香港・国家安全維持法:「メス豚書記」の大出世

香港・国家安全維持法:「メス豚書記」の大出世

 6月30日に施行された香港の国家安全維持法に伴い、新設された中国政府の香港における治安部門の出先機関「国家安全維持公署」の初代トップに、広東省共産党委員会の秘書長、鄭雁雄氏が任命された。9年前、広東省汕尾市の烏坎(うかん)村で大規模な抗議活動が起きた時、弾圧の陣頭指揮を執り、「メス豚書記」とのあだ名がつけられた人物だ。

 人口約1万2000人の烏坎村で抗争が起きたのは2011年の秋だった。村の共産党委員会幹部らが密かに公有地を開発業者に売却した疑いが浮上したため、若い村民を中心に不正を調べる臨時代表理事会を立ち上げた。村幹部を庇う当局に抗議し警察隊と激しく衝突、多くの人が負傷した。その後、村に籠城し当局と対抗し続けた。当時、北京駐在の特派員だった筆者(矢板)は、現場に駆け付けた。村民の手引きで村に入り、ほかの外国人記者と一緒にその抗争の詳細を記録し、出稿し続けた。

 弾圧する側のトップは、当時の汕尾市党委書記の鄭氏だった。村の臨時代表理事会を「違法組織」と決めつけ、取り締まる方針を示した鄭氏は、村の電気、水道をすべて止め、大量の警察を動員して村を包囲した。村民に投降を呼びかけた際に、「外国のメディアに頼るな、政府を信じなさい」と繰り返して強調したうえで「海外メディアが信じられるなら、メス豚が木に登る」と発言したことが村民の失笑を買った。以降、「メス豚書記」と呼ばれるようになった。

 「烏坎村の抗争」は世界的なニュースとなったため、広東省党委書記だった改革派の汪洋氏が直接介入し、村の執行部を更迭し、新しい村長の直接選挙を認めるなど、村民の要求の一部を受け入れたことでようやく沈静化した。しかし、強引な対応で事態を拡大させた鄭氏の責任が問われることはなかった。「党の威信を守った」と逆に評価する党内の保守勢力もいて、鄭氏は広東省党委宣伝部副部長に横滑りした。汪氏が広東省を離れた後、鄭氏は省党委秘書長に昇進した。

 広州中医学院を卒業し、漢方医を専攻した鄭氏だが、卒業後は医師にならず、共産党の下部組織の共産主義青年団の職員になり、党官僚の道を歩み始めた。党の機関紙、人民日報の広東省の出先機関にも一時出向したことがあり、共産党の理論を勉強したため、「青少年の思想教育が得意」と自称しているという。

 しかし、国家安全分野での勤務経験はなく、広東省で生まれ育ち、同省内でしか勤務経験のない一地方幹部の鄭氏が、いきなり国際都市、香港で新設された「国家安全維持公署」の署長に任命されたことに、「彼に務まるのか」と違和感を覚える人が多かったという。

 北京の政局に詳しい中国人学者は、「本来ならば、中央政府の公安省次官クラスが行くポストだが、4月中旬、香港を担当した公安省の元次官、孫力軍氏が『重大な規律違反があった』として失脚し、今は省内で孫氏の事件を精査している最中で、人を出しにくい事情があった」と解説した。

 鄭氏が選ばれたのは、烏坎村の抗議に対抗した経験を買われたと指摘する声がある。当時、烏坎村のデモ活動を計画した主要メンバーは村の若い住民だったが、今、香港の民主化活動の主な参加者も、学生や若い市民だった。昨年、香港警察はさまざまな手段を使ったが、デモをあまり抑えられなかった。今後、大規模なデモがあった際、鄭氏には烏坎村の時のように、電気と水道、またはインターネットを止めるような、強硬手段の行使を期待している可能性がある。

 また、鄭氏には「メス豚」というあだ名があるように、広東省の市民の間で「酷吏」(人民を苦しめる無慈悲な官吏)とのイメージが定着しており、評判はすこぶる悪い。北京の人権派弁護士は「共産党が人民を弾圧する時、鄭氏のように、評判の悪い官僚を投入することが多く、彼らは自分の名声を気にせず上の命令に素直に従うからだ」と解説している。

 また最近、米国を始め、国際社会は、香港の人権弾圧に関わった中国当局者に対し、海外における個人資産の凍結などの制裁を加える構えを見せている。これまでに香港を含めて海外とかかわったことがない田舎幹部の鄭氏なら、海外で隠し資産を所有していない可能性が高く、米国などから制裁されないと党中央が判断したかもしれない。

 サプライズ人事で世界中から注目されるポストに就いた鄭氏だが、これから力ずくで香港の秩序を回復させ、北京からさらに評価されることを期待しているとみられるが、彼の着任は、香港市民にとって大きな災難にほかならない。
矢板 明夫(やいた あきお)
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児二世として日本に引き揚げ、1997年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から2016年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』などがある。

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