知らぬ」、その根拠を示していない。示すことができないので、日露双方の取り決めにアイヌが口出しできず、本人の意思に反して「強制移住」させられたと拡大解釈したのだ。慰安婦問題にしても「強制連行」の証拠が出ないので、「本人の意思に反して」と問題点をすり替えられたが、それと同じ構図である。
 1次資料たり得る数々の文献からも、樺太アイヌの北海道への移住が自由意思によるものであったことは疑うべくもない事実であり、「樺太アイヌの人たちのまったくあずかり知らぬところ」などという実に乱暴な理由付けに、一体だれが「はい、そうですか」と首を縦に振るだろうか。

 その詭弁の証拠に『対雁の碑』の著者らはこんな言い訳を入れている。
《しかし何と言っても、資料の不足から推測、推察にとどまることが多く、はっきりと結論づけることができない部分の多かったことが残念である》
 などと心境を吐露しているのだ。つまりこれを換言すれば、「強制移住を証明できる資料が見当たらなかったが、我々の推測(憶測?)、推察をもって強制移住と判断した」ということではなかろうか。

 また、あとがきにはこうある。
《私たち(執筆者三名※注大高)が初めて会したのは、一九九〇年の六月五日のことでした。その日のメモをみると、樺太アイヌ強制移住史をまとめるにあたっての目標が次のように書かれています。
・この強制移住は日本近現代史における重大な民族問題であると位置付ける。
・強制移住という悲惨と苦難の歴史ではあるが、樺太アイヌの民族の尊厳が貫かれるような歴史像をめざす》

 そして、結びに、
《いま問題になっている北方四島にしても、これを国連の統治に移し、各地のアイヌから希望を募り、ここにアイヌ共和国をつくる──突飛な夢物語だろうか。(略)アイヌ新法やアイヌの主張に対し、今ここで和人が応えるべき時が来ていると切に思うのである》
 とある。
 つまり、最初から結論ありきの活動家によるプロパガンダと言っても過言ではなく、歴史検証には到底及ばない本ではなかろうか。

 回答にあったので、有識者の名前を教えていただきたいと再質問したが、お名前は控えさせていただくとのことだった。公に関わる歴史認識にも関わらす、なぜ、名前を伏せねばならないのか疑問に思うのは私だけではあるまい。
 この先もまだ、このような本を論拠に年表記述書き換えを正当化しようと試みるのなら、いずれ北海道には彼らが主張するような“アイヌ共和国”ができるだろう。アイヌの主張に応じて謝罪と補償をしていく覚悟があるのか、改めて問いたい。

朝日新聞ですら報道を正す

 ちなみに朝日新聞は樺太アイヌ問題について、どのように報じているだろうか。調べた限り、1989年から2013年にかけて「樺太アイヌ強制移住」といった趣旨の報道を15回行っている。
 特に1992年には3回も報じており、これは1991年8月11日、植村隆記者が《元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く》などと金学順さんが女子挺身隊として慰安婦にされたと、慰安婦報道の口火を切った翌年であり、戦後補償をテーマにした慰安婦問題との関連性が疑われる。

 ところが、2015年以降の報道には「強制移住」という表記が消え、以下のように書かれている。
《1875年(明治8年)千島樺太交換条約が締結され、日本国籍を選んだ樺太アイヌ民族は日本へ移住することとなった》
《1875年(明治8年)日ロ間で千島樺太交換条約が結ばれる。先祖代々南部に住んでいたアイヌ民族約2千人は、ロシア領となった故郷に残るか、北海道に残るかの選択を迫られた》
(2015年11月14日付)

 2015年以降、なぜこのように朝日新聞が表現を史実に忠実に基づいて戻したのか。それには慰安婦報道の訂正が関連しているようだ。
 2014年8月5日、朝日新聞は慰安婦問題に関する「慰安婦問題を考える」・「読者の疑問に答えます」と題した検証記事を掲載し、「朝鮮人慰安婦を強制連行した」などと述べた吉田清治氏証言を虚偽と認定した上で、関連記事16本を取り消した。
 吉田清治証言は、秦郁彦氏をはじめ、多くの有識者がその虚偽を長年にわたって指摘し続けた結果、ついに朝日新聞が誤報を認めた。こうした状況が「樺太アイヌ 強制移住」という表記の訂正を促したものと思われる。

