追い詰められる「新天地」
朴元淳ソウル市長が、李萬煕教祖率いる「新天地イエス教会」の幹部を殺人罪等で告発したという。確かに、信者に武漢肺炎感染者を出しながらも礼拝や集会を続け、かつそれらの事実を隠蔽した結果、韓国全土に感染を拡大させてしまったことの責任は重い。しかし、だからといって、いきなり殺人罪というのも極端な話で、このあたりは実に韓国的だと言えるかもしれない。おそらく、文在寅政権は今年4月の総選挙に向けて、感染拡大の責任をひとり「新天地」に押し付けるためのマスコミ工作を仕掛けていると思われる。
当初、李教祖は、教団での武漢肺炎蔓延を「新天地の急成長を見た悪魔が、これを阻止しようとして起こした仕業」と信者に説明していたが、3月2日に行われた記者会見では、一転、土下座して詫びてみせた。「イエスの再誕」を自称する彼にとって、これ以上ない屈辱だったに違いない。 気になるのは、新天地がその教団名からもわかるように「ヨハネの黙示録」を独自解釈した終末論を基本とするカルトであることである。李教祖は「最後の審判の日に14万4千人を天国に連れていく」と豪語している。黙示録によれば、世界の終末ののち、イエスが再降臨し、死者を蘇らせ最後の審判を行い、天国に行く者と地獄行きになる者を峻別するのだという。天国に送られた者は永遠の生命が約束されると黙示録は説く。したがって、李教祖の言葉を額面通りに取れば、「イエスの再誕である自分が、最後の審判を行い、信徒の中でもとりわけ信仰心の篤い14万4千人を選んで天国に送る」という意味にも取れる。
これを単なる一カルト教祖の誇大妄想、あるいは駄ボラと一笑に付すことはできない。「天国に連れていく」ということは、言葉を替えれば、信者の生殺与奪を李教祖が握っているというのと同義である。政権とマスコミの新天地叩きがこれ以上進んでいけば、彼らはますます「悪魔」、つまり外的要因による教団弾圧を意識するようになるだろう。
追い詰められたカルトが先鋭的になるケースは歴史的に珍しいものではない。
その攻撃性が外に向かった代表的な例がオウム真理教の地下鉄サリン事件である。オウムが教団の武装化、ひいてはテロに走った背景には、1990年(平成2年)の衆議院総選挙での麻原彰晃教祖以下25人の候補者全員の落選がある。これを「国家権力による陰謀」として、武力による宗教クーデターを目指したのだ。オウムもまた、ハルマゲドンなど黙示録の独自解釈で知られていた。
一方、攻撃性が内部へ向かうとき、それは教団の集団自死へと向かう。こちらのケースでまず思い浮かぶのは1978年(昭和53年)、ガイアナ共和国で起こった人民寺院事件である。人民寺院はジム・ジョーンズ教祖率いるキリスト教カルトで、当時、教団は南米ガイアナにジョーンズタウンと称する巨大なコミューンをつくって共同生活を行っていた。ジョーンズタウン内部で信者の監禁や暴力が行われているという報告を受け、レオ・ライアン米下院議員が視察を行ったが、事件はライアン議員が数人の教団離脱者と共に帰国の途に就こうとしたときに起こった。飛行場に待ち伏せしていた信者によって議員は銃殺され、これを狼煙にしてジョーンズタウンでは、ジョーンズ教祖の命令による集団自死が始まるのである。青酸カリをあおって死んだ信者は918人。うち276余人は子供だったという。
カルト信者の集団自死といえば、日本でも1937年(昭和12年)、東京蒲田に本拠を置く日蓮宗系新興宗教「日蓮会殉教衆青年党」(通称・死なう団)の信者5人が、首相官邸や国会前で「死のう、死のう」と叫んで割腹(いずれも未遂)する事件が起こっている。世にいう「死なう団事件」である。
同じ年、日本統治下の朝鮮京城では、信者314人が集団殺害される白白教事件があった。これも一種の自死現象とみていいだろう。
信仰はときにタナトス(ギリシア神話に登場する「死」を神格化した女神)と紙一重である。殉教は天国に生まれ変わる一番の近道だからだ。
李教祖と新天地に、騒乱やテロ、武力によるクーデターを引き起こす力はない。いきおい、破壊衝動は内側に向かうだろう。李教祖とて88歳。老い先を考えれば、追い詰められた末に信者を道連れに選ぶということも充分考えられる。彼が一言、「最後の審判が今訪れた」といえば、それが合図となるはずだ。14万人といえば、世界の武漢肺炎全感染者数(死者数ではない)とほぼ同数である。
