【矢板明夫】中国・インド紛争: 中印国境にはためく雪山獅子旗

【矢板明夫】中国・インド紛争: 中印国境にはためく雪山獅子旗

 8月末から9月初めにかけて、ヒマラヤ山麓の中印国境付近で、中国軍とインド軍による武力紛争が再開した。6月以来、約2カ月ぶりの大規模な衝突で、インドメディアの報道などによると、インド軍はカラトップ一帯の高地を占拠し、前進しようとした中国軍の機械化歩兵を阻止した。一方、中国の官製メディアは6月の時と同じく、紛争が起きたことを黙殺した。インターネットには、双方の兵士がこん棒などを使って乱闘している映像が流れている。多数の死傷者が出た模様だ。現地指揮官は何度も交渉をしたが、らちが明かなかった。9月4日、中国の魏鳳和国防相とインドのシン国防相が、訪問先のモスクワで会談したが、双方とも領有権を主張し、互いに撤退する意思はなく、対峙が長期化する可能性がある。

 インターネットの映像の中に、前線から戻ってくるインド軍の兵士を、市民たちはチベットの「国旗」である雪山獅子旗を振って歓迎する場面が流れ、注目された。雪山獅子旗は、チベット独立運動の象徴であり、中国国内で所持しているだけで「国家政権転覆罪」で起訴され、重い刑罰が下される可能性がある。

 日本の旭日旗のデザインを背景に、チベットの象徴である白い雪山、9頭のライオン(獅子)と宝石が描かれている雪山獅子旗の設計には日本人も関わっていたとされる。20世紀初め、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ13世と親交があった日本人研究者で僧侶、青木文教がチベットに滞在した際に、当時のチベット軍首脳と一緒に考案したと青木が自らの著書などで記している。日清戦争や日露戦争で活躍した日本のように、チベットは独立を勝ち取りたいとの願いが込められているという。

 しかし1951年、チベットは中国によって半ば強制的に併合された。以降、中国の国旗である五星紅旗の掲揚が強要された。併合から8年後の1959年、チベット動乱が起き、ダライ・ラマ14世は10数万人の難民と一緒にインドに亡命し、ダラムサラという町でチベット亡命政府をつくった。再び雪山獅子旗を「国旗」として使い始めたが、国際社会における認知度はほとんどないのが実情だ。

 今回の中印国境紛争で、雪山獅子旗が登場したことには特別な理由がある。ロイター通信などによると、武力紛争に備え、インドが前線に送り込んだのは「特殊国境部隊(SFF)」という陸軍の精鋭部隊だ。約3,500人で構成されるこの部隊の兵士のほとんどがチベット人であることが特徴だ。山地や高海抜地域での作戦に長けている彼らは、ダライ・ラマと一緒にインドに渡った難民の子供や孫で、すでにインド国籍を持っている。彼らにとって中印国境で中国人民解放軍と戦うことは、故郷を奪った敵との戦いであり、士気は特に高いという。

 8月末、中印国境付近のパンゴン湖周辺で、SFFに所属する1人のチベット人兵士が、地雷の爆発によって死亡した。その葬儀はチベットの伝統に従って行われた。インドのテレビが流す映像では、棺桶にやはり雪山獅子旗が掛けられていた。インドの市民たちは国境で戦うSFFの将兵たちを「チベットの英雄」と呼んでいるという。

 チベット人の部隊が中印国境で中国軍と戦っているという情報はインターネットなどを通じて中国国内のチベット自治区にも入った。チベットを支援する人権団体の関係者によると、ひそかに雪山獅子旗をつくり、秘密集会を開くなどSFFを応援している人は少なくない。亡命政権の帰還を期待してチベットで独立の機運が徐々に高まっているという。

 中国に併合され、人権弾圧もされてきたチベットの問題は長年、国際社会に軽視されてきたが、近年の米中対立や中印の関係悪化によって注目されるようになった。特に、中国が推進する巨大経済圏構想、一帯一路政策に反対するインドは、自国内にあるチベット亡命政府を対中カードとして使い始めている。今回の国境紛争で、中国人民解放軍の相手にSFFを投入し、雪山獅子旗の使用を黙認したことは、チベット独立運動を支持する可能性を示唆し、中国に対する強烈なけん制となっている。

 米国も最近になって、チベット支援を強化し始めた。1月末に米下院で「チベット支援法案」が圧倒的多数で可決したほか、国会議員で構成する共和党調査委員会が6月、チベット自治区の呉英傑・党委書記を制裁対象とする報告書を提出した。

 「ラサの空に雪山獅子旗を」というチベット人の悲願を支援する国際社会の輪が広がりつつある。
矢板 明夫(やいた あきお)
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児二世として日本に引き揚げ、1997年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から2016年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』などがある。

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