先週、森喜朗会長の発言が「性差別」であると非難の声が挙がり、マスコミをはじめEU諸国の駐日大使館公式Twitterアカウントまでもが抗議の意思表示をした。これを受けて日本オリンピック委員会会長職の辞任を求める世論が高まった。
しかし、森喜朗会長の当該発言を俯瞰すると、前段で女性の生物的特徴の短所に言及し、後段で同じく生物学的特徴の長所を述べている事実が確認できる。問題とされているのは前段の「生物学的短所」への言及であるが、なぜ、ここまで当該発言が広範囲な影響を及ぼしたのであろうか。その謎を解き明かすには、単に近年のジェンダー論のみならず、「宗教と科学の対立」という、より大きな視点で論じなければ理解することができない。
そこで本論は、宗教と科学の対立に係わる歴史的出来事を参照しつつ、問題の本質を論じたく思う。
しかし、森喜朗会長の当該発言を俯瞰すると、前段で女性の生物的特徴の短所に言及し、後段で同じく生物学的特徴の長所を述べている事実が確認できる。問題とされているのは前段の「生物学的短所」への言及であるが、なぜ、ここまで当該発言が広範囲な影響を及ぼしたのであろうか。その謎を解き明かすには、単に近年のジェンダー論のみならず、「宗教と科学の対立」という、より大きな視点で論じなければ理解することができない。
そこで本論は、宗教と科学の対立に係わる歴史的出来事を参照しつつ、問題の本質を論じたく思う。
否定され続けてきた「経験」と「科学」
例えば17世紀、ガリレオが地動説を提唱したところ、ローマ・カトリック教会は「地球が動くことなどありえない」と主張し、ガリレオを裁判にかけて無期懲役の重罪人であるとした。ガリレオ以前にも地動説の提唱者はいたが、いずれもローマカトリックの宗教観と対立することを恐れて自説を撤回していた。ガリレオのみが科学を貫き通したため、犯罪者とされたのだ。
同様の現象はその後も人類史に続く。18世紀にベンジャミン・フランクリン(米100ドル紙幣の肖像)が「雷の正体は電気である」とする科学的主張をした。凧と糸を用いた気象実験で雷による通電を確認したためだ。しかし、当時の世論は「雷は神の怒りである」とする立場を変えず、雷が電気であるとする説は「異常者の考え」であると嘲笑した。
また、19世紀には医師のセンメルヴェイス・イグナーツがこんな発見をした。同じ医療設備がある2つの産婦人科病棟において、一方は、ほかの病気の患者を診察した医師が妊婦を診察し、もう一方は、妊婦のみしか診察しない医学生のみが出入りしていたところ、ほかの病気の患者を診察した医師らが出入りする病棟での妊婦死亡率が高いことに注目し、「何らかの目に見えない微生物がほかの患者から妊婦に感染して妊婦を死亡させている」と推測し、「医師は手洗いをすべきだ」と主張した。すると、医学会は「目に見えない微生物など存在しない。医師に手洗いを要求するなど精神障害者である」と判断した。
このように、宗教とは必ずしも宗教法人の体裁であるとは限らず、人の信念や認知機能などに幅広く内在している。観念とは感情の産物であり、人の快不快の知覚を決定づける。先の例に挙げた地動説はカトリックの不快を買い、雷が電気だという主張は大いなる自然に対する人々の信仰心を傷つけ、医師が病原を伝染させているという主張は医師の名誉感情を傷つけたのだ。
しかし、これらの提唱者はいずれも緻密な観察と実験という「経験」を根拠にした新たな発見を述べている。つまり、宗教と科学の対立とは、感情と経験の対立なのである。神の存在は経験できない。感じるものである。しかし、科学は再現性があり誰もが経験できる(※神の存在も経験できるとする宗教的経験の諸相の議論は本論では差し置く)。
同様の現象はその後も人類史に続く。18世紀にベンジャミン・フランクリン(米100ドル紙幣の肖像)が「雷の正体は電気である」とする科学的主張をした。凧と糸を用いた気象実験で雷による通電を確認したためだ。しかし、当時の世論は「雷は神の怒りである」とする立場を変えず、雷が電気であるとする説は「異常者の考え」であると嘲笑した。