当初、李教祖は、教団での武漢肺炎蔓延を「新天地の急成長を見た悪魔が、これを阻止しようとして起こした仕業」と信者に説明していたが、3月2日に行われた記者会見では、一転、土下座して詫びてみせた。「イエスの再誕」を自称する彼にとって、これ以上ない屈辱だったに違いない。 気になるのは、新天地がその教団名からもわかるように「ヨハネの黙示録」を独自解釈した終末論を基本とするカルトであることである。李教祖は「最後の審判の日に14万4千人を天国に連れていく」と豪語している。黙示録によれば、世界の終末ののち、イエスが再降臨し、死者を蘇らせ最後の審判を行い、天国に行く者と地獄行きになる者を峻別するのだという。天国に送られた者は永遠の生命が約束されると黙示録は説く。したがって、李教祖の言葉を額面通りに取れば、「イエスの再誕である自分が、最後の審判を行い、信徒の中でもとりわけ信仰心の篤い14万4千人を選んで天国に送る」という意味にも取れる。
これを単なる一カルト教祖の誇大妄想、あるいは駄ボラと一笑に付すことはできない。「天国に連れていく」ということは、言葉を替えれば、信者の生殺与奪を李教祖が握っているというのと同義である。政権とマスコミの新天地叩きがこれ以上進んでいけば、彼らはますます「悪魔」、つまり外的要因による教団弾圧を意識するようになるだろう。
追い詰められたカルトが先鋭的になるケースは歴史的に珍しいものではない。
その攻撃性が外に向かった代表的な例がオウム真理教の地下鉄サリン事件である。オウムが教団の武装化、ひいてはテロに走った背景には、1990年(平成2年)の衆議院総選挙での麻原彰晃教祖以下25人の候補者全員の落選がある。これを「国家権力による陰謀」として、武力による宗教クーデターを目指したのだ。オウムもまた、ハルマゲドンなど黙示録の独自解釈で知られていた。
一方、攻撃性が内部へ向かうとき、それは教団の集団自死へと向かう。こちらのケースでまず思い浮かぶのは1978年(昭和53年)、ガイアナ共和国で起こった人民寺院事件である。人民寺院はジム・ジョーンズ教祖率いるキリスト教カルトで、当時、教団は南米ガイアナにジョーンズタウンと称する巨大なコミューンをつくって共同生活を行っていた。ジョーンズタウン内部で信者の監禁や暴力が行われているという報告を受け、レオ・ライアン米下院議員が視察を行ったが、事件はライアン議員が数人の教団離脱者と共に帰国の途に就こうとしたときに起こった。飛行場に待ち伏せしていた信者によって議員は銃殺され、これを狼煙にしてジョーンズタウンでは、ジョーンズ教祖の命令による集団自死が始まるのである。青酸カリをあおって死んだ信者は918人。うち276余人は子供だったという。
カルト信者の集団自死といえば、日本でも1937年(昭和12年)、東京蒲田に本拠を置く日蓮宗系新興宗教「日蓮会殉教衆青年党」(通称・死なう団)の信者5人が、首相官邸や国会前で「死のう、死のう」と叫んで割腹(いずれも未遂)する事件が起こっている。世にいう「死なう団事件」である。
同じ年、日本統治下の朝鮮京城では、信者314人が集団殺害される白白教事件があった。これも一種の自死現象とみていいだろう。
信仰はときにタナトス(ギリシア神話に登場する「死」を神格化した女神)と紙一重である。殉教は天国に生まれ変わる一番の近道だからだ。
李教祖と新天地に、騒乱やテロ、武力によるクーデターを引き起こす力はない。いきおい、破壊衝動は内側に向かうだろう。李教祖とて88歳。老い先を考えれば、追い詰められた末に信者を道連れに選ぶということも充分考えられる。彼が一言、「最後の審判が今訪れた」といえば、それが合図となるはずだ。14万人といえば、世界の武漢肺炎全感染者数(死者数ではない)とほぼ同数である。
オカルトが政治へ
韓国のテレビニュースを見ると、李萬煕教祖が土下座パフォーマンスの際、朴槿惠前大統領のサイン入りの金時計をはめていたことをことさらのように報じていたが、これもまた、新天地と朴前政権を印象的に結びつけ、朴シンパの保守層のイメージダウンを狙った文政権の選挙戦略と見えなくもない。韓国では大統領が、サインの入った腕時計を来賓や有力者に贈ることはよくあることなのだ。事実、文在寅大統領のサイン入り腕時計というものもあって、一時期、中古取引サイトでは100万ウォン(約10万円)の買取り価格がついていたという。何事も権威とコネがモノをいう韓国社会、大統領の腕時計はそれだけのご威光があるということなのだろう。もちろん、時計を贈る大統領の方にも大きな意味がある。宗教団体といえば、大きな票田だ。為政者とすれば、その教祖と仲よくすることに損はあるまい。