 本来ならば、過去の紙面における表記について訂正謝罪を入れるべきだが、慰安婦問題のように外部から指摘を受けていなかったからか、その翌年からこっそりと「強制移住」の表記は消えている。
 このように樺太アイヌの北海道移住を「強制移住」と報じていた朝日新聞社も史実に基づき、誤った表記を訂正しているのだ。稚内市も展示内容の修正を、ぜひとも検討してもらいたい。

もう一つの改竄問題

 年表改竄問題とは別に、もう一つの改竄問題が、的場氏の指摘により浮上した。
 前述した『新撰北海道史』に、アイヌの集団の写真が掲載されており、「明治八年、樺太、千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み(略)」という説明が添えられているが、北海道の中学生全員と全国の中学校に各一冊ずつ配布されている「アイヌ民族:歴史と現在」という冊子にも同様の写真が掲載されており、なんと、その説明文が《江別に強制移住させられた樺太アイヌの人たち》と書き換えられていたのだ。

 的場氏によれば、
「『アイヌ民族:歴史と現在』は北海道の中学2年生全員に配られています。さらに全国で約1万の中学校にも配布されていますので、合計10万冊を超えた部数が配られているわけです。この写真はウポポイの国立アイヌ民族博物館をはじめ全道の博物館に置かれて来館者に無料で頒布されている小冊子『アイヌ民族〜歴史と文化』にも掲載され、同じ説明がなされています」
 という。

 私は早速、中学生用の「アイヌ民族:歴史と現在」を入手したが、呆れるほかなかった。指導のポイントにはこうある。
《北海道が日本の一部にされたのは、先住民族であるアイヌ民族の理解を得たものではない。(小学校では日本とロシアの関係まで示すのは難しいが)まさしく「アイヌ民族にことわりなく、一方的に日本の一部にした」ものであることを理解させたい》

「アイヌ民族:歴史と現在」の事情について詳しい小野寺氏に話をうかがった。
小野寺「私はこのような『捏造された歴史』がいくつも書かれている副読本でアイヌに関する教育が行われているのは大問題だと思い、2011年から何度かにわたり道議会で記述の再検証並びに訂正要求をしたのですが、冊子を発行した公益財団法人アイヌ民族文化財団が、訂正は“アイヌ差別”だと騒ぎ立て、朝日新聞や北海道新聞も加勢した結果、いまだに修正されていません。実に嘆かわしい。ともあれ過剰なウポポイPRを筆頭に、これから北海道に展開されるアイヌ関連施設の請負い工事も国土交通省の管轄です。アイヌ・キャンペーンの根深さは想像を絶します。
『アイヌ民族:歴史と現在』には最後のページに執筆者が並んでいますが、1人もアイヌの専門家がいないのは大問題です。しかも委員長である阿部一司公益社団法人北海道アイヌ協会元副理事長は、北朝鮮の主体思想研究会の主要メンバーであることが判明しています」
『新撰北海道史』に掲載された、アイヌの集団の写真

『新撰北海道史』に掲載された、アイヌの集団の写真

「明治八年、樺太、千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み(略)」という説明が添えられている
「アイヌ民族:歴史と現在」に掲載された同様の写真

「アイヌ民族:歴史と現在」に掲載された同様の写真

説明文が「江別に強制移住させられた樺太アイヌの人たち」と書き換えられた

赤い侵略阻止

 北朝鮮の影響がアイヌ・キャンペーンにも絡んでいるのだろうか。それとともに、中国による“赤い侵略阻止”も喫緊の課題である。

 気になった記事を紹介しよう。
《日本比較文化学会 北洋大に道支部 奥村学長「アイヌ文化など追究」》(北海道新聞/2021年9月23日付)と題されたものだ。北洋大学は2021年3月まで苫小牧駒澤大学という名称だった。2018年に学校法人駒澤大学から「学校法人京都育英館」に移管・譲渡されており、経営も実質的には京都育英館の松尾英孝理事長に握られている。
《(京都育英館は)平成25年4月に設立され、京都看護大学や苫小牧市に隣接する白老町で北海道栄高校(生徒数371人)の運営を手がけている。(略)中国・瀋陽市では、東北育才外国語学校を設立、経営している》
《一部大学関係者や寄付行為者である曹洞宗の関係者の間では、移管譲渡までの経緯が不透明なうえ、苫駒大が中国人大学になり、駒大グループが中国化するのではないかという不安が広がっている》
(産経新聞/2017年6月19日付)