また、19世紀には医師のセンメルヴェイス・イグナーツがこんな発見をした。同じ医療設備がある2つの産婦人科病棟において、一方は、ほかの病気の患者を診察した医師が妊婦を診察し、もう一方は、妊婦のみしか診察しない医学生のみが出入りしていたところ、ほかの病気の患者を診察した医師らが出入りする病棟での妊婦死亡率が高いことに注目し、「何らかの目に見えない微生物がほかの患者から妊婦に感染して妊婦を死亡させている」と推測し、「医師は手洗いをすべきだ」と主張した。すると、医学会は「目に見えない微生物など存在しない。医師に手洗いを要求するなど精神障害者である」と判断した。
このように、宗教とは必ずしも宗教法人の体裁であるとは限らず、人の信念や認知機能などに幅広く内在している。観念とは感情の産物であり、人の快不快の知覚を決定づける。先の例に挙げた地動説はカトリックの不快を買い、雷が電気だという主張は大いなる自然に対する人々の信仰心を傷つけ、医師が病原を伝染させているという主張は医師の名誉感情を傷つけたのだ。
しかし、これらの提唱者はいずれも緻密な観察と実験という「経験」を根拠にした新たな発見を述べている。つまり、宗教と科学の対立とは、感情と経験の対立なのである。神の存在は経験できない。感じるものである。しかし、科学は再現性があり誰もが経験できる(※神の存在も経験できるとする宗教的経験の諸相の議論は本論では差し置く)。
「経験主義」から森会長発言を精査する
そこで先週の森喜朗会長の発言を科学的立場から考えると、どのようになるか。まず、「女性のいる会議は長い」とは「女性の話が長い」との趣旨であると理解するならば、次のことが言える。
女性の大脳新皮質は男性に比べて遥かに厚い。このため、例えば頭示数(cephalic index)という頭骨形態の基準も、男女では適用される数値が異なる。女性の頭骨の方が大きいのだ。新皮質が厚いということは、それだけニューロンの数も物理的に多い。つまり、脳細胞を巡る電気信号も男性に比べて「長距離」を走ることになる。加えて、エストロゲンなどの女性ホルモンは脳が思考するときに必要な神経伝達物質のドーパミンを抑制する。そうなれば、性全体でいえば女性の方が「思考の時間が長い(※)」のは科学的事実であるといえる。従い、女性は話が長いし、風呂も長い。速度よりも正確性を求めているからだ。従い、男性に比べて正しい結論を出すから犯罪率も全世界的に男性より低く、丁寧にゆっくり身体を洗うから清潔である。
※思考時間の長短は思考の優劣とは異なります。
もちろん、これはすべての女性に適用される話ではない。なぜならば、女性として生まれた場合でも、双子の兄弟がいて母体内で男性ホルモンを被曝した場合や、先天性副腎過形成症という病気、そして23トリソミー女性(トリプルX症候群)といって性染色体のX染色体が3つある場合など、必ずしも女性ホルモンの分泌と受容が「ほかの女性と同一範囲」であるとは言えない事例もある。
しかし、そうはいっても「ホモサピエンス全体」から言えば、女性は女性ホルモンの分泌によって骨の成長が阻害されて男性より低身長化し、筋肉も男性のように発達せず、体脂肪は多く蓄えられる。こうした「科学的事実」を基礎にした上で、男性よりも厚い大脳新皮質で物事を考えた場合、「女性の意見はいつも的を射ている」といった森喜朗会長発言の後段の部分を理解することができる。
今回、森喜朗会長の発言に抗議の意思表示をしたのはいずれもヨーロッパ(大陸)諸国であり、英米圏はこれに含まれない。つまり、これは経験主義を基礎にした哲学で国家を発展させた英米と、経験とは低俗な人間が尊重するものであるとしてきたヨーロッパの経験否定主義(大陸合理論)の対立であると言える。
女性の大脳新皮質は男性に比べて遥かに厚い。このため、例えば頭示数(cephalic index)という頭骨形態の基準も、男女では適用される数値が異なる。女性の頭骨の方が大きいのだ。新皮質が厚いということは、それだけニューロンの数も物理的に多い。つまり、脳細胞を巡る電気信号も男性に比べて「長距離」を走ることになる。加えて、エストロゲンなどの女性ホルモンは脳が思考するときに必要な神経伝達物質のドーパミンを抑制する。そうなれば、性全体でいえば女性の方が「思考の時間が長い(※)」のは科学的事実であるといえる。従い、女性は話が長いし、風呂も長い。速度よりも正確性を求めているからだ。従い、男性に比べて正しい結論を出すから犯罪率も全世界的に男性より低く、丁寧にゆっくり身体を洗うから清潔である。
