有本嘉代子さん逝去

 2月3日、拉致被害者有本恵子さんのお母様である嘉代子さんが逝去された。2002年9月の小泉訪朝以降、天国に旅立たれた政府認定の拉致被害者のご両親はこれで7人目だ。ご存命なのは横田めぐみさんのご両親、有本恵子さんのお父様のわずか3人になってしまった。その上、横田滋さんは2018年から入院中である。家族会ができたのは1997年、横田めぐみさんの拉致が明らかになったことが契機だった。

 私は同年から救う会をつくり、ともに活動してきた。実は有本恵子さんのご両親は1988年から救出のための運動を孤独に続けておられた。もちろん、家族会にも創設メンバーとして加わった。嘉代子さんの逝去は、救出運動の中心でともに活動してこられた同志の死という意味があり、訃報を聞いて様々な場面を思い出し、胸が裂かれる思いだった。

 葬儀は家族葬だったので、弔問には行けなかった。そこで2月9日、家族会・救う会の合同会議で参加者一同で嘉代子さんを偲(しの)び、黙禱(もくとう)の時をもった。そのとき、嘉代子さんと親しく付き合ってきた横田早紀江さんと私が思い出を語った。まずはそれを紹介したい。

西岡 〈(嘉代子さんは)よき日本人として私たち全体を指導してくださったのだなと思っています。繰り返し私に言っていた、「家族会・救う会に来る国民のカンパは貴重なものです。西岡先生、大切に使わなければだめですよ」という言葉を思い出します。2002年2月、八尾恵氏の証言によって有本恵子さんが政府認定の拉致被害者となったとき、マスコミの注目を浴びました。その頃から、恵子さんが北京に出てきたとか、小泉訪朝のあった9月17日午前中に恵子さんが生きているという誤報が出たのですが、その度に、「恵子だけではダメなのだ。全員取り戻さなければいけない」と言っておられたことを覚えています。よき日本人として私たち全体を指導してくださって、「きちんとしたことをしなさい」「恥ずかしいことをしてはならない」ということを教えてくださった〝お母さん〟だったなと思っています〉 

横田早紀江 〈42年もの年月が経ちましたが、嘉代子さんは大阪の方で、私は京都なものですから、関西弁ということもあって気風が合って、ずっと仲良くさせていただきました。昨年11月に私が京都の兄夫婦を見舞いに行った日、絶対有本さんに会わなければダメだと不思議にひらめいて、朝からどこかどこかと迷いながら有本さんのところに行きました。本当に喜んでくださって、「よく来てくれたー」と手を取り合いました。温かい手でした。2人で色々話し合って、お父様もわざわざ来てくださいました。昼前に「失礼します」と別れたのですが、本当によかったと思いました。あの時行っていなかったらもう会えなかったかもしれません。

 訃報に接した時も、「あの時行ってよかった」と、そして完全にすべきことを全うして逝かれたのだと思いました。ワシントンで訴えたり、ジュネーブで(国連人権委員会の)デメルさんの話を聞いた時も、私も嘉代子さんも髪が黒かったことも、まざまざと思い出しました。これだけのことをご老体でずっと続けてこられました。日本人でした。本当に日本人でした。私もそうありたいと思いますし、大きなものを残してくださったなと思っています。みんないずれ天に帰るわけですから、その日まで本当の日本人であって、やってきてよかったなというところまで頑張り抜きたいと思います。私の主人も入院しており体調が衰弱していますので、他人事ではなく、本当にどこまで頑張ってくれるだろうかと心配しています〉

 拉致被害者救出運動の状況は一言で言うと、機会と危機の同時進行だ。今は小泉訪朝以来、18年ぶりに訪れた拉致被害者救出の機会だ。金正恩政権が2002年の金正日政権以上に、米国の軍事圧力と経済制裁による外貨不足で存続の危機を迎えた。その上、米国が核ミサイル廃棄と拉致問題を同じテーブルに乗せて対北圧力を強めている。救出のための枠組みはできた。

 一方、重大な危機でもある。親世代の高齢化、被害者自身の高齢化はすでに限界に到達した。この機会を逃したら、家族会の親世代を被害者に会わせるという救出運動の目標が達成できなくなる。嘉代子さんの逝去は、運動の中心にいた家族会メンバーの逝去であり、慚愧(ざんき)に堪えない。