 京都育英館は多くの中国人留学生を東大・京大といった一流大学に送り込んでいる専門学校だ。もちろん東北育才外国語学校と中国共産党の絡みもある。いわば一部の中国人留学生の日本の大学への「サイレント・インベージョン(静かなる侵略)」の橋渡し役ともいえなくもない。
 こういった経緯を持つ北洋大が「アイヌ」に力を入れると宣言しているのだ。一部のアイヌ関係者は、“アイヌ自治区”を声高に叫んでいる。2020年7月に白老でオープンしたウポポイ(民族共生象徴空間)には「民族共生」という言葉が入っているが、中国は弾圧しているウイグル、チベット、南モンゴルのことを「民族共生」と称している。その欺瞞を再認識すべきだろう。

未来の子供たちのためにも

 樺太アイヌ問題は、冒頭でも書いたように、徴用工問題とも深くかかわっている。

 徴用工問題に関わっている活動家や弁護士は、自著の中でお決まりの表現をする。歴史研究家の竹内康人氏が編著した『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』(神戸学生青年センター出版部)には、
《北海道炭礦汽船はアイヌモシリでの植民地開発を狙った企業ですが、北海道各地の炭鉱に数万人の朝鮮人を連行しています》
 とある。
 竹内氏は産業遺産情報センターを一方的な視点でやり玉に挙げた「実感ドドド!」というNHKの番組でコメンテーターとして出演していた人物で、彼が調査した“朝鮮人強制労働”リスト2000社以上の日本企業リストが、韓国の徴用工問題における訴訟のベースになっている。

 また、中国人強制労働の花岡事件や三菱マテリアル80億円和解などといった戦後補償裁判をたくさん手掛けている内田雅敏弁護士は自著で、
《植民地支配は経済的な収奪のみでなく、文化の破壊を伴います。日本は明治以降、沖縄・アイヌモシリ(北海道)で内国植民地を経営し、経済的な収奪と並んで、沖縄、アイヌの文化を破壊し、言語を否定し、それを韓国にも持ち込みました》(『元徴用工 和解への道──戦時被害と個人請求権』ちくま新書)
 と記述している。
 彼らの思惑通りに事が進めば、いずれ日本地図から北海道という文字が消え、〝アイヌモシリ〟(北海道)という文字が浮かび上がるのだろうか。実際に一部のアイヌの活動家たちはアイヌ自治権を主張し、「和人は借地料を支払え」と叫んでいる。

 最後に樺太記念館にも大きなパネルで展示してもらいたい大事な記事を紹介したい。
《晴れて戸籍を得る 樺太アイヌ千人 近く多年の念願達す》と題された戦前の朝日の記事だ(1932年)。
《立派な日本國民でありながら今まで無籍者の歎をかこつてゐた樺太土着のアイヌ族約千名が、愈晴れて戸籍を與へられ民法上の権利義務を享受することゝなつた──》
 果たして、樺太アイヌが樺太から泣く泣く強制移住させられたのだとしたら、日本戸籍を得ることを長年にわたって祈念し、“晴れて”日本国民となるだろうか。

 取材の最終日、私は稚内市北方記念館・開基百年記念塔に登った。眼下には紺碧のオホーツク海が広がり、その先に樺太がかすんで見えた。下の公園の乙女の像では手を合わせた。日ソ不可侵条約を破って侵略してきたソ連軍の生贄(いけにえ)にならぬよう、樺太真岡郵便局で自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた像だ。また、陸海空の自衛隊も日夜北方に睨みをきかせて駐屯している。
 稚内は日本の最北の防人の地として様々な歴史的なドラマを乗り越えながら、国防の要衝であり続けてきた。歴史の改竄は内憂外患(ないゆうがいかん)、放っておけば内に秘めたる安全保障の脅威ともなり得る。
 どうか稚内市教育委員会は、先人たちが遺してくれた誇りある歴史を子供たちに伝えるために襟を正していただきたい。
大高 未貴(おおたか みき) 
1969年生まれ。フェリス女学院大学卒業。世界100カ国以上を訪問。チベットのダライ・ラマ14世、台湾の李登輝元総統、世界ウイグル会議総裁ラビア・カーディル女史などにインタビューする。『日本を貶める─「反日謝罪男と捏造メディア」の正体』『習近平のジェノサイド 捏造メディアが報じない真実』(ワック)など著書多数。「サンケイ・ワールド・ビュー」(レギュラー)、「虎ノ門ニュース」などに出演している。

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