※思考時間の長短は思考の優劣とは異なります。
もちろん、これはすべての女性に適用される話ではない。なぜならば、女性として生まれた場合でも、双子の兄弟がいて母体内で男性ホルモンを被曝した場合や、先天性副腎過形成症という病気、そして23トリソミー女性(トリプルX症候群)といって性染色体のX染色体が3つある場合など、必ずしも女性ホルモンの分泌と受容が「ほかの女性と同一範囲」であるとは言えない事例もある。
しかし、そうはいっても「ホモサピエンス全体」から言えば、女性は女性ホルモンの分泌によって骨の成長が阻害されて男性より低身長化し、筋肉も男性のように発達せず、体脂肪は多く蓄えられる。こうした「科学的事実」を基礎にした上で、男性よりも厚い大脳新皮質で物事を考えた場合、「女性の意見はいつも的を射ている」といった森喜朗会長発言の後段の部分を理解することができる。
今回、森喜朗会長の発言に抗議の意思表示をしたのはいずれもヨーロッパ(大陸)諸国であり、英米圏はこれに含まれない。つまり、これは経験主義を基礎にした哲学で国家を発展させた英米と、経験とは低俗な人間が尊重するものであるとしてきたヨーロッパの経験否定主義(大陸合理論)の対立であると言える。
日本はより「経験主義」を尊重すべきである
日本は明治維新後に江戸時代までに蓄積した経験則を「天皇」以外は多く捨て去り、欧州の合理主義を取り入れて近代国家を発展させた。科学とは経験の積み重ねによって発展するものであるから、英米の科学力に対抗出来ず結果的に戦争に敗北し、今度は社会制度に英米の経験論を取り入れた。しかしながら、森喜朗会長への非難をみると、未だ「経験主義を否定した感情主義」は日本社会に根強いと思える。
経験主義を物理分野に適用した思考を科学といい、政治分野に適用した思考を保守主義という。そのため、元来保守主義と科学主義は親和性が高い。多くの保守主義者が森喜朗会長を擁護し、バッシングに異常性を覚えたのも、科学的な経験則に反するためであろう。ジェンダー論も共産主義も「経験に立脚した思想ではない」という点において宗教と変わりない。
日本は、もはやヨーロッパ大陸型の合理主義(経験否定主義)を採用し続けるべき時局ではない。頭の中だけで考えた理屈を現実世界に適用したところで、全く意味をなさないどころか無意味な紛争を生じさせるだけである。
以上見てきたように、森喜朗会長の発言は科学的な観点と経験主義に照らせばに何ら問題のあることではない。従って、その発言を一方的に非難することは日本にはふさわしくない宗教由来の(大陸型)感情論に基づくか、何らかの政治的意図によってなされたものであると考えざるを得ない。このことから、私は保守主義に基づいて、森会長の発言を擁護するものである。
経験主義を物理分野に適用した思考を科学といい、政治分野に適用した思考を保守主義という。そのため、元来保守主義と科学主義は親和性が高い。多くの保守主義者が森喜朗会長を擁護し、バッシングに異常性を覚えたのも、科学的な経験則に反するためであろう。ジェンダー論も共産主義も「経験に立脚した思想ではない」という点において宗教と変わりない。
日本は、もはやヨーロッパ大陸型の合理主義(経験否定主義)を採用し続けるべき時局ではない。頭の中だけで考えた理屈を現実世界に適用したところで、全く意味をなさないどころか無意味な紛争を生じさせるだけである。
以上見てきたように、森喜朗会長の発言は科学的な観点と経験主義に照らせばに何ら問題のあることではない。従って、その発言を一方的に非難することは日本にはふさわしくない宗教由来の(大陸型)感情論に基づくか、何らかの政治的意図によってなされたものであると考えざるを得ない。このことから、私は保守主義に基づいて、森会長の発言を擁護するものである。