韓国はカルト天国と言っていいだろう。無数のカルトが存在し、政財界にもさまざまな形で食い込んでいる。そもそも大統領付きの風水師がいて政策に助言を与えているというお国柄である。金大中がかつて公約に掲げ、盧武鉉の治政時に再び浮上した遷都計画、この背後にも遷都地選びを巡って複数の風水師の利権争いがあったという。
韓国のカルト教といって、日本人がまず思い浮かぶのは、おなじみの統一教会、教祖の女性信者に対する性犯罪で一躍有名になった摂理(キリスト教福音宣教会)、小牧者訓練会(国際福音キリスト教会)あたりだろう。これに、冒頭で挙げた新天地も加わったわけだ。
いずれもキリスト教(プロテスタント)系のカルトである。韓国は人口の40%をキリスト教徒が占める、アジア有数の「準キリスト教国」といえる。そのうち、天道教(カトリック)とプロテスタント諸派の比率は1対2であり、圧倒的にプロテスタント有利である。
ひどく俗な譬(たと)えで申し訳ないが、カトリックの教会がヴァチカンの○○支店であるなら、プロテスタントのそれは個人商店に近い。特に韓国キリスト教にその傾向が強いのだ。ということは、教会の運営はひとえに牧師(教祖)の個性に左右されることになり、いきおいカルト化に向かう要素を持っているということだ。あえて言うが、統一教会や摂理が特別なのではなく、すべての韓国系キリスト教はカルト的要素を含んでいると見るべきだ。
キリスト教と儒教が融合したものが韓国キリスト教だという人がいるが、私の見解は少し違う。キリスト教と土俗のシャーマニズムが融合したのが韓国キリスト教の正体なのだ。
もともと朝鮮は巫堂(ムーダン)を中心としたシャーマン信仰が根強い土地である。巫堂は「神降ろし」や「死者の口寄せ」を生業にする女性のことで(数は少ないが男性巫堂もいる)、本来は賤業ではあるが、広く民衆の生活に溶け込み、ときに閔妃のような権力者の庇護を受け権勢を誇る者もいた。
巫堂の衰退期は過去2度あった。1度目は日韓併合による急激な近代の流入、2度目は戦後、朴正煕大統領によって提唱された迷信撲滅運動による。朴大統領は、地域社会の発展を阻害する元凶を、巫覡(神に仕える者)を含む迷信因習の類であるとしたのだ。
この運動によって巫堂は前時代の遺物として社会から排斥されていったが、それと入れ替わるように隆盛し始めたのがプロテスタント諸派の新宗教だった。より正確にいえば、キリスト教が巫堂に取って代わったということである。
たとえば、巫堂の重要な仕事に「クッ」と呼ばれる憑依によるお告げと鬼神封じの儀式がある。韓国キリスト教でもまったく同じで、病気、貧困、家庭不和などあらゆる現世の不幸を鬼神(悪魔)の仕業と考え、牧師はこれを駆除する悪魔祓い師の役目を担っている。もともと、プロテスタントにはペンテコステ派という、トランス状態による異言を重要視する一派もあり、その意味では韓国巫覡とも相性がよかったのかもしれない。
悪魔祓いの儀式では、牧師と信者が一対一で行うものから、数10人、ときには数100人相手の集団トランスまでさまざまだ。韓流牧師の女性信者への性犯罪のニュースがしばしば日本にも届くが、その犯行の多くが、悪魔祓いの最中に起きていることも記しておこう。
ちなみに、朴正煕は敬虔な仏教徒であり、かつ民主化運動(つまり反朴政権運動)を扇動しているのがキリスト教諸団体だと看破して、終生キリスト教に対しては冷淡だった。その朴正煕の迷信撲滅運動が、結果的に宿敵であるキリスト教と巫覡を結びつけ活性化させたということになる。
1981年、ソウル市で登録されたキリスト教会は4429を数え、喫茶店や薬局の数を超えたという。朴正煕の暗殺の2年後というのは実に暗示的である。
韓国はカルト天国と言っていいだろう。無数のカルトが存在し、政財界にもさまざまな形で食い込んでいる。そもそも大統領付きの風水師がいて政策に助言を与えているというお国柄である。金大中がかつて公約に掲げ、盧武鉉の治政時に再び浮上した遷都計画、この背後にも遷都地選びを巡って複数の風水師の利権争いがあったという。
韓国のカルト教といって、日本人がまず思い浮かぶのは、おなじみの統一教会、教祖の女性信者に対する性犯罪で一躍有名になった摂理(キリスト教福音宣教会)、小牧者訓練会(国際福音キリスト教会)あたりだろう。これに、冒頭で挙げた新天地も加わったわけだ。
いずれもキリスト教(プロテスタント)系のカルトである。韓国は人口の40%をキリスト教徒が占める、アジア有数の「準キリスト教国」といえる。そのうち、天道教(カトリック)とプロテスタント諸派の比率は1対2であり、圧倒的にプロテスタント有利である。
