トップゴルファーの「失態」

 ナンシー・ペロシ下院議員が男性、女性、彼、彼女などの性別を意味する言葉の使用を禁止する議事規則を導入した、民主党が「アーメン」ならぬ「アーメン・アンド・アーウーマン」との祈りで議会挨拶を終えたなど、どうにもアメリカの「ジェンダーに対する配慮」がおかしなことになっているのでは…と思える話題が続いております。

 1月20日には、バイデンサポーターとして知られるトップゴルファー、ジャスティン・トーマスが同性愛嫌悪的な発言をしたことを謝罪し、教育のためのプログラムを受けるというニュースもありました。
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同性愛嫌悪的な発言をしたというジャスティン・トーマス
 『NEW YORK POST』に掲載された1月20日の記事によると、トーマスは先月、ハワイのトーナメントでパットを逃した時に、【homophobic slur】を口にし、「よりよい人になる」ための個別トレーニングプログラムを受講することになった、というのです。

 この【homophobic slur】は直訳すれば「同性愛嫌悪的な中傷」。『THE SCOTSMAN』というサイトによれば、トーマスは“fa *** t”と口にしたとされており、恐らくは【faggot】と言ったのではないかと想像できます。

 また、『Adage』によればトーマスはLGBTコミュニティのサポートを集めるため自分のプラットフォームを使用することに、また彼のスポンサーであるシティバンクはシティ2021(シティバンクが主催するゴルフイベントと思われます)のスポンサー料の一部をLGBT組織に寄付することになったそうです。

 本件のためにトーマスはシティバンクから契約の打ち切りをちらつかされ(他のスポンサーからは実際に契約を切られ)たようで、先の「教育プログラム」は、悪く言えばそうした「脅し」に屈した結果ということなのでしょう。

都合のよい「言葉遣い」

 本件については言いたいことがいくつもいくつもあり、いくら文字数を費やしても足りないのですが…まず補足説明をさせていただきます。

 【faggot】といっても日本人にそのニュアンスは理解しがたいですが、基本的には「ホモ」「オカマ」といった侮蔑用語。ただし、同性愛者という意味あいを越え、「ムカつく」「バカ」程度のニュアンスで使われることも多いといいます。

 もう一つ、上には「LGBT」と書きましたが、ここは元の記事では「LGBTQ+」となっていました。この「Q」は「クエスチョン」と「クイア」のダブルミーニングとされ、「+」は「他にもいろいろな性的少数者がいるよ」との含みを持たせるための表記のようです。実際、近年では様々な性的少数者が名乗りを上げてきて、一時期はこの「LGBT」の後にいくつもいくつものアルファベットを「寿限無」よろしく並べ立てているところを見かけました。「+」は苦肉の策の、その代替表現といったところかもしれません。

 さて、その「クエスチョン」は自らのセクシュアリティやジェンダーを定めかねている人を指す言葉であり、また「クイア」は本来「オカマ」「ヘンタイ」といった罵倒用語だったのですが、そこをポジティブなものに転化していこうと、敢えて性的少数者を総称するものとして使われるようになった言葉です――あれ、ということはトーマスも「クイア」とつぶやけばこんな問題にはならなかったんでしょうかね?

 敢えてネガティブな言葉を名乗ろうという心意気には共感するのですが、ならば【faggot】に対しても、もう少々鷹揚であるべきではないでしょうか。
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苦肉の策?LGBTQ「+」

異性愛は「作られた」制度だった⁉

 しかし何故、どうしてこうまでもLGBTがタブー視されるようになったのでしょう。

 これにはやはり、フェミニズムが深くかかわっているとしか言いようがないのです。

 異性愛者の男性が「ホモなどキモい」といった感覚を持つことは、ある程度普遍的です。それをわざわざ口にするのは望ましいことではありませんが、そう感じることはある程度、仕方がない。それは相手を「ブス」と罵ることは好ましくはないものの、ブスが美人に比べてモテないこと自体は、気の毒だがやむを得ないのではないか、というのと全く同じです。
 