「恵子だけではだめです。全員が帰って来なければだめです」──嘉代子さんの「遺言」をしっかり握りしめなければならない。見せかけの進展でなく、全被害者の即時一括帰国まで制裁を緩めず、北朝鮮に支援しないという現在の姿勢を揺るがせてはならない。

重体説がささやかれる金正恩はどうしている?
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39号室資金の枯渇

 2017年12月までに国連安保理が決定したかつてない厳しい経済制裁は、大変な効果を上げている。その結果、独裁政権を維持し、核ミサイル開発を続けるために必要な金正恩の個人資金が枯渇し始め、党、軍、治安機関、行政機関の幹部らの生活難が深刻化している。金正恩の個人資金は朝鮮労働党39号室が管理している。

 北朝鮮は社会主義だが、政府が管轄する計画経済の外に三十九号室資金が存在する。過去、80年代から90年代半ば、朝鮮総連からの秘密送金がその資金源だった。1993年、内閣調査室が調べたところ、90年代初め、総連が年間18億~20億ドルを送っていたことが判明した。脱税資金と朝銀信用組合を使った公的資金の横流しがその財源だった。

 第1次安倍政権となり、拉致問題への政府方針に「厳格な法執行」が入って警察と税務署が動き、秘密送金ほぼゼロになった。ところが、韓国で金大中、盧武鉉の2代10年の親北左派政権ができ、ドルやコメ肥料を大量に送り、北朝鮮は39号室資金を確保できた。李明博、朴槿惠政権で韓国からの支援も大幅に減り、2017年にトランプ大統領と安倍首相がリードして、国連安保理で北朝鮮の輸出の9割をカットするかつてない厳しい制裁が実施され、ついに40億〜50億ドルだった39号室資金が昨年春の段階で数億ドルまで激減した。

 労働党中央委員会副部長以上の役職には、朝鮮通貨で支給される月給とは別に、毎月、「贈りもの」という名目で外貨(ドルかユーロ)が支給されていた。すでに朝鮮の通貨では、市場でネギや豆腐くらいしか買えない。それ以外は人民元かドルやユーロでないと買い物ができないから、副部長らに外貨の支給があったのだという。ところが昨年10月、それが止まる事態になった。中央委員会には約20の部がある。副部長以上の幹部の人数は100人を超えないはずだ。わずか100人に対してさえ外貨支給ができなくなるほど、39号室資金は枯渇しているのだ。

 副部長の夫人らが平壌の市場に突然現れ、必要なものを告げると、人民保安員(一般警察)が慌てて商人からそれを没収して届けるという事件が頻発し、商人らの顰蹙を買っていると聞いた。一部例外を除く北朝鮮の在外大使館は、数年前から本国から経費や給料が送られず、自給自足と外貨の上納を求められている。その影響で、西側情報機関から毎月固定額の外貨を受け取り情報を提供している外交官が昨年末、多数摘発された。金正日政権は独裁を維持するため、39号室資金によって党、軍、治安機関、政府の幹部らに外国製の贅沢品を贈りものとして配り、忠誠心を買っていた。

 師団長以上の将軍ら全員にベンツを下賜したこともあった。100万人を超える将兵全員に中国製腕時計を配ったこともある。そして、逆らう者は国家安全保衛部(現在の国家保衛省)など治安機関を使って無慈悲に家族連座制で処罰した。典型的なアメとムチの統治だった。

 ところが、金正恩政権は39号室資金の枯渇により幹部らへの贈りものができなくなった。そこで、ムチだけによる恐怖統治を続けている。各機関は少なくなった外貨の分配を得るため、他機関の不正を大きく膨らませて告発し粛清に追い込み、外貨を横取りする。すると別の機関がその機関に同じことをして、外貨を奪う。そうしなければ、幹部でも生活が維持できないのだ。

 治安機関の保衛省でも大規模な粛清があった。金正日時代の幹部はほとんど残っておらず、将官以上の幹部は全員が30代から40代半ばまでの若手に交代したという。その若手幹部は全員、金正恩の妹、金与正の側近だという。昨年12月にも保衛省の幹部の粛清があった。組織局長が処刑され、政治局長(旧政治部長)は家族と一緒に収容所送りになった。

 1月2日、保衛省現役幹部と家族、労働党前職幹部と家族、合計20人が平壌から列車で逃げた。それを知った金正恩は小型飛行機を三池淵飛行場に飛ばし保衛省員と偵察総局員を送り、金亨稷郡で3人を捕まえた。17人は中国に逃げたが、中国当局が10人を捕まえて北朝鮮に引き渡した。逃げた軍需工業部関係前職幹部は核ミサイルに関する極秘情報を持ち出したと疑われているが、彼が捕まったかどうかは分からないという。

