但馬オサム~「在日差別」と言う前に

但馬オサム~「在日差別」と言う前に

もうひとつの「ラムザイヤー論文」

 ドイツ・ドレスデンの国立博物館に慰安婦像が設置された。ドイツでは、昨年9月ベルリンのミッテ区に設置されたものを含めて2体目。すでに韓国国内外にさまざまなスタイルの慰安婦像が設置され、その数は数十に及ぶが、他の国に設置するのとドイツ国内に設置するのでは、意味が大きく違う。

 韓国側の最終目標は、大日本帝国のナチス・ドイツとの同一化だ。そのために慰安婦強制連行神話をホロコーストと同じ「人類普遍の戦争犯罪」に格上げする必要がある。旭日旗を「東洋のハーケンクロイツ」と言いつのるのもその一環といえよう。ドイツに慰安婦像を設置することで、「過去を反省するドイツ、反省しない日本」を世界に喧伝し、ナチス時代の負い目を背負うドイツ人の力を借りて、日本を歴史的絶対悪に仕立て上げるという恐ろしくも姑息な魂胆が見える。

 一時期おとなしかった韓国が、ここへきてまたぞろ慰安婦問題を戦略化させてきた背景には、いわゆるラムザイヤー論文の存在が大きいだろう。

「慰安婦は売春婦」――ハーバード大学のジョン・マーク・ラムザイヤー教授の論文をめぐって、例によって韓国はヒステリー状態に陥っているようだ。

 とはいえ学術的な反論はまず聞こえてこず、論理のすり替えや揚げ足取り、人格攻撃に終始している。果ては教授が三菱グループ(韓国のいうところの〝戦犯企業〟)から研究費の後援を受けたことをあげつらう報道さえあった。事大主義、権威主義が染みついている韓国人にとって、世界的権威であるハーバード大学の教授が「慰安婦=性奴隷」という彼らの〝神学〟に真っ向から異を唱える論文を発表したことに、よほどのショックを受けたのだろう。その攻撃は常軌を逸しており、あたかも中世の異端審問を思わせた。

 矛先はラムザイヤー教授が過去に発表した論文にまで向いている。

 《昨年10月、ラムザイヤー教授が発表した論文「社会資本と日和見主義的リーダーシップの問題点:在日コリアンの事例」は、日本人が在日同胞を差別するのは在日同胞のせいだという主張を含んでいる》(中央日報・2021年2月18日)

 《ラムザイヤー教授は日本の極右の菅沼光弘氏『ヤクザと妓生が作った大韓民国~日韓戦後裏面史』に出てきた根拠のない統計を自身の論文に引用し、在日同胞社会全体を否定的に描写した。ラムザイヤー教授が引用した内容は2015年当時、日本国籍者10万人あたり犯罪者数は63.6人だが、在日コリアンは十万人あたり608人という部分だ》(同前)

 ここに出てくる『ヤクザと妓生が作った大韓民国』は筆者(但馬)がインタビュー、構成、解説を担当した事実上の共著である。思わぬところで、自分のかかわった本の名を見つけて驚き、慌てて同報道にある引用部分を探したが見つからなかった。とはいえ、教授が同書を参考文献のひとつに加えてくれたのは確かなようで、その恩義(?)に報いるためにも、本稿ではラムザイヤー教授の「在日論文」について、補足とささやかな擁護(というよりも中央日報への反論)をさせてもらいたいと思う。

 相変わらず韓国の日本関連報道は恣意的で煽情的だから、最初に断っておく。筆者は(おそらくラムザイヤー教授も)「在日韓国・朝鮮人は差別されて当然」などと主張するつもりは毛頭ない。ただ、ある世代以上の日本人の意識に、在日に対する抜きがたい不信感、ネガティブなイメージが存在しているのは残念ながら事実だし、その原因の多くは在日側がつくったというのも否定できないことだろう。その点を本稿では事実に基づいて述べてゆきたい。
但馬オサム~「在日差別」と言う前に

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世界各地の韓国人から集中攻撃されたラムザイヤー教授
via youtubeよりキャプチャー