ひどく俗な譬(たと)えで申し訳ないが、カトリックの教会がヴァチカンの○○支店であるなら、プロテスタントのそれは個人商店に近い。特に韓国キリスト教にその傾向が強いのだ。ということは、教会の運営はひとえに牧師(教祖)の個性に左右されることになり、いきおいカルト化に向かう要素を持っているということだ。あえて言うが、統一教会や摂理が特別なのではなく、すべての韓国系キリスト教はカルト的要素を含んでいると見るべきだ。
キリスト教と儒教が融合したものが韓国キリスト教だという人がいるが、私の見解は少し違う。キリスト教と土俗のシャーマニズムが融合したのが韓国キリスト教の正体なのだ。
もともと朝鮮は巫堂(ムーダン)を中心としたシャーマン信仰が根強い土地である。巫堂は「神降ろし」や「死者の口寄せ」を生業にする女性のことで(数は少ないが男性巫堂もいる)、本来は賤業ではあるが、広く民衆の生活に溶け込み、ときに閔妃のような権力者の庇護を受け権勢を誇る者もいた。
巫堂の衰退期は過去2度あった。1度目は日韓併合による急激な近代の流入、2度目は戦後、朴正煕大統領によって提唱された迷信撲滅運動による。朴大統領は、地域社会の発展を阻害する元凶を、巫覡(神に仕える者)を含む迷信因習の類であるとしたのだ。
この運動によって巫堂は前時代の遺物として社会から排斥されていったが、それと入れ替わるように隆盛し始めたのがプロテスタント諸派の新宗教だった。より正確にいえば、キリスト教が巫堂に取って代わったということである。
たとえば、巫堂の重要な仕事に「クッ」と呼ばれる憑依によるお告げと鬼神封じの儀式がある。韓国キリスト教でもまったく同じで、病気、貧困、家庭不和などあらゆる現世の不幸を鬼神(悪魔)の仕業と考え、牧師はこれを駆除する悪魔祓い師の役目を担っている。もともと、プロテスタントにはペンテコステ派という、トランス状態による異言を重要視する一派もあり、その意味では韓国巫覡とも相性がよかったのかもしれない。
悪魔祓いの儀式では、牧師と信者が一対一で行うものから、数10人、ときには数100人相手の集団トランスまでさまざまだ。韓流牧師の女性信者への性犯罪のニュースがしばしば日本にも届くが、その犯行の多くが、悪魔祓いの最中に起きていることも記しておこう。
ちなみに、朴正煕は敬虔な仏教徒であり、かつ民主化運動(つまり反朴政権運動)を扇動しているのがキリスト教諸団体だと看破して、終生キリスト教に対しては冷淡だった。その朴正煕の迷信撲滅運動が、結果的に宿敵であるキリスト教と巫覡を結びつけ活性化させたということになる。
1981年、ソウル市で登録されたキリスト教会は4429を数え、喫茶店や薬局の数を超えたという。朴正煕の暗殺の2年後というのは実に暗示的である。
牧師=てっとり早い商売
韓国系キリスト教会のシンボルは、あの悪趣味きわまる赤いネオンの十字架だ。夜半ソウルの街は十字架のネオンで真っ赤に染まる。よく見ると雑居ビルの一室やアパートの2階といったおよそ教会らしくない場所にも十字架がかかっている。
ご存じのように、プロテスタントはカトリックほど教会を重視していない。カトリックの神父は「ファザー」と呼ばれるが、プロテスタントの牧師は「先生」である。あくまで、牧師は神学を教える「先生」であり、教会は「教室」といった扱いである。教室だから雑居ビルでも、ぼろアパートの一室でも成り立つのだ。さらにいえば、韓国では牧師は手っ取り早い商売のひとつなのである。チキン屋を開くか、牧師になるか、人から「先生」と呼ばれるだけ牧師の方が偉いという考え方なのだ。
韓国MBCニュースによると、韓国国内には無許可のニセ神学校が400校余りあり、そこでは平均500万ウォン(約47万円)で「牧師」の資格が買えるのだという。すでにこのやり方で1万人強のナンチャッテ牧師が誕生しているとも報じていた。2013年8月、インド南部バンガロールで孤児院を営む韓国人宣教師が現地少女への性暴行で逮捕される事件があったが、彼の前職はタクシーの運転手だった。神学校に1カ月通っただけで宣教師資格を収得したというが、おそらくは買ったものなのだろう。
韓国では、大は女優チェ・ジウを広告塔に自前の衛星放送局をもつ「オンヌリ教会」のようなメガチャーチから、小は地下鉄の構内で手製のビラを配って布教活動にいそしむ一家3人の零細教会にいたるまでひしめき合い「信者集め」に余念がない。わずか5人の信者から出発して、半世紀の間で単立教会では世界一の信者数78万人(公称)を誇る「汝矣島(ヨイド)純福音教会」の趙鏞基教祖はまさにコリアン・ドリームの体現者と言えよう。