 外貨不足に助け船を出したのは中国だった。大量の観光客を北朝鮮に送り、外貨を落とさせている。日本経済新聞の報道(2019年11月5日)によると、中国人観光客は2017年に年間80万人、2018年は120万人、2019年も120万人を上回る勢いだ(なお、韓国政府統計庁によると2018年の訪朝中国人観光客は20万人だが、100万人の差異は、丹東から新義州への日帰り観光を含むか否かの差である可能性が高い)。

 2019年6月、訪朝した習近平は観光客200万人を送ることを約束したという情報がある。国連制裁に観光禁止が明記されていないことを利用した、事実上の制裁破りだ。韓国の文在寅大統領は今年の新年会見で、韓国人の対北個人観光を許可する構想を口にした。すぐ、ハリス在韓米国大使から米国による制裁の対象になり得るから、「事前に米韓政府間協議が必要だ」という牽制を受けた。ところが、大統領府の高官は、「大使が大統領の発言にコメントするのは失礼だ」と言い放ち、与党幹部は「ハリス大使は新しい朝鮮総督なのか」という反米発言を行った。文政権は、何とか金正恩を助けるために外貨を送りたくて仕方がないようだ。

新型肺炎に怯える金正恩

 ところが、北朝鮮はコロナウイルス(新型肺炎)により1月末に国境を完全に封鎖したため、観光客の入国もゼロとなった。そのため、韓国政府も個人観光の検討を留保せざるを得なくなった。脱北者の専門家によると、国境封鎖の理由は人民の健康への心配ではなく、単純に金正恩への感染を恐れての措置だという。

 新型肺炎は感染力が強いが、健康な成人であれば感染しても死亡することはほぼないと言われている。しかし金正恩は現在、健康な成人ではないので感染を極度に恐れているのだ。

 6月に板門店でトランプ大統領と会ったとき、金正恩は息を切らす場面があった。心臓か肺、あるいはその両方が悪いのではないかという情報機関の分析もある。また腎臓が悪く、糖尿病もあると言われている。あれだけの肥満であれば、成人病を多数抱えていてもおかしくない。

 北朝鮮当局は認めていないが、「新型肺炎で40人死亡」という内部情報を韓国の金泌在記者が2月6日、YouTubeで伝えた。私は金記者に会って詳しく背景を聞き、かなり信憑性が高い情報と判断できた。国境封鎖が2週間以上続き、北朝鮮の一般人民から「このままでは1990年代半ばと同じような大量餓死が起きる」という悲鳴が上がっている。彼らは国家からの配給を当てにせず、自分たちが何らかの商売を行って食べてきた。その商売の場がチャンマダンと呼ばれる市場だ。2月に入り、チャンマダンの物価が急騰している。中国からの輸入品である食用油や小麦粉は数倍に上がり、大部分が国産のコメとトウモロコシも20~30%上がった。

 1月20日と2月10日を比較すると、

・コメ1キロ:4500ウォン→5500ウォン(平壌)、4500→5500(恵山)
・トウモロコシ1キロ:1100→1400(平壌)、1200→1500(恵山)

 となっている(自由北韓放送調べ)。金持ちが買い占めに走り、当局が高値でコメやトウモロコシを売る商人を取り締まっているという。
一般人民の中で小金を持っている者は、コメやトウモロコシの価格が1年で一番安い秋に1年分を買っておくという。しかし、それができないその日暮らしの貧困者らは、主食であるトウモロコシが高騰したら餓死するしかない。新型肺炎よりも今日のメシを解決してほしいと悶えているようだ。6月までこの状態が続いたら、食糧暴動も起こり得ると先の脱北者の専門家らは指摘する。

 最後に、金正恩の健康がかなり悪いのではないかと推測できる材料を提示しておく。昨年10月、党組織を通じて生まれた子どもに김령주(キム・リョンジュ)、김일봉(キム・イルボン)という名前を付けないよう命令が下った。その背景について平壌では、次のような噂が広がっている。金正日も後継者に決まってから、同じ名前を付けるなと命令が下りた。金正恩はまだ若いが、後継者を決めなければならないほど病気が重いのかもしれない。