「第三国人」は差別なのか

 その原風景をたどれば、それは日本の敗戦時にある。日本全国で朝鮮人の蜂起が起きたのは玉音放送のわずか数時間後のことだったという。彼らが「戦勝国民」を自称しながら「敗戦国である日本の法律にしたがう必要はない」と一方的に宣言し、徒党を組んで日本人の商店を襲ったり、買い出し列車を占拠して、わずかな衣類と交換でようやく手に入れた命の糧である食料を強奪。自分たちが経営する闇マーケットで法外な値段で売りさばくなど傍若無人のふるまいを繰り返していたことは、多くの人の回顧録に語られる通りである。

 当初、彼らのふるまいを大目に見ていたGHQ(連合国軍総司令部)も、私設警察行為にまで行動をエスカレートさせるとさすがに看過できず、戦勝国民でも敗戦国民でもないという意味で「第三国人」という呼称をあてはめた。いまでは第一級の差別用語にされている「第三国人」という単語だが、もともとはGHQによる行政用語で、当の朝鮮人が「三国人」を名乗ることも少なくなかったのである。

 第三国人の横暴は、日本人の意識に在日の負のイメージを鮮烈に植え付けることになったのはいうまでもない。一方で、彼らの一連の反社会行動を併合時代の圧政と差別に対する報復であると擁護する声も聞こえてくる。たしかに、一部日本人の中には朝鮮人を露骨に差別する人間もいただろう。しかし、制度的な差別はほとんどなかったと言っていい。内地にいる限り朝鮮人でも国会議員になれたし、日本人と結婚した者も多かった。それに日本人兵卒を叱咤号令する朝鮮人士官も珍しくなかった。強制連行云々は戦後つくられたフィクションである。

 第三国人と呼称が変わっても、彼らが敗戦国人よりも序列が上位にあったのは確かで、現にGHQによって日本人が受けるさまざまな統制を彼らは免除されていた。常に己と日本とを比較して、その優劣に一喜一憂する韓国人は、むしろ日本人の支配階層であった証として「第三国人」という呼称を誇るべきではないだろうか。

なぜ戦後「在日」が増えたか

 昭和22年5月、外国人登録令が施行されて「第三国人」は晴れて外国人になったが、この登録がまったくザルで、二重登録や不正登録、朝鮮人間の登録証の売買が横行していた。というのも、戦後のドサクサを頼りに半島からの密航者が絶えず、彼らは外国人登録証を不正に入手して日本に居座ったのである。中には、どう見ても40代の中年なのに、登録証の記載は「24歳」という剛の者もいたという。正規の登録者の息子に偽装し申請した例である。李承晩政権の済州島虐殺(昭和23年)、それに続く朝鮮動乱(同25年)の勃発で、密入国者は増加の一途をたどっていく。

 闇市などで財をなす在日もいれば、戦後着の身着のまま玄界灘を越えてやってきた密入国者もいた。後者は人足などの単純労働に従事するしかなく、無職者も多数を占めていた。彼らが受給する生活保護だけで、当時の金額で年間6億円に及び、日本の復興の足を引っ張っていたというのが実情だ(「在日朝鮮人の實態をさぐる」『経済往来』昭和28年2月号)。

 また中央日報は《48年の済州島四・三事件当時、共産主義勢力が政府の弾圧を避けて大勢日本に密航し、彼らが在日同胞社会の主流になったという主張も展開した》とラムザイヤー論文の「偏見」を批判するが、いま述べたように、密航は多くの在日も認める事実である。では、在日と共産主義の関係についてもう少し詳しく説明してみよう。

 敗戦とほぼ時を同じくして、在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)が結成される。当初は思想的な団体ではなく、在日朝鮮人のための純粋な互助組織であった。

 しかし、日本共産党の中央委員として治安維持法で投獄されていた金天海が出所、朝連の最高顧問に就任し実権を握ると同盟内の民族派や親日派を粛清、同盟は事実上の日本共産党の別動隊となるのである。

 戦前、内地にいる朝鮮人は労働運動を介して当時、非合法組織だった日本共産党に入党する者も多かった。また、独立運動家の中には無政府主義グループとつながっている者もいた。下地はあったのである。
但馬オサム~「在日差別」と言う前に

