なぜ、緊急事態宣言なのか

 緊急事態宣言(4月7日発令)の本質とは何か──。

 それは、失業者と感染者をどのように抑えるかという「比較衡量論」である。感染症対策を重視すれば経済が破壊され、一方で経済を優先すれば人命を損なう。この采配をどのように振るのか、世界が注目する中での緊急事態宣言だった。

 確かに、緊急事態宣言に対する諸外国のメディアの批評には「宣言が遅い」「国民の移動の自由が認められているから意味がない」といった論調が目立った。しかし、国民の移動を完全に封じれば流通停止から失業者が増加し、経済は破壊される。かといって、国民が従来通りに活動すれば、感染者が増加し、結局、経済も人命も破壊される。この塩梅をどのようにするかが求められる中、安倍総理は緊急事態宣言を発令した。その背景には何があるのだろうか。

 要因は2つ――。

今こそ慣習の価値を再発見せよ

 第1に、日本における「宗教的衛生慣習」が大きい。
 例えば、再利用可能な布マスク2枚を各世帯に配布決定したことについて、海外メディアのみならず日本国内からも批判の声が上がった。これは、我が国の慣習に対する理解を欠いた批判である。

「神道」と、ヨーロッパ大陸に手洗いを普及させたハンガリー人医師、センメルヴェイス・イグナーツの逸話を紹介しよう。我が国の神道では、手水(ちょうず)といって手洗いと漱(すす)ぎをする「宗教的戒律」がある。神聖な場所へ入るには穢れを落とさなければならないとする思想が、はるか古代からあった。「穢(けが)れ」とは何かを科学的に考えた時、あることに気づく。それは、我が国の宗教的戒律と科学的感染症対策の一致である。

 例えば、不幸があったときの物忌みでは外出自粛をして人々が集合することを禁じ、かつ遺体には触れない。また、一定の場所から動かない農業従事者と比べて、不特定多数の人と日常的に接触する機会のある職業など、伝染性があるウイルスや細菌に感染する確率が高い対象には「穢れ」という概念を千年以上も昔から当てはめていた。これは、現在の私たちがしている感染症対策と大差ない。

 一方で、現在感染が爆発的に増えた西欧では、どのような文化だっただろうか。

 前述したセンメルヴェイスは、西欧諸国で初めて「手洗い」を提唱した人物として知られている。2つの産婦人科病棟があり、一方は産科専属医師が妊婦を診ていたが、一方は外科手術などして、ほかの患者の体液が手指に付着した医師たちが妊婦を診ていた。すると、前者の病棟での産褥死亡率は低いが、後者の病棟では妊婦が出産後に病死する割合が高い。

 センメルヴェイスは「医師が何らかの病原を妊婦に運んでいる」と考え、医師は患者を診察する前に手洗いをすべきだと提唱し、論文を発表した。ところが、欧州の医学界はこの主張を受け入れなかった。科学的エビデンス(証拠)を示したにもかかわらず、手洗いの重要性を主張するセンメルヴェイスを狂人扱いした。

 このように、神話の時代から手洗いと漱ぎを「宗教的戒律」にしていた我が国と、19世紀にもなって手洗い一つできなかった地域とでは、生活の基礎となる「慣習」に根本的相違がある。安倍総理による各世帯マスク2枚の配布を批判する勢力は、こうした歴史的背景に対する理解を欠く。

 新型コロナウイルス感染症は、体内に侵入したウイルスの数によって症状の進行が全く異なる。主な感染源は飛沫感染と接触感染であることから、日本国民にマスク着用を徹底させれば、他国と日本ではその効果が全く異なるのは自明の理だと言える。厚労省が発表した日本国内の感染者総数は4千数百名だが(4月8日時点)、このうち日本人と確認されたのは半数にも満たない。

 清潔な慣習の存在は、事態の逼迫性を緩和するため、欧米と日本は事情が異なり、経済との塩梅を検討した「緩やかな緊急事態宣言」が可能になったものと考えられる。

国家国民相互信頼の源泉とは

 第2に、我が国は国家の起源が他国とは異なり、「信頼を前提にした統治」がなされているということだ。この「信頼」というのは観念的なものではなく、ロバート・フィルマー著『フィルマー著作集』(伊藤宏之・渡部秀和訳)の「家父長制君主論(パトリアーカ)」によって、次のように説明することができる。