 金与正政権への布石金正恩は9歳の長女と、6歳の次女がいる。米国人バスケットボール選手のデニス・ロッドマンが訪朝したとき、金正恩は娘に会わせている。ところが、11歳になる長男もいるという。彼は本妻の李雪柱の子ではないらしい。金正恩は李雪柱に男の子を産ませたかったが、健康悪化でそれを諦め、11歳の長男を将来の後継者に決め、その名前を人民が付けることを禁止した。2つの名前を禁止したのは、1つだと長男の名前がバレてしまうからという理由だ。

 私はあるラインから、その息子の母が玄松月宣伝扇動部副部長だという情報を聞いた。脱北者の康明道氏も同じ情報を自分が主宰するネットテレビで公開した。歌手出身の彼女は金正恩だけに忠誠を誓うとして離婚し、一人で子どもを育てており、現在、金正恩の妹・与正の後任として金正恩の全ての日程を管理する随行秘書の役割を担っている。金正恩が11歳の息子に権力をわたすには、少なくともあと10年は生きなければならない。

 それが不可能な場合、中継ぎとして妹の与正に継がせることを考えている。その際、女性の指導者に対する拒否感が生まれることを予想し、白頭の血筋(金日成直系)全員が与正に忠誠を誓っているという演出をするため、粛清した張成沢の妻・金慶姫を六年ぶりに表に出し、金正日の異母弟・金平一を平壌に呼び戻した。

 以上の中で事実は、2つの名前を禁止したこと、金慶姫が6年ぶりに出てきたこと、金平一が帰国したことだけだ。国境を封鎖し、経済を破綻させてまでも金正恩が命の危険を感じていることからして、平壌で広がっている噂を根拠ナシと一蹴することはできない。

 実は私は数年前、情報源から金慶姫は張成沢処刑に強く抗議し、金正恩を叱責し続けたので毒殺されたという内部情報を入手していた。韓国の脱北者らも金慶姫が2014年5月に死亡し、金正恩に殺された疑いがあるという情報を、YouTubeなどで繰り返し公表していた。一方、韓国の国家情報院は公式に、金慶姫が平壌近くで療養中に死亡したという説は間違いだと主張していた。日韓のマスコミは今回、北朝鮮からの報道を疑わず、金慶姫の生存が確認されたと一斉に報じた。

 しかし、一部脱北者らからは、改めて今回登場した金慶姫は偽者で、金慶姫は金正恩によって殺されたことは間違いないという主張が出ている。その中で特に注目されるのは、金正恩の秘密資金を管理している39号室の元課長である李正浩氏が、2014年5月に金慶姫が死んだことを金正恩が当時の国家保衛部長の金元弘に直接伝えていたという情報などを根拠に、強く金慶姫死亡説を主張していることだ。李氏は39号室傘下の大興総会社大連支社長のとき、39号室の資金500万ドルを持って韓国に亡命した。現在は米国で活動している。

 李氏は、「金正恩が叔母である金慶姫を殺し、側近を皆処刑したので衝撃を受けて亡命を決心した。そのとき、慶姫暗殺は平壌では秘密でも何でもなく、党中央や中央機関の幹部たちはみな知っていた」と話している。李氏はネットテレビ「NKニュース」(1月28日配信)で、こう語った。張成沢が処刑されて5カ月が経った2014年5月初め、国家安全保衛部の活動家大会が平壌の4.25文化会館で行われた。地方からも多数の保衛部幹部が参加した。

 大会の目的は張成沢事件に終止符を打ち、保衛部の士気を上げることだった。参加者3000人は、金正恩が大会に出席して全員と記念撮影すると言われ、2日間待機していた。ところが、金正恩は来なかった。そこで金元弘部長がその場で参加者3000人に金正恩に対する忠誠の手紙を書かせ、提出した。それを受けて金正恩は「金元弘部長に直接電話をかけ、叔母である金慶姫が突然死亡したので記念撮影に行けなかった」と伝えた。

 金元弘部長は、それを保衛部の局長級幹部に伝えた。李氏は保衛部の友人からそのことを聞いた。当時、平壌では多くの幹部らがそのことを知っていた。
西岡 力(にしおか つとむ)
1956年、東京生まれ。国際基督教大学卒業、筑波大学大学院地域研究科修了。延世大学留学。外務省専門調査員、月刊『現代コリア』編集長を歴任。2016年、髙橋史朗氏とともに「歴史認識問題研究会」を発足。正論大賞受賞。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」会長。朝鮮問題、慰安婦問題に関する著書多数。

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