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金天海が府中刑務所から出所した際は、在日朝鮮人を含む多くの共産党員たちが出迎えた。朝鮮人の党員たちは歓迎会の会場設備まで担当していた。
via wikipedia

朝鮮人と日本共産党

 戦後合法政党として再スタートした日本共産党は、「合法」ゆえに表立ってできなかった騒乱や火炎瓶テロを朝連メンバーに下請けさせていた。昭和24年、朝連はGHQによって解散させられるが、昭和26年には朝鮮統一民主戦線(以下、民戦)として復活。それに先立つ昭和25年、日共朝鮮人党員によって朝鮮祖国防衛委員会中央本部(以下、祖防委)が組織されている。この主要メンバーは日共中央委員会民族対策部(以下、民対)で、実態は祖防委=民対であり、ともに民戦の裏の顔であった。祖防委は、祖国防衛隊、決死隊、親衛隊などの実行武闘部隊を束ねていた。この当時、日本共産党の全党員約7000人のうちおよそ1000人が朝鮮人だったという。

 この武闘部隊の中でも最も過激で実動的だったのは祖国防衛隊(以下、祖防隊)で、阪神教育事件(昭和23年)やメーデー事件(昭和27年)といった流血の騒擾事件をいくつも引き起こしている。そのうち、ここでは阪神教育事件を振り返ってみたい。

 敗戦直後、朝鮮人は全国で、焼け残った小学校の教室などを借りて「国語教習所」の看板を掲げた。これが朝鮮学校のルーツである。当初は、朝鮮人子弟の帰国の準備のために朝鮮語を教えることを名目としていたが、昭和22年、事実上、朝連傘下の学校になってからは急速に赤化し思想教育の場となった。これを憂慮したGHQは、文部省の指導要領に従うよう再三要請したが、朝鮮学校側は拒否。業を煮やしたGHQは昭和23年3月、全国の朝鮮学校閉鎖令を出した。

 同年4月、朝連はこれを「教育の弾圧」だと大反発し、在日を多く抱える関西地区では祖防隊に扇動された朝鮮人と日共党員6千人が蜂起し、大阪府庁に乱入、知事を吊るし上げたほか、破壊活動の暴挙にいった。これにアメリカ軍と武装警察が激突、朝鮮人青年1人が射殺される惨事となった。兵庫県下でも同様の暴動が起こっている。これらを一般に阪神教育事件といい、朝連側は阪神教育闘争と呼んだ。

「朝鮮人学校」という治外法権

 この騒動後、GHQ側(ボルトン少佐)が妥協案を示し、6年間の期間限定で朝鮮学校を公教育に組み入れることで朝連側も合意する。東京都は都立朝鮮人学校を新設、他の自治体は既存の小中校の分校という形でこれを許可した。いまはすっかり忘れられているが、公立、つまり税金で朝鮮学校がまかなわれていた時代があったのである。

 しかし、朝鮮人学校側と取り交わされた約束(校長は日本人、教員は日本人・朝鮮人同数とする。朝鮮語など民族教育は課外授業とし週5時間を上限とす、など)はことごとく破られた。一応、日本人校長はいたが実権はほとんどなく、朝鮮人教員がすべてを取り仕切っていた。授業のほとんどは朝鮮語で行われ、朝鮮語が話せるというだけで、教員資格のない者が教壇に立ち、日本人教員は隅においやられて行く。あるいは、日本人教員のささいな失言をあげつらい、朝鮮人教員、PTA、生徒が総出で吊るし上げ退職に追い込むという事件も実際に起こっている(横須賀市立諏訪小学校分校)。

 昭和25年、朝鮮動乱が勃発。日本は米軍の兵站基地となると、日共および祖防隊は、後方攪乱部隊として暗躍。昭和27年6月、軍需物資輸送の列車が停車してある大阪府の国鉄吹田駅や近隣の交番を襲撃、火炎瓶を投げ込むなどの破壊活動(吹田事件)を行い、返す刀で旧陸軍工廠枚方製造所(当時の所有者は小松製作所)に侵入、事件爆弾を爆発させている(牧方事件)。