ちなみに、汝矣島教会はペンテコステ派の流れを汲む教団で、趙牧師の祈禱(悪魔祓い)のトランス誘導にはつとに定評があったという。こう見ると、韓流牧師というのはどこかジゴロに似ている気がする。ジゴロにとって必要なのは口の上手さと閨での技巧である。宗教家ならば口の上手さはいうまでもないが、では閨の技に当たるのが何かといえば、悪魔祓いのテクニックに他ならない。信者を巧みにトランスに導きエクスタシーを体験させる技術だ。この巧拙が、最終的な信者数を左右するのである。
ご存じのように、プロテスタントはカトリックほど教会を重視していない。カトリックの神父は「ファザー」と呼ばれるが、プロテスタントの牧師は「先生」である。あくまで、牧師は神学を教える「先生」であり、教会は「教室」といった扱いである。教室だから雑居ビルでも、ぼろアパートの一室でも成り立つのだ。さらにいえば、韓国では牧師は手っ取り早い商売のひとつなのである。チキン屋を開くか、牧師になるか、人から「先生」と呼ばれるだけ牧師の方が偉いという考え方なのだ。
韓国MBCニュースによると、韓国国内には無許可のニセ神学校が400校余りあり、そこでは平均500万ウォン(約47万円)で「牧師」の資格が買えるのだという。すでにこのやり方で1万人強のナンチャッテ牧師が誕生しているとも報じていた。2013年8月、インド南部バンガロールで孤児院を営む韓国人宣教師が現地少女への性暴行で逮捕される事件があったが、彼の前職はタクシーの運転手だった。神学校に1カ月通っただけで宣教師資格を収得したというが、おそらくは買ったものなのだろう。
韓国では、大は女優チェ・ジウを広告塔に自前の衛星放送局をもつ「オンヌリ教会」のようなメガチャーチから、小は地下鉄の構内で手製のビラを配って布教活動にいそしむ一家3人の零細教会にいたるまでひしめき合い「信者集め」に余念がない。わずか5人の信者から出発して、半世紀の間で単立教会では世界一の信者数78万人(公称)を誇る「汝矣島(ヨイド)純福音教会」の趙鏞基教祖はまさにコリアン・ドリームの体現者と言えよう。
ちなみに、汝矣島教会はペンテコステ派の流れを汲む教団で、趙牧師の祈禱(悪魔祓い)のトランス誘導にはつとに定評があったという。こう見ると、韓流牧師というのはどこかジゴロに似ている気がする。ジゴロにとって必要なのは口の上手さと閨での技巧である。宗教家ならば口の上手さはいうまでもないが、では閨の技に当たるのが何かといえば、悪魔祓いのテクニックに他ならない。信者を巧みにトランスに導きエクスタシーを体験させる技術だ。この巧拙が、最終的な信者数を左右するのである。
宗教に無防備な日本人
しかし、どちらにしろ狭い韓国内で、教団や教会はすでに飽和状態といっていい。これ以上の信者拡大を求めるとすれば、国外に出なければいけない。そこで彼らが目をつけたのが、クリスチャンの人口が0.2%というキリスト教不毛の土地「日本」である。
60年代に原理運動として移植された統一教会を例外とすれば、日本に韓国系キリスト教の流入が本格的に始まったのは80年代末から90年代初頭にかけてで、このころ、東京でも盛り場の雑居ビルに赤い十字架が目立つようになった。当初は、日本人向けの布教というよりも、韓国系ニューカマーたちのためのものだった。ニューカマーの多くはホステスなどのサービス業だったから、盛り場に集中していたのも道理だ。
東京新宿の淀橋教会のように、金曜日の夜だけニューカマーに礼拝を開放するというケースもあった。この淀橋教会韓国部を母体としてでき上がったのが、キャンパス・カルトとして近年問題視されている「ヨハン早稲田キリスト教会」である。大学内に入り込み、さまざまなサークルに擬態し学生を勧誘し、合宿セミナーで洗脳を行う。信者の監禁や過酷な集金ノルマなど、かつての統一教会と似ている。教祖は金圭東という。
ついで、今世紀に入ったころ、既存のプロテスタント教会が韓国キリスト教と積極的に交流を持つようになっていく。というのも、多くの教会では牧師の代替わりが始まっていたが、後継者不足に悩んでいた。そこで同じ宗派ということで韓国から牧師を派遣してもらうのである。
無論、この時点で韓流牧師のカルト性に気づくこともない。韓国人牧師の教会に韓国人信者が集まりコミュニティをつくり、やがて地域の日本人信者も呑み込まれていくようになるのだ。