 ところが、フェミニズムはこうした人々の「セクシュアリティ」を「作られたものであり、リセット可能」と考えます。

 例えば「ホモソーシャル」という言葉を聞いたことがないでしょうか。これはイヴ・セジウィックというフェミニストが『男同士の絆』の中で提唱した、恋愛や性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する概念です。それなら普通に「友情」(や「師弟愛」など)と呼べばいい気がするのですが、ここではそうした男同士の結びつきはホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を強く持っておりけしからぬ、とされます。

 何というか、わかったようなわからないような理屈ですが、考えてみればこれはトートロジーに近いのです。親密な人間関係というものにはそもそもある程度、他者に対して排他的な面があるわけで、セジウィックはそんな「男同士の絆」を見て、「女を仲間にしないから女性差別!」「ホモじゃないからホモ差別!」とインネンをつけているようにしか、ぼくには思えません。
 
 同書においてセジウィックは以下のように書いています。

 《家父長制の構造に関する最近の、最も有益な論文がほとんど例外なく示唆しているように、男性中心の親族体系には「強制的異性愛」が組み込まれている、あるいは異性愛結婚という父権的な制度においては、同性愛は必然的に嫌悪されることになっているからだ。》
(原文では「必然的に」に強調の傍点)

 つまり「家父長制」という「男が威張る」制度を持続させるためには、異性愛によって男女が結婚することが必要である。そこで男が「ホモソーシャル」によって連帯し、「ミソジニー」と「ホモフォビア」を元より内包している「異性愛」という「制度」をこの世に生み出し、それを女性へと「強制的」に押しつけていたのです。

 もちろん、この地球上のどこへいっても普遍的である「異性愛」というものを発明し、全人類に「強制」したのが一体誰で、どんな方法を使ってそれをなしたのかは、さっぱりわからないのですが。また、そうした「異性愛強制社会(という言い方も、好んでなされます)」以前には「両性愛」が一般的だったそうなのですが、これもどういう根拠かよくわかりません。

 また、ここまで男性が「草食系」と化して非婚化が進んでいるのに、同性愛者が増えている様子がないのも大層、不思議です。2019年の「国立社会保障・人口問題研究所」の調査では同性愛者は全体の0.7%との数字が出ました。今まで5%などといった数字が挙げられていたことを考えると、相当な後退ぶりです。
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「異性愛」は男が威張るためのモノ⁉

ジェンダー問題は「悪者」のせい

 ぼくは今までの記事においても、「ジェンダーフリー」の欺瞞についてご説明してきましたが、それを連想された方もいらっしゃるかもしれません。フェミニズムの基本戦略は人々のジェンダーやセクシュアリティを「文化によって作られたもので、人間本来のものではないのだ、だからリセットすべきなのだ」と主張することです。

 しかしその根拠は残念ながら、極めてあやふやで心許ない。それも結局は自分たちの掲げる政治的理念ありきで、それが実現しないことへの不満を、自分たちではなく、なにか「悪者」のせいにしたいとの情念が先行しているからなのでしょう。先のセジウィック先生は「家父長制」を悪者にしていましたが、「キリスト教」が悪者に選ばれることがより一般的です。そしてこの論法は、マイノリティたちにとっても甘い飴となり得ます。「自分はどうして他の人々と違うのだろう」という問いに、答えと「やっつけるべき悪者」を与えてくれるのですから。

 いえ、確かに欧米ではキリスト教文化の中、同性愛が罪悪視されてきたという歴史があり、「キリスト教が悪者」は一理も二理もあるでしょう。本件における対応が適切かどうかはともかく、彼らが黒人に対するのと同様に同性愛者に後ろめたさを感じるのは、理解できない話ではありません。

背景の違う日本で同様のLGBT運動がおこる不思議

 しかし、日本にはそのような歴史がないにもかかわらず、昨今、似たような事例が頻発しているのはみなさん、ご存じの通りです。杉田水脈氏の発言が問題になり、『新潮45』が廃刊した事件など、まだ記憶に新しいところです。