 原始、男と女がいた。この夫婦は愛し合い、子供たちを産んだ。夫婦は子供たちを愛するがゆえに、自らの財産(田畑・家畜)を「自らの子供である」というだけの理由ですべてを与えた。これを相続という。子供たちが成長し、また子供を産むと、かつて父母がそうしたように、自らの財産のすべてを我が子に与えた。こうして、世代を重ねるごとに広大な田畑と多数の家畜を所有するに至り、そこから生産される食料を「親から与えられなかった他人」に分け与え、他人はその食料によって子供を産むことができた。前者を国王と呼び、後者を臣民という。このように相続の連続によって国家は成立した。

「最初の国王は、最初の父親だった」とするフィルマーの言葉は、我が国にそのまま当てはまる。パトリアーカとは、ラテン語で「その血族集団における最高位の男性」を意味する。すなわち、我が国でいう天皇である。

国家の起源は相続か、契約か

 この「パトリアーカ」が発表された10年後、厳しく批判する理論が出版された。ジョン・ロックの『統治二論』である。国家の起源を「相続」と説明するパトリアーカを全体の半分近くを割いて全否定し、ロックは国家の起源を「契約」と説明した。原始時代、人民が相互に契約し、会社法人を設立するように「国家」を設立したというのである。

 通常、保守革新の違いは、この国家観の違いによって説明できる。国家の起源が相続であると考えるか、契約であると考えるかである。国家の起源が相続ならば、統治者と国民は血を分けた家族である。我が国は、天皇の赤子を大御宝とする天壌無窮の国体を持つ。国家と国民は相互に尽くすといった信頼を前提に統治はなされる。しかし、国家の起源が契約だとすれば、経営者が容赦なく被雇用者をリストラするように「不信」を前提に統治はなされる。

 こうした国家観の違いは、次に述べる憲法観の違いに発展し、緊急時における権利制限のあり方に強く影響する。感染症対策に強権を発動した諸外国は、契約を国家の起源とする。これに対して「緩やかな緊急事態宣言」となったのも、我が国が悠久の神代(かみしろ)から相続する王権を国家の起源とする歴史を持ち、国民と国家の血を分けた相互信頼を基礎にした憲法観があるため、他国とは全く異なるあり方になった。

 例えば、大日本帝国憲法下では戦時であっても、スパイや共産主義者を議会制定法によって投獄するとき、起訴し、裁判をしていた。帝国憲法第24条は、被告人が裁判を受ける権利を保障していたのである。しかし、英米では戦時下において裁判などしない。むしろ、被疑者だけではなく、その配偶者や子どもなどの家族も裁判所の令状なく逮捕し、判決なき拘禁をすることが憲法上、違法ではなかった。イギリス政府が定めた防衛規則(Defence Regulation 18B)で逮捕拘禁が認められていたからだ。

 例えば、イギリスの下院議員であったオズワルド・モズレー男爵(マクドナルド内閣ランカスター公領大臣)は、敵国ナチスドイツに対して協力の姿勢を見せていたので、その妻と共に令状なしで逮捕され、裁判なく収監された。モズレーは「マグナカルタに違反している」と主張したが、誰も耳を貸す者はいなかった。同じく、アメリカ合衆国でも、特定の人種や民族に属する人々を令状なしで逮捕し、裁判なしで強制収容所に入れることは、「合衆国修正憲法において合憲」であると連邦最高裁が判決を下している。言うまでもなく、日本にルーツを持つアメリカ国民の強制収容である。

 確かに戦後、大統領が日系人強制収容を過ちであったと認めたが、あくまで「日系人の」であり、強制収容自体を否定したことはない。日系人強制収容を合憲とした連邦最高裁の当該判例(Korematsu v. United States, 323 U.S. 214〈1944〉)は否定されることなく現在も有効である。ナチスドイツでさえユダヤ人迫害には「法律」を制定したのに対して、英米では法律すら存在せずに特定の人々を強制収容したことは、我が国と根本的に異なる。

