湯浅博:総理大臣の007をつくれ

湯浅博:総理大臣の007をつくれ

 中国もロシアも「権力は力なり」と心得ている国である。腕っぷしの強い者が独裁の有資格者で、その地位を脅かす者への弾圧は容赦がない。その代わり、いつ、もっと強い輩が現れないかと、内心は薄氷を踏む思いなのではないか。弾圧が行き過ぎれば反撃を受けるから、わずかながら抑止効果は残る。

 そこへ行くと、サイバー世界を操る力自慢たちは、ピロシキをかじりながらキーボードひとつで巨額資金を奪い取ることができる。こちらは、滅多なことでは犯人を割り出されることがなく、身の危険もないから抑止がまったく働かない。ましてロシア政府系や人民解放軍系のハッカー集団とくれば、国のお墨付きがあるからやりたい放題だ。

 JOC(日本オリンピック委員会)は昨年4月にサイバー攻撃を受け、復元のために身代金を要求する「ランサムウェア」に感染したことがある。だから、東京五輪・パラリンピック開会期間中は戦々恐々なのだ。開会中にアメリカの石油パイプラインがランサムウェアで打撃を受けたようなことが東京で発生すれば、大会どころか国民のライフラインが脅かされる。

 あちらはアメリカのFBI(連邦捜査局)は、ガソリン市場を混乱させたハッカーを追跡し、ついに支払われた身代金の大半を差し押さえることに成功した。ところが日本には、同じように強い措置をとるだけの枠組みも技術もない。サイバー犯罪は都道府県の県境どころか、国境もやすやすと超えていくのに司令塔がない。中露、北朝鮮のような国家レベルの攻撃に対抗するには、FBIばりの国家機関が不可欠だ。

 各国でサイバー事案に関わるのは、攻める側も守る側も連邦警察というより、多くは情報機関や軍が担当する。ところが、日本には本格的な情報機関がないし、自衛隊には制約が多い。ようやく警察庁が、都道府県警察から人材をかき集めて200人の「サイバー直轄隊」を置くことになった。が、日本が本格参入するには、さらに強力な情報機関の創設が欠かせない。
湯浅博:総理大臣の007をつくれ

湯浅博:総理大臣の007をつくれ

サイバー事案への対応はまさに「待ったなし」だ―
 その必要性は、サイバー犯罪ばかりでなく、海外で邦人殺害脅迫事件が起きるたびに、情報機関の必要が叫ばれながら、与党の惰性と野党の無責任が日本国民を守る情報と防衛の「掛け金」を出し渋るのだ。
 
 安倍晋三前首相がIS(イスラム国)事件の教訓から、素早く対外情報機関の創設に向けた検討を開始したものの、いつの間にか頓挫してしまった。政権も代わって、ついに東京五輪の開催を迎えてしまった。

 戦後日本は日米安保条約の真綿に包まれ、対米依存心を克服できないまま今日に至った。しかし、アメリカの覇権に陰りが出始めただけに、日本が自立性の高い海洋国家に脱皮しなければ、やがて日米同盟すら機能しない日がやってくる。日本人を標的にした攻撃に対しても、独自にその危機を察知する情報力と、これに対処する防衛力の整備は待ったなしだ。

 スイス政府編の「民間防衛」は、原爆で都市が急襲されたときは35%しか助からないが、警報があれば60%、待避壕にいれば90%が助かると分析した。事前情報の有無が被害者数の多寡に直結するなら、普通の政府と議会は、まず対外情報機関を充実させようとするのではないか。

 戦後まもなく吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約発効後の国家モデルをイギリスに求めた。疲弊したイギリスが戦後も影響力を持ちえたのは、対外的な「交渉力」と「情報力」にあると考えたからだ。吉田は当時の国力から再軍備には耐えられないと判断し、軍事は日米安保条約でアメリカに委ね、非軍事ではMI6(イギリス情報局秘密情報部)のような情報機関の創設を指示した。

 昭和27年4月に講和条約が発効する直前、吉田は非力ながら内閣総理大臣官房調査室を設置した。だが、吉田が期待する本格的な情報機関になる前に二つの障害にぶつかった。一つは左翼政治家による攻撃であり、もう一つは旧内務官僚と外務官僚の深刻な対立であった。かくて官房調査室は内閣調査室に改組され、単なる情報分析組織にとどまった。

 安倍前首相はイスラム国事件を受けて、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携していく」と述べた。そのためには緊急事態法をつくり、スパイ防止法を制定し、外国スパイを犯行前に拘束する法の制定も必要である。

 菅義偉首相がその後継を自認するのなら、憲法改正を視野に、主要国並みに日本国民を守る情報と防衛の手立てを構築して見せたらよい。総理大臣の007をつくれ。
湯浅 博(ゆあさ ひろし)
1948年、東京生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。

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