 こういった一連の破壊、騒擾事件には朝鮮人学校の生徒もさまざまな形で参加させられている。ある朝鮮高校の女学生は授業もそっちのけで、毎日のように買い物かごに火炎瓶を隠し運搬していたという(金賛汀『朝鮮総連』)。

 また、東京荒川区の都立第一朝鮮人小学校では、理科の実験と称して火炎瓶の作り方を教えているという読売新聞のスクープもあった。町田町の都立第十二朝鮮人小学校では祖防隊のジュニア版の少年祖防隊が組織され、やはり授業の一環と称して竹槍訓練が行われていた。
但馬オサム~「在日差別」と言う前に

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朝鮮大学校(東京都小平市)は、「日米壊滅を目指す」手紙を金正恩に送っていた(2016年5月)。手紙には「大学内で米日帝国主義を壊滅できる力をより一層徹底的に整える」との記述も。朝鮮学校への授業料無償化・補助金は、国民の血税で反日テロリストを育成するようなもの。簡単に「在日差別」と一括りにするべきではないだろう。

民戦 vs 建青 血の抗争

 蜜月だった日共と民戦との関係も意外なことで終焉を迎えていく。昭和30年5月、民戦六全大会で、民戦を発展的解散し朝鮮総連を新たに設立することが決定された。同年七月、日本共産党も第六回全国協議会で、それまでの暴力革命路線を放棄することが決議されている。どちらにしろ、共産党の暴力を担っていた旧民戦一派は党内での行き場を失うことになる。こうして総連は共産党を離れ、朝鮮民主主義共和国の外部団体の道を選び今日に至るのである。

 話を少し戻そう。金天海一派によって粛清され朝連から追われた朝鮮右派グループは、昭和21年10月、やはり戦前投獄され敗戦によって出獄した朴烈を初代団長に、在日本朝鮮居留民団(のちに在日本大韓民国民団に改称)を組織している。これが民団だ。

 朴烈は無政府主義者として知られ、関東大震災時、愛人の日本女性・金子文子とともに治安維持法違反で逮捕されたのち、予審で天皇暗殺を計画していたと供述し大逆罪で死刑判決を受けていた(恩赦で無期懲役に減刑)。一方、取調室で文子と抱擁してみせるなど、かなり人を喰った人物でもあったらしい。そんな彼も獄中で転向、出所時には強固な反共主義者になっていた。

 民団の武闘青年集団が朝鮮建国青年同盟(建青)である。以後、民団と朝連(民戦)は在日社会の主導権を巡って血で血を洗う抗争を展開していく。ヤクザの出入りと変わらない。敵の幹部を拉致し拷問にかける、鉄パイプや日本刀で事務所を襲撃する、物陰からピストルで撃つ、などやり方も実に荒っぽい。側杖を喰った日本人も多かっただろう。

 当時の民団幹部で、自身も朝連によるリンチを経験している権逸氏は『回顧録』の中で、ただでさえ「第三国人」の行状に憎悪を抱いていた日本人の胸に《朝連と建青の絶え間ない抗争は、この憎悪感を増幅させた上に、新たな軽蔑感を生じさせたのではないだろうか》と記している。一般の日本人の間に、「朝鮮人=怖い」という共通認識がこうして植え付けられていったというのである。これを「差別」と言われてはたまったものではない。

 朴烈は同じような境遇をもつ金天海に対し強烈なライバル心と敵愾(てきがい)心をもっていたようで、建青に金の殺害を命じたこともあったが、これは実現しなかった。近年、朴烈事件を題材にした韓国映画『金子文子と朴烈』が日本でも公開され、彼の名を知ったという人も多い。共産党議員の吉良よし子氏などツイッターでこの映画を絶賛していたが、自分の所属する党の大先輩である金天海を殺そうとした男の映画を称賛するというのはなんとも滑稽な話だ。もっとも彼女、日本共産党が数々のテロや騒擾事件を起こし、過去殺人まで犯している暴力集団であったこともおそらくご存じないであろう。
但馬オサム~「在日差別」と言う前に