 ぼくは日本の複数の論者が「日本における同性愛差別は天皇制維持のためのもの」と言っているのを見聞したことがあります。しかし同性愛者を差別することで天皇制が盤石になるとも思えず、これは「キリスト教」を雑に「天皇制」に置換しただけではないでしょうか。

 ここからはフェミニストたちが欧米から直輸入した概念を、LGBTの運動家たちが武器にしたという経緯が仄見えます。その意味で、問題になった杉田氏の主張が「LGBTは確かに生きがたさを感じている。しかしそれは個々人の人間関係にまつわることが多く、政治が介入してどうこうできる問題ではない」といったものであったのは象徴的です。彼ら彼女ら(というのはフェミニストやLGBT運動家、そして広く左派を指しますが)はこの問題を「政治の問題」にすることで自分たちの不遇感をクリアできるのだと信じたいのですから。

 もちろん、彼ら彼女らは「利権」のためにこうした主張をしている、という側面もあることでしょう。ことに直接の当事者ではない左派男性たちはそうではないかと、つい考えたくなります。しかし、必ずしもそれだけじゃないのでは…といった辺りの話を、最後にしてみたいと思います。
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「生産性」発言を批判された杉田水脈氏

左派は同性愛者を羨んでいる?

 ぼくは普段はオタク関連のライターをしているのですが、この業界、極めて左派寄りの勢力が強いところです。時折、「オタクはネトウヨだ」といった意見が聞かれたりもしますが、いわゆる「オタク界」をリードしてきたような方々には(例えば、映画評論家の町山智浩氏やサブカルチャー評論家の宇野常寛氏など)はリベラル色が強い傾向があります。じつは市井のオタクのマジョリティはノンポリであるのに、そういった過去のオタクリーダーたちが「(いまの)オタクどもは俺たちの思想を継承しなかった、許せぬ」と逆切れして主張していることのように思われます。

 そして、彼らはそうした高尚な思想を理解しない、ただ萌えキャラにうつつを抜かしているだけのオタク(例えば、ぼくですが)へと罵倒やお説教を繰り返すのです。

 そして――そうした、おそらく異性愛者であると想像できる男性たちは一体に、極めて深い同性愛者への「信仰」を持っています。それはもちろん、一つには彼らがフェミニズムに深く傾倒しているからでしょうが、もう一つ、ぼくが見るに彼らは「男でありながら女へと性的欲望を抱かない」同性愛者に対しての、身を焦がすような羨望を抱いているように思われるのです。

 これは仮説ではありますが、彼らはフェミニズムの教義通り「男性はみな性犯罪者、ないしその予備軍」と信じ切って、深い罪悪感を抱いています。そのわりには女性にだらしがなかったり、明らかに自分よりも「草食系」であったりモテなかったりするオタクになぜか憎悪を募らせているのですが。どうも左派というのは「権威者」に立ち向かうポーズを取るのが大好きですが、本当に攻撃したいのは常に「愚鈍な大衆」である気がしてなりません。

 ともあれ、そんな彼らの目に、同性愛者は「性の悩み」を超越したスーパー男性のように映っているのでしょう。同性愛者の男性であっても性に奔放な人もいれば、性犯罪を犯す者だっているのですが、彼らはそこをどうしても認めまいとする傾向にあります。彼らにとって、同性愛者は過ちを犯さない聖者でなくてはならないのでしょう。

 つまり、フェミニズムは「全てを異性愛男性の責に還元するノウハウ」であり、フェミニストが男性同性愛者に肩入れするのは、彼らを被差別者にすることで、異性愛男性だけを差別者という名の「悪者」に仕立て上げることが可能になるからではないか。

 一方、左派男性は同性愛者を理解してみせることで懺悔の代替とすることができるし、また、何よりも「ホモなんかキモいよな」と毒づく異性愛男性という名の「悪者」を糾弾する正義の味方、同性愛者を理解するインテリという位置に立つことができる。

 冒頭のトーマスはLGBT教育を受け、「いい人」になろうとしていますが、その果てに何が待っているかを、彼らが指し示しています。そう、それはエリーティズムに陶酔するダシとして、同性愛者を利用し、大衆を遅れた存在として見下す、醜い姿です。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。

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