 このように諸外国における「緊急時のあり方」をそのまま我が国に適用することは誤謬(ごびゅう)であり、比較すべき前提を欠くことになる。

民事上の私権制限の歴史と今

 では、私たちの日常生活に強く影響する民事上の私権については、どのような位置づけだろうか。我が国の私権は現行民法第1条で「公共の福祉に適合しなければならない」と明記されている。この精神の源流は、大日本帝国大審院が昭和10年10月5日に下した判決に由来する。

 この判例を説明すると次のとおりである。現在の富山県黒部市に宇奈月温泉があった。温泉の給湯管が私有地上に設置されていたことに目を付け、わずか2坪の面積の「土地の所有権」(私権)を侵害しているとして、多額の値段で土地を買い取るか、または給湯管を撤去せよとして提訴した事案につき、大審院はこのように判断した。

「社會觀念上所󠄃有權ノ目的ニ違背シ其ノ權能トシテ許サルヘキ範圍ヲ超脫スルモノニシテ權利ノ濫用ニ外ナラス」

 つまり、わずか2坪の土地を法外な値段で売りつけようとし、それがかなわないならば莫大な費用がかかる給湯管の撤去工事をしろと主張するのは、社会通念上許されないものであり、私権の濫用であると判断したのである。

 これは、今回の新型コロナウイルス感染症の対策についても、そのままあてはまる。他人に感染させる高度の蓋然性を持つ者が、みだりに権利を行使すれば、感染が拡大して莫大な損害が生じることは社会通念上明らかである。

 つまり、感染拡大を阻止しなければならない国家的要請がある中で、それを妨害する権利の行使はまさに「権利の濫用」にほかならず、保護するには値しない。我が国では、公共の福祉を尊ばなければならないとする社会通念が、広く国民に浸透しているものだと私は解している。

安倍晋三総理を信頼せよ

 感染症対策では、一定の強制力をもって行うことが求められる。このことは、予防接種の問題も同じだ。現在、新型コロナウイルス感染症に対する強い免疫獲得が期待され、オーストラリアなどで大規模な臨床実験がなされているBCG接種についても、昔から野党は非協力的であった。

 我が国では陸海軍の研究から、大政翼賛会の政治的指導によって徴用された労働者に対してBCG接種が開始されるも、占領軍によって中止させられた。その復活は占領が終わった昭和26年からであるが、ここでもひと悶着あった。第12回国会衆議院厚生委員会(昭和26年10月から11月)では、橋本龍伍厚生大臣(橋本岳厚労副大臣の祖父)に対して、野党はBCGの効果はないとか、強制接種は反対だと日本学術会議が言っているだのと主張していた。彼らは国益ではなく、与党に対するアンチテーゼを最大の目的とするのは、昔も今も変わらない。

 いま必要なことは、挙国一致で感染拡大の阻止と経済の保護の相反する政策を、いかにして両立させるかにある。諸外国は、すでに経済は度外視して、感染阻止のみに重点を置く政策を取っている。そうなれば、切り捨てられる人々が出てくる。

 しかし、安倍総理は違う。いま、免疫の弱まった老人たちは感染による命の危機を覚えている。妊婦たちは妊娠初期の感染による胎児障害の有無が現状わかっていないため怯えている。そして、サービス業や販売業に従事する人たちは、経済的危機に瀕し、失業と貧困の恐怖に慄いている。

 感染者数を減らすか、失業者数を減らすか──このどちらかを採ることしかできないと各国首脳が考える中、安倍総理だけが「感染」と「失業」という2つの恐怖から国民を救済しようと、緊急事態宣言を発令された。それと同時に、安倍総理は2400億円以上を投じて、中国大陸から本邦企業が撤退する費用の補助を始めた。これがどういう予兆なのか現時点ではわからないが、雇用が増えることに疑いを容れる余地はない。まさに、救国内閣であるといえよう。

 今こそ政府と国民との相互信頼を基礎にして、この国難を乗り切るべきだ。国民は団結せねばならない。畏くも天皇陛下より任命された安倍晋三内閣総理大臣を信頼するように広く国民に希う。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。

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