戦後のプロテスタント教会(カトリックも、だが)は、かなり左傾化しており、抗日史観的な韓国系キリスト教を受け入れやすかったという点も見逃せないだろう。3.1騒乱を陰で扇動していたのは英米のキリスト教勢力であったことはよく知られているし、安重根、柳寛順、金九といった独立運動家やテロリストはのきなみクリスチャンであった。
ちなみに、左翼活動家の顔ももつ日本基督教団山手教会(東京渋谷)の創立者である平山照次牧師は、「女性国際戦犯法廷」の仕掛け人、松井やよりの父である。
そして、2011年の東日本大震災。日本人にとって、あの大震災は忘れることのできない深い傷となって記憶されるが、韓流牧師は、リバイバル(大量改宗)のチャンスと見たようだ。
先に紹介した汝矣島教会の趙鏞基は、大震災の翌日である3月12日にネット新聞「ニュース・ミッション」のインタビューで「(震災は)偶像崇拝と物質主義に明け暮れ神様を遠ざけてきた日本への神様からの警告」と発言、また13日には江南教会の金聖光は「日本には偶像は八百万ある。天皇は津波を防げなかった。天皇を祀る罪を見て神様が大地を揺さぶったのだ」と日曜礼拝で語り、さすがにこれらには韓国国内からも不謹慎との声が挙がったが、「日本人=偶像崇拝を行う霊的に劣った存在」という考え方は韓流牧師のほぼ共通したもので、この場合、偶像というのは神社と天皇のことである。「八百万の神」を文字通り八百万と解釈しているのも、どこかホホえましいではないか。「迷信と800万個の偶像に仕える日本人たちが、神を知らずに死んでいく魂になるのを捨て置けない」と、これは米アリゾナ在住の左永振宣教師の弁だ。
要するに、大地震は、不信心な日本人への懲罰であり、その日本人の魂の救済(布教)に乗り出さないといけないと言っているのである。
「クリスチャン人口が0.2%の日本は韓国教会にとって霊的にニネベと言えるでしょう」と堂々とホームページで言い切るのは「ヨナ祈禱会」なる韓国系キリスト教の団体だ。ニネベとは旧約聖書「ヨナ書」に出てくる悪しき異教徒の棲む穢れた都市のことである。神にニネベでの布教を命じられた預言者ヨナは、最初、それを拒んで海中に没するが、鯨に呑み込まれニネベまで運ばれる。神の命令に逆らえぬことを悟ったヨナは、ニネベの王に神の声を伝えると、王以下、ニネベの民はことごとく悔い改めたという。
つまり「われわれは神の使いとして、霊的に穢れた日本へ伝道に来た」といいたいらしい。
宮城や岩手などの被災地には、キリスト教団体の青年部なども積極的にボランティアとして参加しているようだが、その中には韓国系キリスト教関係者も少なからずいて、避難所にギターなどを持ち込み、わけのわからない歌を歌い布教に励んでいると、これは現地の声として筆者の耳にも届いている。末端の信者の多くは善意で参加していると思いたいが、彼らにとってあくまで被災者は「神を知らぬ穢れた民」でしかないのは確かなのである。
韓国キリスト教のこういった、独善的で傲慢、上から目線の態度は、彼らがボランティアと称して派遣された世界中の被災地で、現地の人たちとの軋轢(あつれき)を引き起こしている。
たとえば、2015年のネパール大地震の際、現地入りした韓国系キリスト教のNGO団体「グッドピープル」の緊急医療チームのメンバーが「今回の地震はヒンドゥー教を信じているから起こった」と発言して大問題となった。イスラム教国のリビアの難民キャンプで子供たちにお菓子と引き換えに「ハレルヤ」と言わせて、これも世界中の非難を浴びた。
ところが、日本人の多くは、戦後の自虐史観によって韓国への過度な贖罪意識を刷り込まれていて、これが韓国キリスト教の異様さから目を覆っている。彼らは、日本人の贖罪意識も布教の武器としているのだ。ドーム会場を使ったメガ布教イベント「ラブソナタ」で有名なオンヌリ教会の機関誌「オンヌリ新聞」(2007年7月17日付)にはこう書かれている。
《この日の礼拝で現地の日本人聖徒300人余りは、聖霊が導く感動によって、日本が過去に韓国に犯した過ちに対する赦しを求め、跪いて涙を流し、ラブソナタのスピリットである、信仰と和解の一致がおこりました》
赦す側、赦しを乞う側という、韓国人の好む二元論的上下関係が信仰の世界にも構築されているのだ。
ちなみにオンヌリの教祖・河用祚(故人)もまた、「日本が地震に見舞われたのはサタンの国」だといってはばからぬ典型的な反日牧師の1人である。