但馬オサム~「在日差別」と言う前に

朴烈。金天海に強烈なライバル心を持っていたと思われる。
via wikipedia

昭和の裏面史をつくった在日ヤクザ

 最後に在日ヤクザについても言及があるようだ。

《2018年、インディアナ大学のエリック・ラスムセン教授と共同発表した「日本の社会追放者 政治と組織犯罪」という論文で、暴力団の構成員の多くが在日と被差別部落民であるとして、「福岡に基盤を置く工藤會の高位級組織員の一人は、あるドキュメンタリーで、組織員70%が部落民か韓国人だと言った」と説明している》(中央日報2021年3月5日)

 前出『ヤクザと妓生が作った大韓民国』の中で菅沼光弘氏も四代目会津小鉄会・高山登久太郎(姜外秀)から聞いた話として「ヤクザの全構成員のうち60%が同和地区の出身で30%が在日韓国朝鮮人」と語っている。これらの数値は無論、統計的なものではなく、ヤクザ社会に身を置くプロの体感的数値といっていいだろう。ヤクザ世界において在日は数の面でも質の面においても一画をなす勢力だということである。

 在日ヤクザのルーツもまた、敗戦の焼け跡を闊歩していた「第三国人」アウトローたちであるのはいうまでもない。警察力も及ばぬ彼らの横暴の前に体を張って対抗、街の治安を守ってきたのが、いわゆる任侠と呼ばれた人たちだ。関西では神戸を拠点とした田岡一雄三代目組長率いる山口組、関東ではテキヤを束ねる関東尾津組、新興愚連隊の安藤組などが有名である。長い抗争の時代を経て、山口組などの巨大組織はやがて、敵対していた在日ヤクザを吸収していくことになる。高度成長期を迎え裏社会の潮目も大きく変わったのである。

 両者を結びつけるキーパーソンのひとりが、右翼の大立者・児玉誉士夫である。裏社会や自民党に強い発言力をもつ児玉は、幼少時代を朝鮮で過ごしたこともある親韓派で在日社会にも顔が利いた。彼の取り持ちで、在日ヤクザの大物として知られる東声会の町井久之(鄭建永)が田岡山口組組長と兄弟の盃を交わすことになったのは有名な話である。

 町井は、日韓基本条約締結の影の功労者といわれ、政府間ではなかなか手の届かない裏の交渉を一手に引き受けていたのだ。町井の経営する赤坂の妓生(キーセン)ハウス「秘苑」は、自民党政治家と韓国側要人の密会の場として機能していたという。町井は民団中央本部の顧問の肩書ももっていた。東声会の幹部にはあの力道山も名を連ねている。

 また、在日ヤクザはKCIA(韓国中央情報局)を通じて時の朴正煕軍事政権ともつながっており、日本国内におけるさまざまな裏仕事を担っていた。有名なところでは、1973年、民主活動家でのちに大統領になる金大中が東京九段のホテルから拉致された、いわゆる金大中事件で、これには町井や元柳川組組長の柳川次郎(梁元錫)が深く関与していたといわれている。

 他にも在日ヤクザと自民党との関係など、興味深い話は尽きないが、またの機会に譲りたい。

 一般に在日韓国・朝鮮人、とりわけ一世は「差別と貧困と戦いながら健気に生きるアポジ、オモニ」のイメージで語られがちだ。それ自体を否定するつもりはない。しかし、一方で、戦後の荒廃の中を暴力で駆け巡り昭和の裏面史をつくってきた在日の血の轍もあるのである。後者を語るのは、決して差別でも偏見でもない。むしろ、手向けであると筆者は思っている。

但馬 オサム(たじま おさむ)
1962年、東京生まれ。文筆人・出版プロデューサー・国策映画研究会会長。十代のころより、自動販売機用成人雑誌界隈に出入りし、雑文を生業にするようになる。得意分野は、映画、犯罪、フェティシズム、猫と多岐にわたる。著書に『ゴジラと御真影』(オークラ出版)、『韓国呪術と反日』(青林堂)など多数。

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