武漢ウイルスとの闘いでは、安倍晋三首相が「中国への忖度で後れを取った」とあまり評判がよくない。防疫対策の近道は適切な水際対策だから、中国からの航空機をいち早く阻止していれば、武漢ツアーのバス運転手も国内感染者第1号にならずに済んだという慨嘆である。

 確かに、習近平主席の「国賓待遇」訪日にこだわったばかりに、悪性ウイルスに対する迎撃が後手に回ってしまった。あちらは信義や仁義よりも、カネと腕力を優先する中国共産党だから、律儀に忖度する安倍外交の甘さが際立ってしまう。ところが、訪日中止が決まったあとの日本外交は、英誌エコノミストに「アベが戻ってきた」と言わせるほどの対外発信力をみせる。習主席の「訪日延期」を発表した同じ3月5日、安倍首相は間髪入れずに「中国依存からの脱却」策を打ち出して北京を驚かせている。

 安倍首相自身が主宰する「第36回未来投資会議」で、まずは中国からの製品供給の滞りに懸念を示した。その上で「付加価値が高く、一国依存度の高い商品については、日本に生産拠点を移す」と述べ、それ以外でも「東南アジア諸国連合を含む多くの国々に生産拠点を多様化することを目指す」と宣言した。これが満を持しての「ジャパン・ファースト」か。日本のサプライチェーン(供給網)が、中国に過度に依存するリスクを回避するためには妥当な策だ。同日には、中国からの旅行制限の強化策も発表している。日本国内ではこれを習訪日の呪縛が解けた証しとみたが、あちら北京では、日本の「中国離れ」という疑心暗鬼を生んだ。

 補正予算には生産拠点を移す支援策として、2486億円の補助金を盛り込んで本気度をみせた。ここは少額でもカネの裏付けが大事だ。アメリカのトランプ政権がこれに反応し、国家経済会議のラリー・クドロー委員長が、アメリカ企業が中国から拠点を移す費用を全額国が補助すべきと発言している。実際に日米当局者は昨年秋ごろから、中国に依存するサプライチェーンを避け「グローバルな信頼できるネットワーク」の構築に向けて協議を開始していたのだ。これまで巨大な儲け市場としか見なかったヨーロッパも、「詫びるどころか恩に着せる」中国の強引さに態度を変えた。ドイツの有力政治家が珍しく「中国はヨーロッパを失った」とつぶやいたほどだ。

 あの傲慢、尊大な習主席が、安倍政権の出方にドキドキと心拍数を上げているのは身から出た錆である。習近平流は腕力で南シナ海の独り占めを狙い、ウイルスを世界に伝播させながら医薬品の供給力で相手国を黙らせる。まして、粗悪品を提供しながら、ポーランド、ドイツなど欧州諸国に「感謝声明」を強要しているからタチが悪い。いま、共産党支配の正統性を支えているのは、イデオロギーやナショナリズムではなくて、人民の懐をよくする経済成長だ。したがって習主席の悪夢は、外国企業が撤退し、投資の流れが逆流して中国が「世界の工場」でなくなってしまうことである。

 問題は、安倍政権が宣言通りにサプライチェーンの再構築を本格化させるか否かだ。日本回帰へ啖呵を切りながら、腰砕けになっては話にならない。トランプ政権の方は、パンデミック後も、当然ながら中国と熾烈な覇権争いを展開するはずだ。ホワイトハウスの元中国担当官は「これは地政学の逆襲だ」と対決姿勢を緩める気配がない。GDP(国内総生産)第1位と第3位の日米が組んで、サプライチェーンを再編成することになれば、巨額債務の重圧にあえぐ中国は間違いなく失速する。北京大学の著名な政治学者、王絹思教授は米中関係が最悪のレベルに達し、経済と技術の米中デカップリング(分離)は「すでに不可逆的である」とまで述べている。

 今回のウイルス禍で浮き彫りになったのは、日本企業はじめ外国企業の中国依存という脆弱性であった。日本の「チャイナプラスワン」として東南アジアに移す戦略は、あの反日デモの時代から提唱されていながら、なおざりにしてきた。未来投資会議での安倍首相の発言は、武漢ウイルスで操業停止に追い込まれた進出日本企業の考え方を反映している可能性が高い。だが、これが行動に示されなければ、元の木阿弥になって同じことが繰り返されるだろう。安倍首相の周辺を固める政界親中派と、財界媚中派による巻き返しが気にかかる。
湯浅 博(ゆあさ ひろし)
1948年、東京生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。

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