おそろしいのは、このような反日思想をもったカルト教が、次々に日本へ入ってきているということである。かの「新天地」も武漢肺炎拡大の責任追及を逃れるために、密かに本拠地を日本に移す計画があるという噂もあったが、今回の入国制限強化で、それはどうにか防ぐことができた。しかし、油断は禁物だろう。
60年代に原理運動として移植された統一教会を例外とすれば、日本に韓国系キリスト教の流入が本格的に始まったのは80年代末から90年代初頭にかけてで、このころ、東京でも盛り場の雑居ビルに赤い十字架が目立つようになった。当初は、日本人向けの布教というよりも、韓国系ニューカマーたちのためのものだった。ニューカマーの多くはホステスなどのサービス業だったから、盛り場に集中していたのも道理だ。
東京新宿の淀橋教会のように、金曜日の夜だけニューカマーに礼拝を開放するというケースもあった。この淀橋教会韓国部を母体としてでき上がったのが、キャンパス・カルトとして近年問題視されている「ヨハン早稲田キリスト教会」である。大学内に入り込み、さまざまなサークルに擬態し学生を勧誘し、合宿セミナーで洗脳を行う。信者の監禁や過酷な集金ノルマなど、かつての統一教会と似ている。教祖は金圭東という。
ついで、今世紀に入ったころ、既存のプロテスタント教会が韓国キリスト教と積極的に交流を持つようになっていく。というのも、多くの教会では牧師の代替わりが始まっていたが、後継者不足に悩んでいた。そこで同じ宗派ということで韓国から牧師を派遣してもらうのである。
無論、この時点で韓流牧師のカルト性に気づくこともない。韓国人牧師の教会に韓国人信者が集まりコミュニティをつくり、やがて地域の日本人信者も呑み込まれていくようになるのだ。
戦後のプロテスタント教会(カトリックも、だが)は、かなり左傾化しており、抗日史観的な韓国系キリスト教を受け入れやすかったという点も見逃せないだろう。3.1騒乱を陰で扇動していたのは英米のキリスト教勢力であったことはよく知られているし、安重根、柳寛順、金九といった独立運動家やテロリストはのきなみクリスチャンであった。
ちなみに、左翼活動家の顔ももつ日本基督教団山手教会(東京渋谷)の創立者である平山照次牧師は、「女性国際戦犯法廷」の仕掛け人、松井やよりの父である。
そして、2011年の東日本大震災。日本人にとって、あの大震災は忘れることのできない深い傷となって記憶されるが、韓流牧師は、リバイバル(大量改宗)のチャンスと見たようだ。
先に紹介した汝矣島教会の趙鏞基は、大震災の翌日である3月12日にネット新聞「ニュース・ミッション」のインタビューで「(震災は)偶像崇拝と物質主義に明け暮れ神様を遠ざけてきた日本への神様からの警告」と発言、また13日には江南教会の金聖光は「日本には偶像は八百万ある。天皇は津波を防げなかった。天皇を祀る罪を見て神様が大地を揺さぶったのだ」と日曜礼拝で語り、さすがにこれらには韓国国内からも不謹慎との声が挙がったが、「日本人=偶像崇拝を行う霊的に劣った存在」という考え方は韓流牧師のほぼ共通したもので、この場合、偶像というのは神社と天皇のことである。「八百万の神」を文字通り八百万と解釈しているのも、どこかホホえましいではないか。「迷信と800万個の偶像に仕える日本人たちが、神を知らずに死んでいく魂になるのを捨て置けない」と、これは米アリゾナ在住の左永振宣教師の弁だ。
要するに、大地震は、不信心な日本人への懲罰であり、その日本人の魂の救済(布教)に乗り出さないといけないと言っているのである。
「クリスチャン人口が0.2%の日本は韓国教会にとって霊的にニネベと言えるでしょう」と堂々とホームページで言い切るのは「ヨナ祈禱会」なる韓国系キリスト教の団体だ。ニネベとは旧約聖書「ヨナ書」に出てくる悪しき異教徒の棲む穢れた都市のことである。神にニネベでの布教を命じられた預言者ヨナは、最初、それを拒んで海中に没するが、鯨に呑み込まれニネベまで運ばれる。神の命令に逆らえぬことを悟ったヨナは、ニネベの王に神の声を伝えると、王以下、ニネベの民はことごとく悔い改めたという。
つまり「われわれは神の使いとして、霊的に穢れた日本へ伝道に来た」といいたいらしい。
宮城や岩手などの被災地には、キリスト教団体の青年部なども積極的にボランティアとして参加しているようだが、その中には韓国系キリスト教関係者も少なからずいて、避難所にギターなどを持ち込み、わけのわからない歌を歌い布教に励んでいると、これは現地の声として筆者の耳にも届いている。末端の信者の多くは善意で参加していると思いたいが、彼らにとってあくまで被災者は「神を知らぬ穢れた民」でしかないのは確かなのである。
