『地上最強の男』と言われたモハメド・アリ

『地上最強の男』と言われたモハメド・アリ

ボクシングでみる「アメリカ黒人史」

 百田尚樹さんの『地上最強の男――世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮社)を読みました。正直なところ、これまでボクシングにはあまり関心がなく、外国人ボクサーで顔と名前が一致するのはメイウェザーやパッキャオ、少し遡ってタイソンやホリフィールドといった有名どころのみ。
 ところが、『地上最強の男』に描かれているのは、初代チャンピオンが生まれた19世紀後半からモハメド・アリまで。しかも、ヘビー級の話なので日本人ボクサーは一切登場しません(日本人のヘビー級ボクサーは昔も今も非常に少ない)。

 ボクシング知識ゼロで大丈夫かな……と思いつつ読み始めましたが、杞憂に終わりました。知らないカタカナの名前ばかり登場するものの、まるで一人一人に魂が宿るように、読みながら頭の中に映像が浮かんでいることに気づくのです。ちなみに、百田さん原作の小説は多くが映画化されています。『フォルトゥナの瞳』(新潮文庫)を読みながら理由を考えてみたことがありますが、映像を眺めているかのような文章だから、というのが私見です。ともあれ、『地上最強の男』も例外ではありませんでした。

 さて、内容についてはネタバレになってしまうので詳しくは書きませんが、「これは『もう一つのアメリカ史』であると同時に『アメリカの黒人史』でもあります」という百田さんのツイートがすべてを表しています。いま米国で黒人差別反対デモが起こっていますが、これ以上ないタイミングで出版されたといえるでしょう。

 数多のボクサーが登場するなか、やはり主役はジャック・ジョンソンとジョー・ルイス、そしてモハメド・アリという3人の黒人チャンピオン。彼らがそれぞれ20世紀初頭、第2次大戦前夜、そしてベトナム戦争期に登場したことで、アメリカ社会は変わりました。メイウェザーとパッキャオの「世紀の一戦」が世界中でテレビ中継され、いくらファイトマネーが歴代最高を更新しようと、それは社会を変えるほどの出来事ではない。しかし、かつてテレビもない時代に行われたヘビー級王者をめぐる死闘は、米国社会、ひいては世界の価値観すら揺るがすパワーを持っていたのです。

 ジャック・ジョンソンの時代は、「カラーライン」というものがありました。白人は黒人と戦いたくなければカラーラインを使い、対戦を拒否できる。そんな時代にあって初代黒人チャンピオンになったジョンソン。ジョー・ルイスはナチス台頭の只中、ドイツ人の強豪シュメリングと戦います。ヒトラーやゲッベルスがボクシングを宣伝道具に使おうとするエピソードや、黒人でありながらアメリカを背負って戦うルイスのエピソードに、個人的には一番痺れました。そして、説明不要のモハメド・アリことカシアス・クレイが米国という国家を相手にリング外で戦う姿はハイライト。

 読み終わった後、少し寂しい気持ちになったのは、「これほどの壮絶なドラマは今は見られないんだな」と思ってしまったからでしょうか。決して差別を推奨しているわけではありません。しかし、逆境があるからこそ、その壁を乗り越えたとき感動は生まれる。かつての黒人と白人との間にある社会的地位がそうであったり、黄色人種と黒人の身体能力差がそうであったり、男女の社会的役割の違いがそうであったり。例えば日本人が短距離走でメダルをとっても、人種や民族、性別すらも平らに“ならされた”世界では「人種の壁を乗り越えて」とは大きな声で言えないのです。
 人類みな平等なんて、誰も本気で信じていないのに。
 (1673)

山根 真(ヤマネ マコト)
1990年、鳥取県生まれ。中学時代から『WiLL』を読んで育つ。
慶應義塾大学法学部卒業。ロンドン大学(LSE)大学院修了。銀行勤務を経て、現在『WiLL』編集部。
好きなものは広島カープと年上の優しい女性。

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