韓国キリスト教のこういった、独善的で傲慢、上から目線の態度は、彼らがボランティアと称して派遣された世界中の被災地で、現地の人たちとの軋轢(あつれき)を引き起こしている。
たとえば、2015年のネパール大地震の際、現地入りした韓国系キリスト教のNGO団体「グッドピープル」の緊急医療チームのメンバーが「今回の地震はヒンドゥー教を信じているから起こった」と発言して大問題となった。イスラム教国のリビアの難民キャンプで子供たちにお菓子と引き換えに「ハレルヤ」と言わせて、これも世界中の非難を浴びた。
ところが、日本人の多くは、戦後の自虐史観によって韓国への過度な贖罪意識を刷り込まれていて、これが韓国キリスト教の異様さから目を覆っている。彼らは、日本人の贖罪意識も布教の武器としているのだ。ドーム会場を使ったメガ布教イベント「ラブソナタ」で有名なオンヌリ教会の機関誌「オンヌリ新聞」(2007年7月17日付)にはこう書かれている。
《この日の礼拝で現地の日本人聖徒300人余りは、聖霊が導く感動によって、日本が過去に韓国に犯した過ちに対する赦しを求め、跪いて涙を流し、ラブソナタのスピリットである、信仰と和解の一致がおこりました》
赦す側、赦しを乞う側という、韓国人の好む二元論的上下関係が信仰の世界にも構築されているのだ。
ちなみにオンヌリの教祖・河用祚(故人)もまた、「日本が地震に見舞われたのはサタンの国」だといってはばからぬ典型的な反日牧師の1人である。
おそろしいのは、このような反日思想をもったカルト教が、次々に日本へ入ってきているということである。かの「新天地」も武漢肺炎拡大の責任追及を逃れるために、密かに本拠地を日本に移す計画があるという噂もあったが、今回の入国制限強化で、それはどうにか防ぐことができた。しかし、油断は禁物だろう。
反日工作の前線基地
カルトに限らず、日本人はキリスト教をロマンチックに考えすぎだ。歴史的に見て、彼らが布教の名の下にどれだけの原住民虐殺、収奪、強姦、植民地化と奴隷売買をやってきたかを知るべきだ。まさに侵略の宗教ではないか。
そして、宗教に免疫のない日本人にとって、韓国系キリスト教はまさに疫病である。その韓国系キリスト教は、韓国人の欧米移住とともに世界中に広がり、パンデミックの様相を呈している。在外韓国人にとって教会は彼らの閉鎖的コミュニティであり、そこは反日工作の前線基地である。グレンデール市をはじめ、その他の慰安婦像建立に韓国系キリスト教会がどれほど主導的な立場をとってきたかを知るべきである。
またニューヨークのユダヤ系コミュニティに取り入り、「慰安婦問題=ホロコースト」というプロパガンダづくりに余念のないグループの背後にオンヌリ教会がいることは意外に知られていない。それらについてもくわしく触れたいのだが、紙幅の都合もあるので、いずれかの機会にまた。
但馬 オサム(たじま おさむ)
1962年、東京生まれ。文筆人・出版プロデューサー・国策映画研究会会長。十代のころより、自動販売機用成人雑誌界隈に出入りし、雑文を生業にするようになる。得意分野は、映画、犯罪、フェティシズム、猫と多岐にわたる。著書に『ゴジラと御真影』(オークラ出版)、『韓国呪術と反日』(青林堂)など多数。
そして、宗教に免疫のない日本人にとって、韓国系キリスト教はまさに疫病である。その韓国系キリスト教は、韓国人の欧米移住とともに世界中に広がり、パンデミックの様相を呈している。在外韓国人にとって教会は彼らの閉鎖的コミュニティであり、そこは反日工作の前線基地である。グレンデール市をはじめ、その他の慰安婦像建立に韓国系キリスト教会がどれほど主導的な立場をとってきたかを知るべきである。
またニューヨークのユダヤ系コミュニティに取り入り、「慰安婦問題=ホロコースト」というプロパガンダづくりに余念のないグループの背後にオンヌリ教会がいることは意外に知られていない。それらについてもくわしく触れたいのだが、紙幅の都合もあるので、いずれかの機会にまた。
但馬 オサム(たじま おさむ)
1962年、東京生まれ。文筆人・出版プロデューサー・国策映画研究会会長。十代のころより、自動販売機用成人雑誌界隈に出入りし、雑文を生業にするようになる。得意分野は、映画、犯罪、フェティシズム、猫と多岐にわたる。著書に『ゴジラと御真影』(オークラ出版)、『韓国呪術と反日』(青林堂)など多数。